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2009.04.29 (Wed)

脳内バルトとバトルしながら幻の「中心性文化」について語る

裏モノ日記 2002年 07月 05日 (金曜日)
http://www.tobunken.com/diary/diary20020705000000.html

 だいたい、どんなエラい学者だろうと外国人が日本を論ずると(もちろん、
日本人が外国を論じても)トンデモに近いコジツケになりがちなことは、
ロラン・バルトの『表徴の帝国』などの頓珍漢ぶりを読めばよくわかる。著者
曰く、“スキヤキは出てきたときには一幅の絵画であり、肉を食べたり、葱を
食べたり、白滝を食べたり、人はそれを自由な順序で食べる。いわば日本
人は同じ鍋からスキヤキを食べながら、各人が別個の料理を創造している
のだ”……んなわけはない、みんなフツー肉から食べるよ! と誰かバルト
先生に教えてやらなかったのか。牛肉はあまり煮すぎない方がうまいから
先に食べる。しかし葱や白滝はよく煮て、味が染みないと食ってもうまくも
なんともない(味のついてない白滝が好き、とかいう特殊嗜好の人を除く)。
肉から食うのは中心性文化の表れでも何でもない、合理的帰結だ。スキ
ヤキ(に限らず日本文化)に対し、何か俯瞰した立場から評論してやろうと
いう傲慢態度でなく、色眼鏡をかけないきちんとした知識をまず謙虚に吸収
しようという態度さえあれば、こういうバカを書かないですむのだが。いや、
もっとバカなのはこういう記述をありがたがって読んでいる学問オタクの方
か。ことはアニメでもゲームでも同じなのである。

http://s03.megalodon.jp/2009-0425-1114-25/www.tobunken.com/diary/diary20020705000000.html

割下の味は家庭それぞれ、カルスタを貶せば喜ぶかどうかも読者それぞれ」で、
予告 (?) しておいた、唐沢俊一は『表徴の帝国』に書かれていることを不正確に要約
しているよ問題について。

といっても、2ちゃんねるのスレへの書き込み (Read More 参照) に、つけ加える情報は
あまりないのだけど。

唐沢俊一の書いている、“スキヤキは出てきたときには一幅の絵画であり、肉を食べた
り、葱を食べたり、白滝を食べたり、人はそれを自由な順序で食べる。いわば日本人は
同じ鍋からスキヤキを食べながら、各人が別個の料理を創造しているのだ” に、ぴった
り該当するような箇所は、『表徴の帝国』にはない。

ロラン・バルト『表徴の帝国』の中の、「水と破片」 (すき焼きについては言及していない)
の記述と、「中心のない食物」 (《すき焼き》が話題の中心) の記述とを、適当につぎはぎ
して、原文に書かれてもいないことを書いてあるかのように捏造しているのが、唐沢俊
一の日記の文章なのだ。

「スキヤキは出てきたときには一幅の絵画」は、「水と破片」にある「日本料理の食膳は、
このうえなく精妙な一幅の絵と似ている」というのと、「中心のない食物」の中の「これら
のなまの材料のいっさいは、まず、オランダの絵画のなかにおけるように、集められて
盛り合わされている」を混ぜたようなもの。「オランダの絵画」というのは、2ちゃんねるの
スレに書き込んだ人のいう通り (Read More 参照)、17 世紀の静物画のことだろう。

また、《すき焼き》を話題にしている「中心のない食物」には、「食卓の上において、取り
皿の上において、料理は単なる断片のコレクションであるにすぎず、どれからさきに食べ
られなければいけないという特権的な順序をもってはいない」とは書いてあるけど、「肉を
食べたり、葱を食べたり、白滝を食べたり」のような記述は存在しない。「水と破片」の方
に、「おつゆの一のみ、御飯の一口、野菜の一つまみ、それらを交互にどう選ぼうと、あ
なたの自由である」とあるので、それを勝手に流用 (?) したと思われる。

ついでに、「中心のない食物」には、「肉」や「白滝」の単語はあっても「葱」はなく、バルト
が食べたすき焼きに、そもそも葱が入っていたかどうかさえ、はっきりしない。

そして「同じ鍋からスキヤキを食べながら、各人が別個の料理を創造」というのは……
「各人が別個の」は唐沢俊一が勝手にいっているだけだし、「料理を創造」うんぬんという
のも「中心のない食物」の《すき焼き》にはなく、「水と破片」に「どんな食べものをとるか、
その組み合わせをあなた自身がおこなうことによって、あなたはあなたの食べるものを、
いわばつくることとなる」などと書いてあるだけ。それも「各人が別個の」というより、「時間
と空間の遠くにおかれて準備されたのちに差し出される物化された西洋の料理」とに
対比されるものとして語られている。

「同じ鍋からスキヤキを食べながら、各人が別個の料理」も何も、「水と破片」でも「中心
のない食物」でも、他の客と自分の食べているのが同じ料理か、それとも「別個の料理」
かということについて、特にバルトが着目し何か語っているわけではないのだ。そもそも、
「同じ鍋からスキヤキを食べ」ていた他の人がいたかどうかさえ、明示的に書かれている
わけではないし。

で、たとえ同席した他の客がいなかったとしても、「材料の出し入れは、あなたのやや
斜めうしろに坐った女性アシスタントがとりしきり、長い箸を構えた彼女は、大鍋と会話と
に交互に材料を補給する」のだから、すき焼きの食べ方について「誰かバルト先生に教
えてやらなかったのか」という唐沢俊一の言は、無用な心配、大きなお世話であろう。

というか、唐沢俊一の語る「スキヤキ」の食べ方より、バルトの書く《すき焼き》の方が
違和感が少ないのだけど。大皿に材料が盛りつけられていて、鍋の中で煮えて醤油の
色と味がしみ込んだものを、好きなように取り皿にとって食べて、鍋の中身が減って
いったら、大皿にある材料を補給していって。これに対し、唐沢俊一風スキヤキは、
肉を食べつくした後に、葱や白滝を食べておしまいのようにも読める。

さらに唐沢俊一は、「肉から食うのは中心性文化の表れでも何でもない、合理的帰結だ」
という意味不明なことも書いているが、バルトは、「《中心》がない」といっている日本料理
のことはもちろん、「料理の中心」をもつフランス料理のことだって、「中心性文化の表れ」
とはいっていない。そもそも「中心性文化」という言葉が『表徴の帝国』に登場しない。

まあ、要するに、「何か俯瞰した立場から評論してやろうという傲慢態度でなく、色眼鏡を
かけないきちんとした知識をまず謙虚に吸収しようという態度さえあれば、こういうバカを
書かないですむのだが」というのは、バルトの『表徴の帝国』、唐沢俊一の Web 日記、
どちらの話だ、ということではないかと。


『表徴の帝国』 P.24
>水と破片
> 日本料理の食膳は、このうえなく精妙な一幅の絵と似ている。それは、暗い色合い
>の基調の上にさまざまな事物(茶碗、蓋物、小皿、箸、こまごまとした食べものの
>盛り合わせ、灰色の生姜、オレンジいろの野菜の芽、褐色のたまり醤油)が配置され
>た額であり、そこにある器と食べものはひどく小さくて細かいが、しかし幾種類もあっ
>て、日本の食膳はピエロ・デラ・フランチェスカの《絵画とは、それぞれの表現により
>大きくなり小さくなっていく表明と事物の関係の明示にほかならない》という絵画の
>定義を具現しているおもむきがある。
〈略〉
>そして、その生のままの食べものの取り合わせをどれから食べはじめるかというその
>順序は、どんな作法 (プロトコル) によっても決められてはいない(おつゆの一のみ、
>御飯の一口、野菜の一つまみ、それらを交互にどう選ぼうと、あなたの自由である)。
>料理の技術のすべては組み合わせにある。どんな食べものをとるか、その組み合わ
>せをあなた自身がおこなうことによって、あなたはあなたの食べるものを、いわばつく
>ることとなる。食膳の料理は、慎重に、時間と空間の遠くにおかれて準備されたのち
>に差し出される物化された西洋の料理(複合し、飾り、薫りをこめ、色どりを料理に
>与えるためでありさえすれば、《いっさいが許されている》秘密の一室、調理場の壁の
>うしろで、前もって丹念につくられた料理)とは、もはやことなる。ここから《生けづくり》
>(《自然な》ということではない)という特性が日本料理に生まれる。


『表徴の帝国』 P.35 ~ P.37
>中心のない食物
> 《すき焼き》は、お客が見てとれるし、また見知っている材料を使ったシチューであ
>る。《すき焼き》は、あなたが食べている間じゅう、あなたの目の前で、食卓そのもの
>の上で、その場で調理されるものなのだから。なまの材料が大皿にもられて運んで
>こられる(なまの、とはいっても、毛をむしられ、洗いあげられて、春着の洋服のように
>輝かしく、彩りあざやかで、調和にとむ、いわば美しきヌードとなっているなまの材料。
>あのディドロだったら、こう言うところではあるまいか。《色彩、繊細、効能、調和、
>いっさいのものがこのシチューのなかにある》と)。いまあなたの目の前に届いたの
>は、じつは市場の実質そのもの、つまり新鮮さ、自然さ、多様さ、さらには単なる素材
>を食事のドラマの約束へと変化せしめる仕分け、である。どんな人々でも手に入れる
>ことのできる、自然にして同時に商品、自然商品である市場の商品、さまざまなものの
>複合物であるこれらのなまの材料、そこに光る食欲の焔。食べられる葉っぱ、野菜、
>白滝、豆腐、卵の黄味、赤い肉、白い砂糖
〈略〉
>これらのなまの材料のいっさいは、まず、オランダの絵画のなかにおけるように、集め
>られて盛り合わされている。オランダの絵画のあの特徴線の目、その画筆の柔軟な
>力強さ、その色感ゆたかなニスの輝き(これが事物の材質感のせいなのか、その場
>の光線のせいなのか、絵の上にかけられた塗油のせいなのか、それとも美術館の
>照明のせいなのか、それは判らないのだが)、その輝きをおびたなまの材料は、やが
>て少しずつ大鍋に移され、あなたの目の前で焼かれ、そこでおのおのの色と形と非連
>続を失い、やわらかくなり、本来の自然をなくし、醤油特有の色、焦げ茶色となる。
>このできたてのシチューのなかのいくつかの断片を、あなたが箸のさきで取りあげて
>食べてゆくにつれて、つぎつぎに新しくなまの材料がいれられてうめあわせがおこな
>われる。この材料の出し入れは、あなたのやや斜めうしろに坐った女性アシスタント
>がとりしきり、長い箸を構えた彼女は、大鍋と会話とに交互に材料を補給する。彼女は
>あなたが目で食べる食物の小さなオデュッセウスなのである。あなたが立ち会ってい
>るのは、《なまの食物なる神々の黄昏》なのである。


『表徴の帝国』 P.39 ~ P.40
>どんな日本料理にも、《中心》がない(食事に順序をあたえ、料理を取り囲み、ナプキン
>をかけたりする儀式によって、フランスでは、料理の中心がうまれるのだが)。日本料
>理にあっては、いっさいがもう一つの別の装飾のための装飾である。なぜなら、第一
>の理由は、食卓の上において、取り皿の上において、料理は単なる断片のコレクショ
>ンであるにすぎず、どれからさきに食べられなければいけないという特権的な順序を
>もってはいないからである。〈略〉第二の理由は――ここにこそその独自性があるのだ
>が――料理作りの時間と料理費消の時間とを、一瞬のうちに結びつけるからである。
>《すき焼き》、この作るのも費消するのにも終ることのない料理、その料理作りの技術
>的な難しさのためではなく、人が煮るにつけて費消することを本質とし、したがって
>《繰り返される》ことを本質とするこの料理、《すき焼き》には、食べはじめの合図(目の
>前に運んでこられた、食べものによって描かれた大皿)しかない。《食べはじめてしま
>う》と、これという明確な瞬間も場所も、もはや存在しない。《すき焼き》はとだえること
>のないテキストのように、中心をもたないものとなる。


だいたい、冷静に考えて、仮にバルトが“スキヤキは出てきたときには一幅の絵画であ
り、肉を食べたり、葱を食べたり、白滝を食べたり、人はそれを自由な順序で食べる。い
わば日本人は同じ鍋からスキヤキを食べながら、各人が別個の料理を創造しているの
だ” といっていたとして (実際はいっていないけど)、そして唐沢俊一のいうようにすき焼き
は「みんなフツー肉から食べる」 (前のエントリーに書いた通りそれは違うと思うけど) もの
だとして、それが「トンデモに近いコジツケ」だの「こういうバカ」だの、口汚く非難するに
値することなんだろうかとも思う。

唐沢俊一の脳内バルトは「スキヤキ(に限らず日本文化)に対し、何か俯瞰した立場から
評論してやろう」という意図で『表徴の帝国』を書いたようだが、実際のバルトはそういう
つもりではなかったようだぞ、という問題もある。

『表徴の帝国』 P11
>かなた
〈略〉
>わたしはまた、実在する国のどんな些細な現実にしろ再現したり分析したりしようとは
>せずに(その逆こそが西洋的な陳述の企図するところなのだが)、この世のなかのどこ
>かしら(かなた)の、幾つかの特徴線(この、製図法的にして、かつ言語学的な言葉よ)
>を抜き取って、この特徴線で一つの世界をはっきりと形成することである。日本、と
>わたしが勝手に名づけるのは、そういう世界である。


この筑摩文庫の『表徴の帝国』の裏表紙には、「これはエクリチュールについての本で
ある。日本を使って、わたしが関心を抱くエクリチュールの問題について書いた。日本は
わたしに詩的素材を与えてくれたので、それを用いて、表徴についてのわたしの思想を
展開したのである。」とも書かれている。


その他参考 URL:
- http://palantir.exblog.jp/109352/
- http://izumingo.blog14.fc2.com/blog-entry-1793.html
- http://blogs.yahoo.co.jp/silkroad_desert9291/41263801.html
- http://www.waseda.jp/edu/pdf/gakujutu/gaikokugo53.pdf

自分と同じく、バルトはああ書いているけど、懐石料理 (会席料理) はどうなのよと思った
人は、一番下の http://www.waseda.jp/edu/pdf/gakujutu/gaikokugo53.pdf を参照して
みるのもよいかも。


ロラン・バルト関連の唐沢俊一によるパクリとガセ:
アンニュイで地下ルートな美少年だってさ
「ギリシア彫刻のように」も他人の翻訳からのパクリ
ロラン・バルトの言葉を正確に引用していないので要注意
ロラン・バルトも何だかいろいろ大変だ



More...

http://love6.2ch.net/test/read.cgi/books/1239920365/624-
-------
624 :無名草子さん:2009/04/22(水) 13:25:47
『トンデモ本の世界U』(楽工社・刊行日 2007/09/27)で唐沢は、ピーター・
ミュソッフ著『ゴジラとは何か』を取り上げている。
外国人が他国の文化を研究する際、よほど広範な知識がないと的外れになることを
指摘し、その例としてロラン・バルトの『表徴の帝国』を挙げている。
↓その内容は、この2002年の日記からのほぼ丸ごと流用だった。
http://www.tobunken.com/diary/diary20020705000000.html

『表徴の帝国』については、日本論を書こうとしたのではなく日本を使って
エクリチュールの問題について書いたと著者が前置きしている。
それを唐沢が理解していないための誤読がみられるが、それは措いといて…

唐沢の文中の『表徴の帝国』からの引用部分だが、書名(訳書のタイトル)と
原著の発行年のみ記されていて、訳者や訳書の発行年・出版社等の記述は無し。
引用された文章は、別の章の意味の異なる文を勝手に合成し改竄されているので、
結果『表徴の帝国』の本来の文とは意味が違ってしまっている。
ちくま学芸文庫『表徴の帝国』(訳・宗左近)中の該当部分と比較してみてほしい。

680 :無名草子さん:2009/04/23(木) 12:59:40
『トンデモ本の世界U』(楽工社・刊行日 2007/09/27)
ちくま学芸文庫『表徴の帝国』(訳・宗左近)

共に手許の無く、正確な引用ができないのだが、
↓前者でピーター・ミュソッフ著『ゴジラとは何か』取り上げた文章の一部は、ほぼこれと同じ。

「裏モノ」日記2002年07月 05日(金曜日)
http://www.tobunken.com/diary/diary20020705000000.html
>だいたい、どんなエラい学者だろうと外国人が日本を論ずると(もちろん、日本人が外国を論じても)
>トンデモに近いコジツケになりがちなことは、ロラン・バルトの『表徴の帝国』などの頓珍漢ぶりを
>読めばよくわかる。著者曰く、“スキヤキは出てきたときには一幅の絵画であり、肉を食べたり、
>葱を食べたり、白滝を食べたり、人はそれを自由な順序で食べる。いわば日本人は同じ鍋からスキヤキを
>食べながら、各人が別個の料理を創造しているのだ”……んなわけはない、みんなフツー肉から食べるよ! 
>と誰かバルト先生に教えてやらなかったのか。牛肉はあまり煮すぎない方がうまいから先に食べる。しかし
>葱や白滝はよく煮て、味が染みないと食ってもうまくもなんともない(味のついてない白滝が好き、とか
>いう特殊嗜好の人を除く)。肉から食うのは中心性文化の表れでも何でもない、合理的帰結だ。スキヤキ
>(に限らず日本文化)に対し、何か俯瞰した立場から評論してやろうという傲慢態度でなく、色眼鏡を
>かけないきちんとした知識をまず謙虚に吸収しようという態度さえあれば、こういうバカを書かないで
>すむのだが。いや、もっとバカなのはこういう記述をありがたがって読んでいる学問オタクの方か。
>ことはアニメでもゲームでも同じなのである。


689 :680:2009/04/23(木) 13:25:38
バルトが『表徴の帝国』で、すきやきについて書いているのは「中心のない食物」という章。
そこには、すきやきについて「一幅の絵画」とは書かれていないし、「肉を食べたり、葱を食べたり、
白滝を食べたり、人はそれを自由な順序で食べる。いわば日本人は同じ鍋からスキヤキを食べながら、
各人が別個の料理を創造しているのだ」とも書かれていない。

出てきた時のすきやきの材料を見た印象をオランダ絵画に喩えたり、「どの食材から食べなくては
ならないという特権的な役割を与えられてはいない」とは書いている。

「一幅の絵画」とは、「水と破片」という別の章で、日本料理の食膳を表現するのに使っている言葉。
「自由な順序で食べることにより、各人が別個の料理をいわば作る」というようなことも同じ章で言っている。

唐沢は、別々の章に書かれた記述を勝手に合成・改竄しているが、視覚的印象や食べる順序について、
この異なる二つの章では、書かれている意味がまるで違うのだ。
その件については後で・・・

慌ただしい中書いているので、文章がグチャグチャで申し訳ない。

693 :無名草子さん:2009/04/23(木) 13:44:24
すき焼きに卵は絶対に必要という人もいれば、まず肉そのものの旨味から味わうのが当然という人もいるだろう。
決まった食べ方、作法がある訳ではないという意味では確かに自由であり、
いわば同じ鍋から、各人が別個の料理を創造しているのだ、といういい方も
あながち間違いとは言いきれまい。
ここに鍋奉行よばれる強権主義者が現れるわけだが、その理由は基本的に鍋食が無秩序であり、
無政府主義的だからである。そのもっとも過激な形が闇鍋あり、
これは食の中にテロをもちこむアナキズムであろう。

699 :無名草子さん:2009/04/23(木) 14:47:46
>>689
>慌ただしい中書いているので、文章がグチャグチャで申し訳ない。

いえいえ、唐沢悪文に比べたら100倍読みやすいですよ。

705 :689:2009/04/23(木) 15:12:17
ロラン・バルトの件では、唐沢はもっと根本的な次元で誤読を
しているのだが、それについては後で書かせてもらう。

711 :無名草子さん:2009/04/23(木) 19:08:21
『表徴の帝国』について

日本人が読むとかなりヘンなのは事実。
だが、これは日本論のように見えて日本論ではない。
最初の章である『かなた』をちゃんと読解して、この本の趣旨を理解できていれば「バルト先生に
教えて」やろうなどという野暮をやらかさないのは当然なのだ。

まず、一点目の指摘を…
バルトは『水と破片』の中で、日本料理の食膳(膳・食器・盛り付けられた料理の配色や配置等)を
「一幅の絵画に似ている」と書いている。北大路魯山人の哲学を引き合いに出せば、この洞察が正しい
ことは分かるだろう。
一方の『中心のない食物』では、 出てきた時のすきやきの材料を見てオランダ絵画に喩えている。
オランダ絵画とはおそらく17世紀頃の静物画を指すのだと思う(?)。こちらも絵画に喩えてはいるが、
美的感動を表すというより、むしろ即物的な描写となっている。
つまり唐沢は、別の章の異なった意味合いで使われている「一幅の絵画」という言葉を持ってきて
『中心のない食物』の文章を改竄しているのだ。

712 :無名草子さん:2009/04/23(木) 20:27:42
ロラン バルトもトンデモ認定してたか。唐沢先生とばしてんな。

714 :711:2009/04/23(木) 21:20:25
この件については一番肝心な部分についての指摘がまだなので、
そのへんを明日あたり書かせていただきます。



728 :無名草子さん:2009/04/24(金) 00:27:33
『表徴の帝国』について

バルトは『水と破片』の中で、御飯とおかずを同時に食べながら野菜や漬物・薬味を
つつき味噌汁をすするといった日本人の食習慣に着目している。
日本人が読めば「当たり前じゃないか」と思ってしまいそうだが、そうではないのだ。
フランス料理のフルコースは、オードブルから始まりデザートまで決められた順序が
存在する。それどころか、日本人以外の多くの民族は主食と副食すら同時には食べない。

「口内調味」という言葉を御存じだろうか?
「口内調味 ロラン・バルト」でググったら、この点にちゃんと注目している人がいた。
http://d.hatena.ne.jp/g_d/20080228

「どんな食べものをとるか、その組み合わせをあなた自身がおこなうことによって、
あなたはあなたの食べるものを、いわばつくることとなる」とは、正に口内調味。
僅かな滞在期間の中、「口内調味」という言葉すら知らないまま、バルトはここまで
読み取っているのだ。

729 :728:2009/04/24(金) 00:32:01
一方の『中心のない食物』中のすきやきについての記述。
唐沢に引用では「肉を食べたり、葱を食べたり、白滝を食べたり、人はそれを自由な
順序で食べる。いわば日本人は同じ鍋からスキヤキを食べながら、各人が別個の料理を
創造しているのだ」となっている。
実際のバルトの文章には、そんなことは書かれていない。「どの食材から食べなくては
ならないという特権的な役割を与えられてはいない」と書かれているだけだ。(手許に
本がないので不正確な引用)
唐沢は、『水と破片』に書かれている日本人の食習慣についての描写を、すきやきを
食べる順序に置き換えて捏造している。
肉から食べる人が多いのは、唐沢の言うように合理的帰結にすぎず、故に「どの食材
から食べなくてはならないという特権的な役割を与えられてはいない」のだ。

730 :無名草子さん:2009/04/24(金) 00:35:06
> それどころか、日本人以外の多くの民族は主食と副食すら同時には食べない。
日本人というよりアジア民族の多くは主食と副食を同時に食べるわけだが
その辺は知らなかったのかな?


731 :728:2009/04/24(金) 00:35:16
私の読み方が絶対とは言わない。違った解釈をする人もいるかもしれないので、是非
『トンデモ本の世界U』(or裏モノ日記)と『表徴の帝国』中『水と破片』『中心の
ない食物』との、それぞれ該当箇所を読み較べてみてほしい。
少なくとも、唐沢の文が引用の要件を満たしていないこと、原文を曲解・歪曲・改竄・
捏造していることは分るはず。

733 :無名草子さん:2009/04/24(金) 00:45:16
http://okwave.jp/qa3505115.html
>それ以前から、和食の世界では「口内調味」と言う概念があります。
>これは、味がうすいごはんと、おかずないしは味噌汁、漬け物などを
>一緒に口に入れることによって、味のハーモニーを楽しむと言う、
>日本独自の感性です。これは海外ではまずありません。たとえば、
>牛丼やカツどんを外国人が食べる場合、肉を食べて飲み込んでから、
>別にご飯を食べます。一緒に口に入れる風習がないわけです。

734 :731:2009/04/24(金) 00:52:11
多忙な間をぬって書いたので疲れたorz
手許に本が無いし、どう書いても微妙に間違ってるような?
良かったら、もっと頭のいい人にちゃんと検証してもらいたいもの。

750 :無名草子さん:2009/04/24(金) 11:02:31
表徴の帝国の人、もうお腹いっぱいです。

762 :無名草子さん:2009/04/24(金) 12:51:29
>>750

いや、俺は「表徴の帝国」の解説はためになった。面白かった。
「エクリチュールの零度」も合わせて読んでみようという気になった。
こういうのはありがたい。

763 :無名草子さん:2009/04/24(金) 12:53:08
>>750は唐沢か、その手下。

難しいことはわかんないけど、朝日新聞で書評してるんじゃない?

766 :表徴の帝国の人:2009/04/24(金) 13:08:07
すまんね、もう一言だけ。
書店で確認してきたので一部訂正。
『中心のない食物』中の「どれから食べなくてはならないという特権的な役割を
与えられてはいない」という記述は、すきやきについてではなく日本料理全般に
ついて語ったものだった。

『トンデモ本の世界U』の唐沢の文には、バルトがすきやきについて「中心性を
持たないという日本文化を表徴した食べ物と書いている」とある。
実際はバルトは「どんな日本料理にも〈中心〉がない」と直接的な表現をしている。
唐沢によって改竄された引用文にある「日本文化を表徴した」は、『表徴の帝国』
という邦題に引っぱられたものだろう。

実は宗左近の翻訳には批判も多く、特に『表徴の帝国』というタイトルは誤読を
招きやすいと言われている。
『記号の国』のタイトルで別の訳者による新訳も出ているはず。

というか、唐沢は「表徴」という言葉の意味がわかってないような気がするのだが。

(上記引用部分は不正確です)

768 :無名草子さん:2009/04/24(金) 13:12:30
「シーニュの帝国」という表記もあるよね。たしか柄谷がこっちを使ってた。

771 :表徴の帝国の人じゃないけど:2009/04/24(金) 13:21:24
とどのつまり、唐沢はこの一節を全く理解していないし、理解しようともしていない。
おそらく理解する能力もない。

>わたしは日本についての本を書いたつもりはない。これはエクリチュールについての本である。
>日本を使って、わたしが関心を抱くエクリチュールの問題について書いた。日本はわたしに詩
>的素材を与えてくれたので、それを用いて、表徴についてのわたしの思想を展開したのである。

782 :無名草子さん:2009/04/24(金) 15:33:08
表徴の帝国の人(たち)乙でした。面白かったよ。
伊藤氏の言う「抽象的な話が理解できない」てのの典型例だね。

819 :無名草子さん:2009/04/24(金) 21:21:54
>>782
>伊藤氏の言う「抽象的な話が理解できない」てのの典型例だね。

うーん、「抽象的な話が理解できない」ってのは誤解を招く表現かも。
とりようによっては、唐沢俊一が、具体的な話なら理解できるみたいじゃん。


http://love6.2ch.net/test/read.cgi/books/1240709076/231-

231 :無名草子さん:2009/04/28(火) 17:52:09
バルト『表徴の帝国』の文章を正確に引用しているブログを見つけました。
また、執筆意図を正しく汲み取ってもいます。

http://palantir.exblog.jp/109352/

↓こちらも注目。

http://izumingo.blog14.fc2.com/blog-entry-1793.html


237 :無名草子さん:2009/04/28(火) 18:21:56
>>231は、『表徴の帝国』中、日本料理について書かれた「水と破片」からの引用と感想。
↓すき焼きについて書かれ『中心のない食物』の一部要約はこちら(PDFなので注意)

http://www.waseda.jp/edu/pdf/gakujutu/gaikokugo53.pdf
>《すき焼き》とは,まず「いっさいがもうひとつ別のものへの装飾」となっているため,「ど
>れからさきに食べなければならないという特権的な順序をもたない」「たんなる断片の集積」と
>なった料理であり,さらに「料理を作る時間と料理を消費する時間とを一瞬のうちに結びつける」
>「終わりも始まりもない」「繰り返し可能な料理」としてとらえられている。
>バルトの日本論を手がかりにエキゾティズムの在り方を再考する渡辺涼が繰り返し強調するよ
>うに,ここには日本の現実の客観的な叙述よりも,すべてを神という超越的な存在に収斂させる
>ことで結局ひとつの中心へと回帰させ,記号の揺らぎや遊びを許さない西洋のロゴス中心的な思
>考に対して距離を取り,それを〈脱中心化〉しようとするバルトの眼差を読みとらねばならない
>だろう。
>ここで描かれている〈日本〉が,そのような批判の眼差が作り出した架空の日本であることを,
>バルト自身が『記号の帝国』の序論で明確に述べている。しかし,そのような留保を付けても,
>この対比はやはりひとつの現実から喚起されたものであること,現実を逆に照射するものである
>ことも間違いない。というのも多少大げさではあるが,ここにはフランスと日本の世界認識の差
>異,とくに時空間に関する表象の違いが対比的に示されていると考えられるからだ。

http://blogs.yahoo.co.jp/silkroad_desert9291/41263801.html
>●すき焼きノ生の材料が並べられ食卓上で調理される。日本料理には「中心」がない(食べる
>順序が決まってない、料理するのと食べるのが並行して進む)。


http://unkar.jp/read/love6.2ch.net/books/1210096847/

9 :無名草子さん[]:2008/05/09(金) 01:51:29
ロラン・バルトの話が出たついでに・・・
「裏モノ日記」で、いつものように東浩紀氏を罵倒した唐沢は、返す刀でバルト批判を始める。

http://www.tobunken.com/diary/diary20020705000000.html
>だいたい、どんなエラい学者だろうと外国人が日本を論ずると(もちろん、日本人が外国を
>論じても)トンデモに近いコジツケになりがちなことは、ロラン・バルトの『表徴の帝国』
>>などの頓珍漢ぶりを読めばよくわかる。著者曰く、“スキヤキは出てきたときには一幅の
>絵画であり、肉を食べたり、葱を食べたり、白滝を食べたり、人はそれを自由な順序で
>食べる。いわば日本人は同じ鍋からスキヤキを食べながら、各人が別個の料理を創造して
>いるのだ”……んなわけはない、みんなフツー肉から食べるよ! と誰かバルト先生に
>教えてやらなかったのか。牛肉はあまり煮すぎない方がうまいから先に食べる。しかし
>葱や白滝はよく煮て、味が染みないと食ってもうまくもなんともない(味のついてない
>白滝が好き、とかいう特殊嗜好の人を除く)。肉から食うのは中心性文化の表れでも
>何でもない、合理的帰結だ。スキヤキ(に限らず日本文化)に対し、何か俯瞰した立場
>から評論してやろうという傲慢態度でなく、色眼鏡をかけないきちんとした知識をまず
>謙虚に吸収しようという態度さえあれば、こういうバカを書かないですむのだが。いや、
>もっとバカなのはこういう記述をありがたがって読んでいる学問オタクの方か。ことは
>アニメでもゲームでも同じなのである。

60 :59[]:2008/05/09(金) 01:52:58
まず、バルトが『表徴の帝国』で書いているのは、日本人が読むとかなり変な日本であるのは
事実であり、それだけ捉えればトンデモ本の類と言っていいかもしれない。実際、批判も多い。
但し、バルト本人の言うように、これは日本論ではなくエクリチュールの問題について書かれた
本だと反論する人もいるだろうが、それはそれとして。
例えば料理に関する考察だけを読んでも、殆どの日本料理が、鍋物や焼肉のように、未調理の
食材を食卓で調理しつつ食べるか、あるいは刺身のように生のまま食べるのだと思い込んでいる
など、バルトの日本料理に対する誤った認識がみられる。
だが、この本に対する唐沢の解釈や引用のしかたは、作品の賛否と無関係に酷いもの。
『表徴の帝国』中、すき焼きについて書かれているのは「中心のない食物」という章。
↓ここに一部が引用されている。
http://panse.livedoor.biz/archives/7652282.html
唐沢の日記中には「肉を食べたり、葱を食べたり、白滝を食べたり、人はそれを自由な順序で
食べる。」と書かれているが、すき焼きについて書かれたバルトの文に「肉を食べたり、葱を
食べたり、白滝を食べたり」などといった具体的な描写は存在しない。

また、唐沢の要約は、「水と破片」という別の章の記述をごちゃ混ぜにしている。
具体的には

>スキヤキは出てきたときには一幅の絵画であり
>同じ鍋からスキヤキを食べながら、各人が別個の料理を創造しているのだ

61 :60[]:2008/05/09(金) 01:55:03
↑これらは「水と破片」中の記述であり、実際はスキヤキについて書かれたものではない。
「どちらも日本料理について書かれた文章じゃないか」と一緒にしてしまうのは乱暴である。
バルトの言う「一幅の絵画」とは、日本料理の食膳のことであり、食膳とその上の食器・料理・
薬味・醤油などの配置と配色に芸術性を感じているのだ。
料理と器の関係に拘った魯山人の感覚に近い。
一方「中心のない食物」中でも、盛り合わされたすき焼きの材料をオランダの絵画に喩えて
いるが、こちらは(多分)静物画に描かれた食材を連想しているにすぎない。
後者(食べながら、各人が別個の料理を創造)については、こんな描写がある。

>むこうの野菜を一つまみ、こちらの御飯を一口、そちらの薬味を少々、手前のおつゆを一すすり
(『表徴の帝国』ロラン・バルト 宗左近訳 ちくま学芸文庫)

日本人の食習慣に「口内調味」というものがある。日本人にとっては当たり前だが、実はかなり
特殊な食べ方なのだ。バルトが(よく分らないまま)着目しているのは明らかに、この口内調味。
http://d.hatena.ne.jp/kojirow/20060922
http://q.hatena.ne.jp/1156373003
「牛肉はあまり煮すぎない方がうまいから先に食べる。しかし葱や白滝はよく煮て、味が染みない
と…」(裏モノ日記)云々は、唐沢の言う通り「合理的帰結」であり、「中心性文化の表れでも
何でもない」
故に、バルトの言う「どれからさきに食べられなければならないという特権的な順序をもっては
いない」ことを否定するものではないと思うのだが、唐沢はその理屈をバルトの説の否定のために
用いている???
(しかし「中心性文化」というのも妙な言葉である。「中心のない食物」から勝手に造語?)
言いたいことが思うように書けず、もどかしいが、とりあえず長文失礼。

65 :無名草子さん[]:2008/05/09(金) 02:56:52
>>60
あーそのすき焼きの話、唐沢がバルトについて妙なことを書いてるのが
何かあったと思ったけど思い出せなかったんでスッキリしたですよ。
さっと読んだだけだと高尚な批判がされてるようだけど、よく読むと
論理が破綻してるのな。でもこれに騙された人は多いんちゃう?
今でこそ東派のほうがオタク論壇的な覇権を持ってるけど、当時はそう
でもなかったから。

66 :無名草子さん[]:2008/05/09(金) 03:00:58
>んなわけはない、みんなフツー肉から食べるよ! と誰かバルト先生に
>教えてやらなかったのか。

誰か唐沢先生に「かっこいいスキヤキ」がどんなマンガだったか教えて
やれよ! 

546 :無名草子さん[]:2008/05/14(水) 05:12:30
まぁ最初は肉を食うかなと思うし、だいたいの段取りはあるかもしれんが、
あとは野菜も豆腐も白滝も、みんなてんでに好きな順番で食うわな。
バルトの原文にない唐沢の捏造文章でさえ、日本の食卓となんら矛盾しない。

ところで、そろそろみんな、唐沢のレトリック技の解析に向かわん?
ここでのやりとりを見てると、「食べる順番」全体の話なのに、いつ
のまにか話が「最初に何を食うか」にスライドしてる。
これ、唐沢のミスリードだと思う。

>牛肉はあまり煮すぎない方がうまいから先に食べる。
>しかし葱や白滝はよく煮て、味が染みないと食ってもうまくもなんともない
>(味のついてない白滝が好き、とかいう特殊嗜好の人を除く)。
>肉から食うのは中心性文化の表れでも何でもない、合理的帰結だ。

例の「……んなわけはない、みんなフツー肉から食べるよ! 」てツッコミが
ミスリードを誘ってると思うんだ。

唐沢の雑学にせよ評論にせよ、あらためて検討するとデタラメばかりなのは
みんなもう承知だと思うんだが、じゃあなんで、これだけ長い間たくさんの
人を騙し続けてこられたかを考えたほうがいいと思うんだよ。
どうも、斜め読みしたとき「なんかちゃんとしたことを言ってるみたい」と
いう印象を人に与える語り口とか、微妙な論理のすり替えとか、いろんな
テクニックを使ってるっぽいんだよね。
天然で無意識にやってるのか、意識して身につけたテクかは分からんけど、
ガセネタの検証と一緒にやってったら結構面白いと思う。これから唐沢を
使おうっていう編集者の説得にも使える。
「あんた、このテクニックにダマされてるんだよ」って説明できるから。

547 :無名草子さん[]:2008/05/14(水) 06:25:08
>牛肉はあまり煮すぎない方がうまいから先に食べる。
>しかし葱や白滝はよく煮て、味が染みないと食ってもうまくもなんともない
>(味のついてない白滝が好き、とかいう特殊嗜好の人を除く)。
>肉から食うのは中心性文化の表れでも何でもない、合理的帰結だ。

 これって、「煮えて美味しくなる順に食べる」というだけのことを
「特殊嗜好」とか「中心性文化」とか「合理的帰結」とかソレ風の言葉で
水増ししてるだけだよな。唐沢の文章はこのインチキな“水”のため
論旨が分かりにくくなっていて、ガセが保護されているんだろう。
上の文章なんか、「中心性文化」という造語と、「特殊嗜好」なんて
場違い言葉で増量しているから、さらに読みにくくなっている。

「牛肉はあまり煮すぎない方がうまいから先に食べる。
 葱や白滝はよく煮て、味が染みてから食べる。
(味のついてない白滝が好き、とかいう変わった嗜好の人は除く)。
 だから、肉から食うのは至極当然のことだ」
ってことだよね。で、当たり前すぎて、ナニこれって内容。

548 :無名草子さん[]:2008/05/14(水) 07:13:09
ピュア信仰とか無断引用みたいな物か
サラッと読むと、そのような言葉が存在しているかのような印象

西手新九郎の初登場時もそんな感じだった

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