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2011.12.10 (Sat)

「もうちょっと何とかならなかったかな」の『談志絶倒 昭和落語家伝』の朝日書評

『現代落語論』から『立川流騒動記』までの道?」のエントリーでは、裏モノ日記 2007年
10月 28日(日曜日)
の記述、「コンビニで朝日新聞を買って、掲載されている自分の書評
を読む。今回は『談志絶倒 昭和落語家伝』(大和書房。この書名はもうちょっと何とかな
らなかったかな)。」を引用し、「もうちょっと何とかならなかったかな」は、唐沢俊一の書評
の方だろうとか書かせてもらった。今回は、その書評について。

http://book.asahi.com/review/TKY200710300255.html

談志絶倒 昭和落語家伝 [著]立川談志 [写真]田島謹之助
[掲載] 2007年10月28日 [評者]唐沢俊一(作家)

■良き昔を伝えた落語黄金時代の顔

 戦後の落語黄金時代は昭和26年に始まる。この年に、ラジオに初めて
民放(東京ではラジオ東京・後のTBS)が誕生し、番組の目玉として落語
の放送を始めた。これにより落語家たちの収入は格段に上向き、それまで
貧乏を看板にしていた古今亭志ん生など各局で専属契約をめぐっての
引き抜き合戦が行われるほどの売れっ子になった。また、昭和28年には
初のホール落語「三越落語会」が発足、寄席ではなかなか出来ない人情
ばなしなどをじっくり聞かせることが可能になり、そういうネタを得意とする
三遊亭円生の評価が一躍高まった。

 この写真集には昭和29年から30年にかけて、つまり黄金時代初期に
人気を博した落語家たちの高座姿が収められている。それらの写真に
コメントをつけるのは当時前座として彼らに接し、また袖でその芸を聞いて
いた立川談志。

 戦後文化史を語る貴重な資料、というだけの本ではない。テレビ時代に
われわれが見慣れた顔よりも少しだけ若い(先代正蔵の精悍〈せいかん〉
なこと、先代小さんの元気一杯なこと!)その顔には強烈なノスタルジーの
香りがあり、彼らを語る談志も、その香りに準拠することを躊躇(ちゅうちょ)
していない。自分が知る以前の各落語家の経歴なども、調べればわかる
ものを、あえて自分の記憶の範疇(はんちゅう)のみで語っている。調べて
書いたものはノスタルジーの域を逸脱するというのだろう。

 落語を語る場合、その姿勢は正しい。近代の落語の型を作ったのは明治
の三遊亭円朝だが、その創作の基礎には失われた江戸の情景への郷愁が
あった。近代落語は、その成立のファクターに、すでにノスタルジーが含まれ
ているのである。この本に載っている九代目文治(翁家さん馬)や七代目円蔵
は、私も寄席でよく聞いた人たちだが“昔はよかった”という話ばかりしていた
ものだ。

 今の落語家たちは、語ろうにも、語る“良き昔”を知らない。落語の歴史の
中で初めて“現代”を語るしかない今の落語家の写真集が作られたなら、
そこに載る顔にはどんな香りがあるのだろうか。


×当時前座として彼らに接し ○当時二つ目として彼らに接し

「戦後の落語黄金時代は」ではじまる唐沢俊一の書評の第一段落。これは悪い意味で
すごい。ラジオの民放誕生だ、志ん生の「専属契約をめぐっての引き抜き合戦」だ、「三越
落語会」だなどと、全体の三分の一近くの字数を費やして、この本で特に話題になっても
いないことを語る一方、掲載されている写真の主な舞台である人形町末広についての
言及はいっさいない。人形町の「に」の字も、末広の「す」の字も登場しないのだ。この本
の真ん中あたりには、「人形町末広、楽屋の記憶」というコーナーまであるのだが。

ちなみに、この本で「専属契約」 (本では「専属制度」) について言及されている部分の
記述は以下のような感じで、「古今亭志ん生など各局で専属契約をめぐっての引き抜き
合戦が」という話が、志ん生の項などで語られたりしているわけではない。

『談志絶倒 昭和落語家伝』 P.99 ~ P.100 (八代目三笑亭可楽)
> けど、その頃の五人衆、文楽、志ん生、円生、三木助、小さん。これらを俗な言葉で
>「本格」というと、可楽は「本格ではない」ということになっていて、それは正蔵師匠にも
>いえたし、柳枝師匠もその部類に入れられていた。
> TBSが専属制度を始めたときに、その道の通人であり、指導者であり、プロデュー
>サーであった故出口一雄氏は、その五人(三木助はNHKにレギュラー出演していた
>ので除かれた)に、昔々亭桃太郎、春風亭柳好、あとへきて、桂右女助、三遊亭円遊
>を加えた。つまり、「娯楽品」とでもいうべき人たちも集めた。ついでに、若き才人桂小
>金治も、後に正蔵も入ったか……。つまりネタの多さ、変わった噺をする、という理由
>だったろう。
> その後、遅ればせながら、文化放送が、またはニッポン放送が専属制度を始めた。
>文化放送は、今輔、可楽を専属にした。これらは、悪くいやァ売れ残り。TBSの一流
>に対して、二流と判断されていた人たちであった。


で、まあ、この部分だけでも、唐沢俊一のいう「ノスタルジーの香りがあり、彼らを語る
談志も、その香りに準拠することを躊躇(ちゅうちょ)していない」だの、「“昔はよかった”
という話ばかり」って、何か違うのでは……と思わせるに充分ではないかと思ったり。

さて、この本の Amazon での記述は以下の通り。

http://www.amazon.co.jp/dp/4479391622
>談志絶倒 昭和落語家伝 [単行本(ソフトカバー)]
>立川談志 (著)
〈略〉
>内容(「BOOK」データベースより)
>八世桂文治に惚れ、人形町の寄席から高座を狙い、あげくは自宅に押しかけ、文治の
>素顔を、そして文楽、志ん生、三木助、小さん、馬生…と追いかけた二千枚の貴重な
>フィルム。この写真集では、当時の落語界の幹部、または理事といった野暮な呼称の
>“真打ち”を載せ、語った。

>著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
>立川 談志
>落語家、落語立川流家元。一九三六(昭和11)年、東京に生まれる。本名、松岡克由。
>小学生のころから寄席に通い、落語に熱中する。十六歳で五代目柳家小さんに入門、
>前座名「小よし」、十八歳で二つ目となり「小ゑん」。二十七歳で真打ちに昇進し、「五
>代目立川談志」を襲名する。一九八三(昭和58)年、真打ち制度などをめぐって落語協
>会と対立し、脱会。落語立川流を創設し、家元となる

>田島 謹之助
>写真家。一九二五(大正14)年、東京に生まれる。子どものころから写真と寄席に夢中と
>なり、戦後は日本の原風景を撮り続ける。二十代のとき、叔父と親しかった人形町末広
>の席亭に頼みこみ、一九五四(昭和29)年から一九五五(昭和30)年にかけて、人形町末
>広の高座と落語家の自宅を集中的に撮り続ける。その数は二千を超え、現在でもフィ
>ルムのほとんどが変質することなく残されている(本データはこの書籍が刊行された当
>時に掲載されていたものです)


唐沢俊一の書評とは全然違って、さすが Amazon の書評は短い字数で本の雰囲気を
よく伝えているなあ――と思ったら、立川談志の「まえがき」からの抜粋を繋ぎ合わせた
内容だったということに気がついた。この「まえがき」は Amazon の「なか見! 検索」でも
見ることができるので、興味のある人はぜひ読んでみて欲しい。

また、「著者略歴」は、本の奥付けや表紙カバーの折り返しに載っていることがそのまま
書かれている。で、「一九五四(昭和29)年から一九五五(昭和30)年にかけて」を「当時」
とよぶならば、「一九三六(昭和11)年、東京に生まれ」た立川談志は「十八歳で二つ目」
になっていたので、「当時」は「前座」というより「二つ目」ということになる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/立川談志
>1936年 - 1月2日、東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区白山)に生まれる。
〈略〉
>1954年 - 3月に二つ目昇進し柳家小ゑんに改名。


まあ唐沢俊一をフォローするなら (何の義理で?)、この本の中で立川談志は、前座の頃の
思い出話を取り混ぜて語っているので、それで混同したのかもしれない。

『談志絶倒 昭和落語家伝』 P.98 (八代目三笑亭可楽)
> 一度、前座の頃、可楽師匠にお茶をご馳走になった。「まだまだ修行が足りません。
>下手です。文楽さんと違ってね」てなことを言っていた。どちらかというとお山の大将、
>一人天下みたいだった可楽師匠に、こういう部分があったのかと驚いた。
> 場合によっちゃあ卑下とも聞こえる、弱音とも聞こえることを「柳谷小よし」と称った
>前座の私に言った。協会が違う故に言いやすかったのか。意外だった。

(原文では「まだまだ」の後半は、くの字点表記)。

立川談志は「まえがき」で、「写真を見て、眺めて、あれやこれやと当時を偲ぶ。そこで
過ごした青春、今は亡き憧れし師匠連、思いつくままに書きとめておく。」と書いている
(ここの部分は帯にも引用されている)。

ほとんどが 1949 年 (昭和 29) から 1955 年 (昭和 30) に撮影された数々の写真。それ
に触発された話とはいっても、立川談志の語る内容はその年の出来事に限定されない。
立川談志が前座の頃の話もすれば、「ガキ」の頃の話もする。「まえがき」の P.2 にある
ように、「この落語立川流家元が寄席ファンであった」から、「誰よりもファンで、マニアで、
我ながら愛おしい奴」であるからだろう。

『談志絶倒 昭和落語家伝』 P.130 (七代目春風亭小柳枝)
> 後年、新東宝あたりの映画の端役で泥棒になって逃げたりしているのを見たとき、
>生活もあろうし、芸術協会との軋轢もあろうが、“寄席に出ていてほしいなあ”と、ガキ
>心に素直に思った。
> ある日、弟を連れて人形町末広へ行った。正月であった。桃太郎が出てきて『落語
>学校』を演った。こっちもまだ中学生ではあったが、好みは激しいけど桃太郎、その
>面白さったらなかった。
>「先生、だいぶ控え室に患者が固まりました」
>「そうか。じゃ、そろそろ溶かすか」
> 引っくり返って笑った人形町末広の初席、雨の夜だった。

(原文では「そろそろ」の後半は、くの字点表記)。

『談志絶倒 昭和落語家伝』 P.192 (八代目春風亭柳枝)
> 生意気なガキであった私が、素人の頃、地元のお祭りにこの師匠が来たとき、二ヵ所
>掛け持ちの後を追いながら「師匠、ひとつ『花色木綿』を演ってください」。
>『花色木綿』、つまり、この落語を知っているという己の自慢である。「お結構な勝っちゃ
>ん」なくらいだから「へい、へい、へい」てなことを言いながら、『花色木綿』を演ってくれ
>た。
> むしろ『四人癖』のように、アクションに頼るというか、判りやすい噺をするべきだろうと
>後年思ったが、勝っちゃん、相手はガキでもお客には逆らわない。


また、前座だ二つ目だというのを抜きにしても、唐沢俊一の「当時前座として彼らに接し、
また袖でその芸を聞いていた立川談志」という紹介は、ちょっと説明不足のきらいがある
と思う。

下でいう「客席で聴いた数」を勘定に入れていないということだけではない。立川談志の
「今は亡き憧れし師匠連、思いつくままに書きとめておく」の中に含まれる、これこれこう
いう噺を「師匠連」に教わったという部分。これが唐沢俊一の紹介では今いち伝わらず、
楽屋内の会話や「袖でその芸を聞いていた」のみに限定されてしまいかねないと感じる
からだ。

『談志絶倒 昭和落語家伝』 P.36 (三代目春風亭柳好)
> 柳好師匠は、私が二つ目になって間もない頃に亡くなっている。何がいいたいのかと
>いうと、楽屋や舞台袖からはそれほど聞いてないというこった。むしろ、落語の世界に
>入る前に、客席で聴いた数のほうが多い。柳好の追っかけともいえた。
> 落語家になってから聴けなかった理由の一つに、“協会が違っていたから”ということ
>もある。何せ、楽屋の仕事、前座業というものがあり、追っかけようにも時間がない。


『談志絶倒 昭和落語家伝』 P.138 ~ P.140 (十代目金原亭馬生)
> 馬生師匠の落語には、私が不可とするようなものはなかった。よほどセコな噺はさて
>おいて。いや、待てよ。そのセコな噺を二席、私は教わったことがある。その噺はなん
>と、『支那の野ざらし』と『長刀傷』。これらはとても高座で演れるような代物ではなかっ
>たが、馬生師匠はそれらをあえて演っていたのか。
> 噺家ァ、覚えた噺は誰かに聴かせたいものだ。それで、「談志に教える」という形で
>聴かせたのかも知れない。いや、まだ「小ゑん」の頃か。


『談志絶倒 昭和落語家伝』 P.116 (四代目三遊亭円遊)
> 大阪の『崇禅寺馬場』という噺を東京流に替えて、『鈴が森』。追い剥ぎが逆にやら
>れる。「ここは崇禅寺馬場や」と言う。つまり、そういう曰くのある場所というこった。
>『崇禅寺馬場』は大阪だから、東京では『鈴が森』となる。けど、崇禅寺馬場はそういう
>昔の実話があった場所だが、鈴が森にはそれはない。つまり無理である。
> で、その最後に、
>“二尺八寸段平物を”と、こう言うところを、
>「二尺七寸段平物を」
>「おい、一寸足らないよ」
>「ええ、一寸は先が折れてました」
> 何です、こりゃ。
> といいながら、実は私は、『鈴が森』も『長屋の算術』も『代診』も円遊師匠に教わっ
>た。というよりも“稽古に行ったら教えられちゃった”ということだ。しょうがないから聴い
>ていたが、演るわけがない。いや、一、二回演ったかなァ。けど流石に『代診』はでき
>なかった。
> 若くても立川談志、その頃はまだ前座だったが、そのぐらいの判断はできた。


また、「前座として彼らに接し、また袖でその芸を聞いていた立川談志」というだけなら、
たとえば以下のような話 (自慢?) は紹介しにくいだろう。

『談志絶倒 昭和落語家伝』 P.16 (六代目三遊亭円生)
> 口上で円生師匠と並ぶ司会の私が、
>「では次に、落語協会の会長で昭和の名人。『おかふい』だとか『相撲風景』、または
>『勘定板』などを演ると、その右に出る人がおりません」
> これらは、円生師匠が演る中で一番セコイといわれる噺だ。
>「お前さんはいけませんよ、そういうことを言って」
> なんと言いながら、円生師匠、笑ってたっけ。
> こういう状況をよくつくり、円生師匠を喜ばした歴史を談志は持っている。


それと、唐沢俊一の語る意味不明な「ノスタルジー」とやら。「自分が知る以前の各落語
家の経歴なども、調べればわかるものを、あえて自分の記憶の範疇(はんちゅう)のみで
語っている。調べて書いたものはノスタルジーの域を逸脱するというのだろう」とか書かれ
ても、それはいったいどういうノスタルジーなのかマジでわからないし、「調べればわかる
ものを、あえて」というのが、どの部分をさすのかも、わからなかった。「前座名を『甘蔵』
と称った。甘蔵時代の三平さんは、私は知らない」 (P.132) などの記述が悪かった (?)
のだろうか。

唐沢俊一は「近代落語は、失われた江戸の情景への郷愁があった。近代落語は、その
成立のファクターに、すでにノスタルジーが」とか書いているが、それはこの本の中で
語られていることとは違う。そもそも立川談志は「ノスタルジー」なんて単語を使って語って
いない。代わりにというか、頻繁に登場するのは「アナクロニズム」という言葉で、以下の
ように批判的に使われている。

『談志絶倒 昭和落語家伝』 P.118 ~ P.120 (二代目桂枝太郎)
> つまり、“古臭くなった新作”を語る師匠であった。または「たいらばやしひらりんか」
>という、その程度の落語を語っていた。

> 例えば『子別れ』である。その『子別れ』を『子故の春』と改作した。子どもに会いに、
>なんとオートバイに乗ってくるのだ。この現代性というか、アナクロニズムが嫌だった。
> ほかに『石鹸』。これは円歌師匠も演じていたが、腐った豆腐を無理して食う『酢豆
>腐』の改作である。その腐った豆腐の代わりに石鹸だ。
> それまで湯屋で体を洗うときには、糠袋を使ってきた。そこへ、“石鹸”という新しい
>ものが入ってきた。で、知ったかぶりの粋がった若旦那に、石鹸を食べ物と称して
>食べさせようと一座で仕組む。で、「泡を吹いてやがる」とか、そういうギャグ。とても
>聴いてられるものではなかった。
>この種の、“新しいものを取り入れているつもりがアナクロニズム”というのは、何も
>枝太郎師匠ばかりに非ズで、下手ァすると、ありとあらゆる師匠に見られた。よほど
>古典一筋でない限り、当時はそうなってしまったのか、“新しがって現代を語ろう”とし、
>それが故にアナクロになってしまった芸人、またネタ、そのケースは山の如くあった。
> 現代にも山のようにいる、と聞く。もはやベテランとなった古典落語の連中はほとんど
>コレであろう。


まあ、上に引用したような種類の批判は、立川談志の他の著作にもたびたび登場する
ものなのだけど、この本の場合には、以下のような記述もまた出てくる。

『談志絶倒 昭和落語家伝』 P.123 (二代目桂枝太郎)
> もっと聴くべきであったと気がついたときは、晩年である。私が一人前になって、その
>存在を枝太郎師匠が認めてくれてからだった。私は“老人キラー”と呼ばれていて、
>師匠たちの懐にこちらから入っていった。師匠は若い私から、“現代”を吸収しようとして
>いたように思う。
> 簡単にいえば、枝太郎を見損なっていたということだ。明治、大正、昭和へと移って、
>「秋葉の原」が「秋葉っ原」になり、「秋葉原」から「秋葉原」になっていく。それら江戸の
>名残と東京の記憶を語った枝太郎師匠の漫談、昔話等は、もっと聴いとけばよかった。
>後の祭り、である。私と話が合った、その会話は正に現代であった。
> 私は何度もいう通り「コレクター」の部分が多々ある。ならば、何で聴いておかなかっ
>たのか。それが自由にできたのに、落語家として尾内j場所にいたのに、悔やまれる。
> 聴かなかった理由の一つに、立川談志が売れていた、売れまくっていたということが
>ある。言い訳だが、時間がなかったのだ。仕事に酒に女性に……。痛恨である。
> この本、全部にいえる。少ない想い出なのだ。浅いエピソードなのである。


このような感慨の表明は「ノスタルジー」のためと唐沢俊一が定義しているとすれば、それ
について特に否定しようとは思わない。「その香りに準拠することを躊躇(ちゅうちょ)して
いない」かには、やはり首をひねるのだが。個人的には、この本は、「落語マニア」であり
「コレクター」を自称する立川談志が前面に出てきている本だと思ったし、上記の「痛恨で
ある」は落語オタクとしての悔恨 (「オタク」という単語は出てこないが) と思えた。



で、ノスタルジーはノスタルジーでよいとしても、「テレビ時代にわれわれが見慣れた顔よ
りも少しだけ若い(先代正蔵の精悍〈せいかん〉なこと、先代小さんの元気一杯なこと!)
その顔には強烈なノスタルジーの香りがあり」といわれても、なあ……。小さんの写真は
確かに髪の毛が黒々して若々しかったけど、あまり老けた顔にならなかった人だし。

ノスタルジーという点では、むしろ高座の写真よりも、P.263 の自宅の写真に感動したり。
小さんが自宅で、一家三人で火鉢を囲んでいる絵で、その右側にはガラスケース入りの
日本人形が置かれている。

小さんの分に限らず、三丁目の夕日的なノスタルジーに浸るのなら、高座の写真よりも
自宅の写真がお勧めという感じで……。今の感覚でいえば、どこの古風な日本旅館か
お寺の中かというのが自宅で、灰皿などの調度品が懐かしいデザインだったりするのだ。

それだけならともかく、「テレビ時代にわれわれが見慣れた顔」とのギャップを楽しむと
したら、では昭和 30 年代以降だという「テレビ時代」に、あまり関係のない落語家は
……というのも気になってくる。

「で、この“噺家の一連の写真”は、田島さんが“文治好き”という一点から始まったと
いう」 (P.228) と本の中で語られている八代目桂文治は 1955 (昭和 30) 年に亡くなって
いる。彼だけではなくて、1956 (昭和 31) 年没の三代目春風亭柳好、1959 (昭和 34) 年
没の八代目春風亭柳枝、1961 (昭和 36) 年没の三代目桂三木助、1962 (昭和 37) 年
没の七代目春風亭小柳枝。さらに 1964 (昭和 39) 年没の八代目三笑亭可楽や三遊亭
百生、二代目三遊亭円歌、1967 (昭和 42) 年没の桂小文治も微妙なところか。

立川談志は、「まえがき」にこう書いている。

『談志絶倒 昭和落語家伝』 P.1 ~ P.2
> ここに写っている人たち、つまり噺家、これが東京の噺家の全て、といってよい。
> つまり、この通り少なかったのだ。その頃、戦中から戦後にかけて噺家になりたい
>なんと思った若者はいなかった。理由は“食えない”。もっとも、マトモに働いていても
>満足なモノが食えなかった敗戦の焼け跡の、あの東京。あの瓦礫の中から噺家に
>なろうなんざァ、沙汰の限りであった。
〈略〉
>ここに写った噺家、この人たちが戦後、“落語ブーム”とまでいわせた時代も含めて、
>私たちに落語を伝えてくれた。伝授してくれたのである。
〈略〉
> それにしても少ない、少ない。この当時と比べ、現代の噺家どもの多さ。内容はとも
>かく、その数において隔世の感がある。桁違いの多さだ。


本に登場するのは 26 人。その「少ない、少ない」中から、さらに三分の一をばっさりと
切り捨てなくてもよいんじゃないかと思うんである。


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