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2011.08.06 (Sat)

似ているようで違う ―― 博覧強記の小松左京と博覧強記の仕事術 (3)

http://www.tobunken.com/news/news20110729122033.html

イベント
2011年7月29日投稿
さよなら巨星(ジュピター) 【訃報 小松左京】
〈略〉
1970年代はじめくらいまで、日本人の平均的想像力というのは
結局のところ生活圏の半径1キロ以内を出ぬ、極めて箱庭的なもの
だった。私小説が小説の王道だったのも無理からぬところであったろう。
日常を超越した壮大な構想力を持った作家は、“異端”というワクで
語られるのが常だった。その作家の持つイメージの大きさと読者の
想像力の間に、深い断絶があったからである。その断絶が大きければ
大きいほど、異端作家としては格が上、というようなマニアックな
認識があった。

小松左京も、時代が時代であれば異端に分類されるような作品を
代表作にしている。しかし、小松氏を誰も異端とは呼ばない。
むしろ王道と認識されているだろう。小松氏には、自分の脳内にある
壮大なイメージを、読者の生活圏の中にあるところから説き起こし、
気がつかないうちにはるか高みへといざなってしまう、奇術師のような
語り口の技術があったからである。

短編だと、この技術がいっそうきわだつ。場末のバーのカウンターの
どうしようもない会話から、世界の核戦争による破滅まで一気に持って
行ってしまう『コップ一杯の戦争』や、どこにもある家庭の描写から
そのまま不条理とも言える人肉食の話になってしまう『秘密(タブ)』
など、小松左京のテクニックの見本、みたいな作品であった。逆に
『三界の首枷』などまさに落語そのもので、透視能力だのテレパスだの
といった、発表当時(1963年)最先端のSF用語を使ってこれほど
馬鹿馬鹿しい話に仕立てた作品を、私は他に知らない。

小松氏の作品、ことに長編が、日本におけるSF小説の歴史を一気に
推し進めた金字塔的な作品ばかりであるにも関わらず、現在の読者には
古い、と感じられてしまうことが多いのは、卑近な部分を交えながら
SF的な想像力の世界に読者をいざなう、その卑近な部分が、現代の
目から見れば冗長、と見られるためであろう。SF的手法が小説の
形として定着した現在においては、いきなりイメージを人類の起源に
置こうとはるか未来の終末に置こうと、読者はいかようにもついてくる。
確かに今の目からみれば、何まだるっこしいことをやっているんだ、
になるのかもしれない。

『果てしなき流れの果てに』の冒険小説的な部分は余計である、とか
『日本沈没』に男女恋愛みたいなパートはいらない、とかいう若い読者
の評を目にするたびに、草創期のSF作家たちがそういう部分をあえて
書いてまでSFを日本の小説界に根付かせようとしていた苦労を少しは
おもんぱかってやれよ、という気になる。いや、逆にそういう読者が
生まれるためにこそ、小松氏たちSF第一世代作家たちは頑張って
いたわけで、これは皮肉な話ではあるが、小松氏たちにとり、
そういう評価が出てくるということ自体、望んだところであったの
かもしれない。

しかし、何故か純粋SF作品が小説として成立する現在において、
小松作品を読み返したとき、その、導入部に過ぎない卑近な部分の
描写がたまらなくいとおしくなることがある。これは、小松氏がその
本質に、大坂の町人文化の粋である浮世草紙に通じる視線を持っていた
からだろう。そういう部分では私は小松氏は20世紀の井原西鶴で
あると思っている。未来への水先案内人、科学と文学の融合、壮大な
イメージの紡ぎ人、といった肩書きで紹介される小松左京であるが、
その底には、性と食と金に翻弄される人間たちの姿を肯定的に描く、
風俗作家としての立ち位置があった。21世紀になって再評価される
べきは、むしろ、この風俗作家的部分ではないか、と秘かに見ている
のである。

その意味で、小松氏の真の代表作は大坂釜ヶ崎の鉄くず回収屋“アパッチ族”
をモデルにした『日本アパッチ族』だと信じる。これはまさに、風俗小説
と奇想小説の、小松左京ならではの混淆によって生み出された傑作だった。
これを読んだことがある人なら、小松左京を単なる科学礼賛作家などと
は決して言えないはずである。

小松氏の死去は惜しみてもあまりあるが、“あちら”で岡本喜八監督と邂逅
したならば、ぜひとも、こちらでは幻の企画に終った岡本監督の映画
『日本アパッチ族』を完成させてもらいたい。


×世界の核戦争による破滅まで ○世界の核戦争開始そして終結まで
×発表当時(1963年)最先端のSF用語 
○発表当時(1963年)はそこそこ新鮮な感じがしていたSF用語

似ているようで違う ―― 博覧強記の小松左京と博覧強記の仕事術
似ているようで違う ―― 博覧強記の小松左京と博覧強記の仕事術 (2)

の続き。

「1970年代はじめくらいまで、日本人の平均的想像力というのは結局のところ生活圏の
半径1キロ以内を出ぬ、極めて箱庭的なものだった」は、ちょっとないだろう――ということ
については、「似ているようで違う ―― 博覧強記の小松左京と博覧強記の仕事術」と、
藤岡真blog」の「さよならジュピター、こんちはルシファー」を参照のこと。


で、『コップ一杯の戦争』については、唐沢俊一のいう「場末のバーのカウンターのどうし
ようもない会話から、世界の核戦争による破滅まで一気に持って行ってしまう」には、少し
違和感をおぼえた。主に後半部分が。

『コップ一杯の戦争』は実は Wikipedia の独立した項目になっていて、前半のあらすじは
そこに書かれている通り。

http://ja.wikipedia.org/wiki/コップ一杯の戦争
>“彼”は、ラジオの歌番組が突然の中断となり、不機嫌になる。“隣の男”は新聞(番組
>欄)を見てボクシングの中継が聞きたくなり、ママにラジオの周波数を変えさせるが、聞
>こえない。引き続いて“彼”もラジオの周波数を変えさせ、四波秋夫を聞こうとするが、
>やはり聞こえてこない。さらに機嫌を悪くした“彼”は、ママにハイボールを注文する。
> ママが注文された品をつくると、ラジオから臨時ニュースが流れ出す。ソビエト連邦か
>ら北米大陸に核ミサイルが打ち込まれた事を告げるそのニュースは、ただちにアメリカ
>合衆国の報復攻撃を告げる続報に塗り替えられ……。


で、後半は、以下のような感じで。「アメリカとソ連がいてもたんやぞ。お前、知らんやろ」、
である。

http://ameblo.jp/ffxsuki/entry-10181734981.html
>最後にカイロ発のニュースが入り、米ソヨーロッパが壊滅状態で日本に対して戦争終
>結に対しての仲介を申し入れしていると告げて終わる。
>コーさんはニュースを聞き終わると四波秋夫を聞かずに店を出て、星月夜を眺めなが
>ら、帰って妻に言う言葉を考える。
>「お前、さっき戦争があってんぞ。アメリカとソ連がいてもたんやぞ。お前、知らんやろ
>(本文より引用)」
>緊迫したニュースを聞きながらも、それを肴に呑んでいる酔客とバーのママの普通ぶり
>を描いた部分が秀逸。


つまり、「世界の核戦争による破滅」といわれても、世界の破滅とはちょっと違うんじゃ
ないかと思えてならない。だいたい、「場末のバーのカウンターのどうしようもない会話」
のような何気ない場面から、「世界の核戦争による破滅まで一気に」いかせるとしたら、
むしろ破滅モノとしては、ごく普通の (?) 平凡な作品になるのではないかとも思えるし。


それから、唐沢俊一には、「どこにもある家庭の描写からそのまま不条理とも言える人肉
食の話になってしまう」と紹介されている『秘密(タブ)』。「南国より持ち帰った神像」とか
「呪い」といった要素はなぜかスルーされている。

http://blog.livedoor.jp/tyokowai2ch/archives/53585661.html
>人肉を食う小説
〈略〉
>小松左京「秘密(タプ)」(1973)


http://bookx.seesaa.net/article/109163165.html
>「秘密(タプ)」
>南国より持ち帰った神像によって引き起こされる悲劇。


http://d.hatena.ne.jp/fulate/20090322/p3
><あらすじ>旅先で呪いの人形(仮面だったかも)を買う。
>家に飾っておくと、家族の様子が次第におかしくなってくる。
>奇行がエスカレートしていって殺し合いにまで発展する。


http://homepage3.nifty.com/DS_page/nanakita/ryoki3.htm
> 小松左京「秘密」は、あるあたたかい日曜日、住宅地の庭で夫が妻を蒸し焼きにして
>食った椿事。それはポリネシアから持ち帰った神像の呪いだった。事件を終結させるに
>はその呪いどおりに従うしかなく、全てを承知する殺された妻の実兄の指導の元、犯人
>の夫を焼き殺して警官も新聞記者にもその肉を食わせて秘密を分かち合う。静かで厳
>かな奇妙な味。


これは SF 小説というよりホラー小説な気が。いやジャンル分けにそんなにこだわる必要
はないのかもしれないけど、唐沢俊一のいう「卑近な部分を交えながらSF的な想像力の
世界に読者をいざなう」の例としてあげるのは、どうなんだろう……。

ちなみに、『秘密(タブ)』は、『くだんのはは』と同様、角川ホラー文庫の自選恐怖小説集
に収録されているので、小松左京自身の分類でも、恐怖小説、ホラー小説ということに
なるはず。

http://www.amazon.co.jp/dp/4041308631
>霧が晴れた時 (角川ホラー文庫―自選恐怖小説集) [文庫]
>小松 左京 (著)
〈略〉
>By きゅんたも "きゅんたも" (東京都港区)
>レビュー対象商品: 霧が晴れた時 (角川ホラー文庫―自選恐怖小説集) (文庫)
>【すぐそこ】にある山間の畏怖と既視感。
>【秘密(タブ)】にある西洋的宗教の塗布。



で、唐沢俊一に「まさに落語そのもの」といわれた『三界の首枷』は、こんな感じ。

http://blogs.dion.ne.jp/yumenoya/archives/10206585.html
>◆Y21-097:豊田有恒・編●日本SFショート&ショート選 ユーモア編●:700
> (注意・ネタバレ!)透視能力を持つ男が惚れて結婚した女は実は読心力を持ってい
>た。男はそのことにやっと気づき、二人のケンカが始まった。しかし、そのケンカの内容
>が会社にも近所にも知れわたっていたというもので、その原因は赤ン坊の長男らしい。
>超能力の自乗で生まれた赤ン坊はテレパシー放送局の能力を持っていた。(さらに胎
>児の娘は念動力…)
> ここで思い出していたのは、映画にもなったマンガの佐藤マコト「サトラレ」のことでし
>た。このマンガはお気に入りですが、作者も「三界の首枷」にインスパイアーされたのか
>も知れませんね。「サトラレ」の続編をお待ちしています。


上に引用したブログを読むまで、『サトラレ』との関連は考えていなかったけど、確かに、
いわれてみれば、「『三界の首枷』にインスパイアーされたのかも」とも思えてくるような。
(それまでは発信テレパシーだから『虎よ、虎よ!』っぽいとしか思ってなかった)。

で、まあ、個人的には、これらの作品が、もし「現在の読者には古い、と感じられてしまう
ことが多い」とするならば――あくまで仮定の話だし、「ことが多い」とは言い過ぎだろうとも
思うが――原因は唐沢俊一のいう「卑近な部分が、現代の目から見れば冗長」だからでは
なくて、ショートショートはワンアイデアストーリーになりがちで、そのアイデアの部分が
後発の作家たちにある程度真似されたら、衝撃や新鮮みがやや薄れてしまうといった面
はあるかもしれないと思った。

『サトラレ』を先に読んだ者の目には、『三界の首枷』はありがちなアイデアをベースに
したものとうつる可能性はないこともないし、喜国雅彦の漫画にあった、テレビのアニメ
番組を見ている最中に第三次世界大戦開始のテロップを見て真っ青になったオタク――
すぐにテレビ局に、番組を録画していたのにどうしてくれると抗議の電話を入れるのだが
――のネタに先にふれていると、『コップ一杯の戦争』を読んでも「ああ、あれね」と思ったり
するかもしれないので。


それから、唐沢俊一は『三界の首枷』を説明するにあたり、「透視能力だのテレパスだの
といった、発表当時(1963年)最先端のSF用語」と書いているが、1963 年の時点で、
「最先端のSF用語」というのは、ない。

テレパスといえば、真っ先に思い出されるのはフィリップ・K・ディックだが (←反論不可)、
彼の『偶然世界』が 1955 年。その次に思い出される『スラン』は 1940 年。

http://www.silverboy.com/silverboy/pkdlong.htm
>Solar Lottery 偶然世界 1955 (ハヤカワ文庫 小尾芙佐・訳)
〈略〉
>テレパスの親衛隊に守られた世界政府の執政者、冥王星の外側に位置する太陽系の
>第十惑星「炎の月」への宇宙旅行、月面基地での暗殺者と親衛隊との一騎打ちなど、
>今となってはあまりにベタ過ぎる設定の典型的なSF活劇には、この作品が書かれた50
>年代という時代背景を感じない訳には行かないが、翻ればそれは、こうした通俗的な
>フォーマットの中できちんと物語を構築することのできるディックの確かな基礎筆力の証
>でもある。


http://www.inawara.com/SF/H075.html
>スラン
>SLAN
>A・E・ヴァン・ヴォークト
>1940
> 海外ではどうか知らないが、日本において超能力SFの代表作・古典を問われれば、
>今もって本書「スラン」が挙げられるに違いない。
>「スランだ!殺せ!」 なんといっても、竹宮恵子の漫画「地球へ」をはじめ、萩尾望都
>の初期作品群など多くの漫画・アニメに影響を与えた作品であることは間違いない。


いや、これが日本で出たのは 1970 年代になってからで――というのなら、ハインラインの
これはどうか。

http://hajimen.fc2web.com/hein/list.htm
>『宇宙(そら)に旅立つ時』(酒匂真理子、「宇宙兄弟の秘密」、1956,"Time for the
>Stars")通りすがり選
>  ジュヴナイル物。<生活圏計画>のもと、双子のテレパスの一方が恒星間飛行に
>旅立ち,地球型惑星を探索。相対性効果によるタイムラグによる通信困難を乗り越え
>ながら・・・。「夏への扉」にも通じるテーマが含まれている。


1960 年に、堂々と (?) 日本のジュブナイルものとして発売されている。

http://www.bumbunker.com/?date=20061113
>岩崎書店・少年少女宇宙科学冒険全集 2、原作 R・ハインライン/訳 片方善治/イラ
>スト 武部本一郎「宇宙兄弟のひみつ」 1960年10月初版。創元SF文庫から「宇(そら)宙
>に旅立つ時」(酒匂真理子 訳)のタイトルで出ておったやつで、そちらなら軽石庵にも在
>庫はございます(w。


「透視能力」の方については……福来博士の透視実験とかあったのに、1963 年時点で
「最先端のSF用語」というのは、論外と片づけてしまってよいのではないかと。

http://ja.wikipedia.org/wiki/透視_(超心理学)
>明治43年には福来友吉が、御船千鶴子や長尾郁子の透視実験を行った[3]。


んで、個人的に、どうしようかなあ、わけわかんないなあと困ったのが「純粋SF作品」って
いったい何よ? ということと、なぜか 3 度も繰り返されている「卑近な部分」とやらの話。

唐沢俊一は、いったんは「壮大なイメージを、読者の生活圏の中にあるところから説き起
こし」と書いているのに、その「読者の生活圏の中にあるところから」というのを、わざわざ
「卑近な部分」と悪意のある表現にして、「冗長」だの、「何まだるっこしいことをやっている
んだ」だの、「導入部に過ぎない卑近な部分」だの……。

いや唐沢俊一は「導入部に過ぎない卑近な部分の描写がたまらなくいとおしくなることが
ある」とも書いているではないかと思おうとしたが、「いとおしくなることがある」というのは、
いつも「いとおしく」思うわけではないとも解釈可能なわけで。

唐沢俊一のいう「純粋SF作品が小説として成立する現在」というのは、「SF的手法が
小説の形として定着した現在」であり、「いきなりイメージを人類の起源に置こうとはるか
未来の終末に置こうと、読者はいかようにもついてくる」のだそうだ。……確かにいわゆる
ジャンル SF の読者はついてくるだろうし、そういうジャンルとしての SF が成立している
のは、「小松氏たちSF第一世代作家たち」の頑張りによるものかもしれない。「そういう
読者が生まれるためにこそ」頑張っていたのかどうかまでは、何ともいえないが。

しかし、「読者の生活圏の中にあるところから」話をはじめない SF というのは、ジャンル
SF のファン以外には、今でも取りつきにくいんじゃないかなと思う。たとえば、少年ドラマ
シリーズの『タイムトラベラー』の一作目はとても好きだったけど、二作目は舞台が未来
世界のため馴染めなかったというようなタイプが多数派をしめるのではないかと。少なく
とも、自分の周囲では、そうだった……。

さらにいえば、唐沢俊一のいう「いかようにもついてくる」読者が皆、「読者の生活圏の中
にあるところから」話をはじめること、「卑近な部分」が含まれることを嫌がるわけでもない
だろうと思う。そこら辺は「人間を描く」ことについてどうのこうのと論争みたくなって、でも
「面白ければどちらでもよいよね」あたりに落ち着いたりするんじゃないかなあ。

だが、今回の唐沢俊一の文章では、「純粋SF作品」を問答無用で格上扱いし、「卑近な
部分」は、彼のB級裏モノ趣味的な視線で「たまらなくいとおしくなることがある」ものとして
処理されているみたいで、それが個人的な違和感の原因ではある。

そして、小松左京が「風俗作家」の面が強いとするならば、「時代・風俗を特定せず」の
星新一とは、対象的な存在となる。

http://www.setabun.or.jp/exhibition/hoshi/
>SF作家として意欲的に作品を書き続けた星新一は、「ショートショート」という、時代・
>風俗を特定せず、エッセンスを凝縮して読者の想像力を喚起させる独自のスタイルを
>確立し、前人未踏の1001話を達成します。


この「風俗を特定せず」は、星新一の本の解説などに、彼の作品の特長としてよくあげら
れていた要素でもある。「風俗を特定」すると、読者がとっつきやすい利点がある反面、
古びやすくなるという危険もある。

どちらが上とか優れているとかは、一概に決められるものではないと思う。でも、以前に
ここに引用した以下の文章などを思い出すと、唐沢俊一にとって星新一とは別格であり、
彼の路線とか方向性が一番との価値観が、今回の小松左京の“追討”に反映されている
可能性があるとも思えてくる。

http://netcity.or.jp/otakuweekly/BW1.0/column1-1.html

 中学一年のとき読んだ星氏の『妄想銀行』から、僕の“もの書きに
なりたい”という夢が始まったのだった。僕はさっそくこの本を学校に
持っていき、友人知人中にショート・ショートを疫病のように蔓延させた。
そして友人と語らって同人誌をガリ版刷りで作り、もちろんそこに自作
のショート・ショートを山ほど載せた。同じ経験を持つ者が何百、何千人
いることか。小松左京も筒井康隆も偉大である。だが、星新一に比べ
ればやはり、読者を選ぶのである。比べものにならないくらい、星新一
は、若い読者にSF(と、いうより創作の魅力)というものを認識させた、
功労者と言える。


まあ、上に引用した『星新一追悼』は、星新一について結構酷いことが書かれていたり
するのだけれど。他のところでも、いろいろとガセとかも書いているし。

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