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2011.03.05 (Sat)

やっぱりあまり関係ないと思います<『ノンちゃん雲に乗る』とナチスドイツ

http://www.tobunken.com/diary/diary20110228172829.html

28日
月曜日
古い映画をみませんか・12 『ノンちゃん雲に乗る』
〈略〉
なんでノンちゃんだけ連れていってもらえなかったのかというと、ノンちゃん
は体が弱いからである。そのために、転地療養で田舎に家族ぐるみ引っ越して
きていたのだった。

この転地療養というのは人間を空気のいい自然の中に置けば健康が回復する、
という自然療法思想であり、歴史は長いが、日本にその思想が根付いた
のは明治時代にドイツのベルツ博士が日本人に海水浴、日光浴などを勧め、
広めたことが大きい理由であった。葉山に皇室の御用邸としての別荘地が
創られたのはベルツの進言によるものだ。
本家ドイツではこの思想は昔から盛んで、これを発展させて、19世紀末に
ワンダーフォーゲル運動というムーブメントが起きた。ベルツ博士も
山歩きが趣味であったが、本国のそれはやがて、ドイツ青年運動と名を変え、
ヒトラーユーゲントに統合される。
それはともかく、体が弱かった(映画では呼吸器の病気と言っているが、
原作では赤痢と腎臓炎と声帯炎というトリプル・パンチであった)ノンちゃんが
田舎に越してきたのは、ベルツ博士の広めた転地療養思想が元になっているわけだ。

……と、いうことでちょっとこの映画を離れる。ベルツにはトク(徳之介)と
いう子供があったが、彼はドイツに帰国したあと、父の財産を自動車や
芝居道楽に使い果たす放蕩者になっていた。ドイツで日本の歌舞伎を
上演したりしたというから、かなりの散財をしただろうなあ、と思う。
このトクが1930年代以降、接近していたのが、ナチスドイツだった。
日本びいきで、日本の武士道に心酔していたヒムラーあたりに気に入られた
のかもしれないし、芸術関係のプロデューサーとして意識が共通する
ゲッベルスなどと肝胆相照らしたのかもしれない。ともかく、ナチスドイツと
日本の文化交流に彼が関与していた歴とした事実がある。


前エントリーの続きのようなもの。

「……と、いうことでちょっとこの映画を離れる」も何も、その前の「この転地療養というの
は」の段落で既に、映画の話を離れまくっていたような気がしてたまらないのだが。

「古い映画をみませんか」というタイトル自体がトラップみたいなもので、もしかしたら唐沢
俊一は、映画の話が半分、そこから好き勝手に連想したことをずらずら並べる雑学系の話
が半分という、エッセイの新境地でも切り開こうとしているのか――などと思う今日この頃。


で、「人間を空気のいい自然の中に置けば健康が回復する、という自然療法思想」が日本
に「根付いたのは明治時代にドイツのベルツ博士が日本人に海水浴、日光浴などを勧め、
広めたことが大きい理由」というのは、何か微妙に間違っているのではないかと。

エルヴィン・フォン・ベルツが「草津温泉を再発見」した「1878年(明治11年)頃」、既に
その地は、全国から療養に訪れる多くの人々でにぎわっていたという。また、「空気のいい
自然の中に置けば健康が回復」というだけの話なら、インドア指向でもよさそうなものだ
が、ベルツ博士の場合は、「海水浴や日光浴を勧め」るのに加えて、「歩くこと」を勧める
アウトドア指向っぽい。剣道と柔道の普及に尽力したり、かなり運動重視。

http://www.jpa-powerlifting.or.jp/jpa-jihou/jihou/jihou-29.pdf
> 明治9年,ベルツ博士は「お雇い外国人」としてドイツから来日し,東京医学校に着任
>し,以後29年間,東京帝国大学医学部の教師を務め,日本の温泉研究者として多大
>な貢献をなさいました。
> そのベルツさんが,明治11年に草津温泉にお出でになりました。当時,草津には全国
>から病気を治すために湯治の人々が多く滞在していました。温度が48℃~55℃の熱
>い温泉に入り,体内の毒素を出して病気を治している人を見て大変驚きました。ベルツ
>さんが草津に来られるときは,軽井沢から草津までの50キロの道のりを歩き,地元の
>若者と白根山まで登山競争をしました。当時は,何でも日本の伝統は悪く,西洋のもの
>は全て良いと思われていました。日本人には運動をするという意識がなく,特に日本古
>来の武道を日本人が馬鹿にしていました。そこで,ベルツさんは,歩くこと,海水浴や日
>光浴を勧め,剣道の普及,嘉納治五郎と柔道の近代化を図り普及させました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/エルヴィン・フォン・ベルツ
>草津温泉を再発見、世界に紹介した人物でもある。1878年(明治11年)頃より草津温泉
>を訪れるようになり、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理
>想的な飲料水がある。 もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ
>(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と評価する。
>・1880年(明治13年)、「日本鉱泉論」エルウィン・ベルツ著(中央衛生会訳)を発刊。
> ・日本には多くの温泉があり療養に利用されているが、これを指導する機関がない。
>  政府は温泉治療を指導すべきであると説いている。
〈略〉
>ベルツは大変な健脚で噴火直後の草津白根山にも登頂したことがあり、その際の手記
>は現在でも貴重な火山学的資料になっている。


で、「葉山に皇室の御用邸としての別荘地が創られたのはベルツの進言によるもの」という
こと自体は、葉山御用邸ができた (1894年) のは、ベルツが宮内省侍医になる (1902年)
よりも前というのが少し気になるが、まあそれはよいとして。

http://ja.wikipedia.org/wiki/エルヴィン・フォン・ベルツ
>・1902年(明治35年)、東京大学退官、宮内省侍医を勤める。

http://ja.wikipedia.org/wiki/御用邸
>葉山御用邸(はやまごようてい、神奈川県三浦郡葉山町、1894年(明治27年)-)主に
>2月~3月に訪れる。夏季は観光客が多いため用いない。大正天皇が崩御した所であ
>る。


http://shonanpm.exblog.jp/2338935/
>葉山御用邸物語によりますと、日本近代医学の父といわれるエルウィン・フォン・ベルツ
>博士が医学者の立場から転地療養の有効性を皇室に申し出、葉山御用邸が生まれた。


http://www5a.biglobe.ne.jp/~wo-house/134hayama3.htm
>予防医学の見地から、日本に保養の思想を導入し、天皇家の侍医でもあったドイツ人
>医師エルウィン・フォン・ベルツ。ベルツが「葉山は気候温暖にして風光明美。近代的な
>保養地として整備すべき」と強力に宮内庁に推奨。これを受けて明治24年に有栖川宮
>別邸、明治26年に北白川宮別邸が建てられ、明治27年に葉山御用邸が竣工となりま
>した。


葉山御用邸などより古い熱海御用邸は、推挙したのは曽我祐準という日本人とのこと。
ベルツの功績や影響力を否定する気はないが、唐沢俊一の文章から受ける印象ほど、
転地療養を日本に根付かせるのに特定の外国人の力が必要だったとも思えない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/熱海御用邸
>熱海は、古来より温泉保養地として著名であった。幼少期の大正天皇は虚弱であった
>ため、宮内省は天皇のための転地療養地を選定していた。そこで、天皇の養育主任・
>曽我祐準は、熱海温泉におけるリュウマチ療養の経験に基づいて推挙したことから、
>熱海に御用邸が造営されることになった。
>明治16年(1883年)6月、宮内省は代替地として岩崎弥太郎から2610坪を無償取得し、
>同17年(1884年)7年には隣地727坪を買い上げたうえで、同21年(1888年)9月に起
>工、同22年(1889年)に竣工した。総面積は4017坪、建坪が約428坪で、御殿を除いて
>全て平屋であった。邸内には「大湯」が引湯されており、また、馬場も設けられていた。


http://history.kaze3.cc/his-31.htm
>北里研究所で研修した岩村田の医師菊池音之助(秩父事件参謀長菊池貫平の鯛)が、
>沓掛に駆けつけ無報酬の徹夜治療したのもこのときでした。これが縁で30年4月に、菊
>池は旧軽井沢に軽井沢病院を開設しました。これ以前には、上田の医師による脚気転
>地療養者の医院や漢方医しか無かった地域だけに、西洋医学による病院は土地の福
>音となりました。また地域に衛生組合ができたのは両村とも42年で、衛生思想普及と組
>織化の力となりました。

> 軍医総監林紀の実地踏査により、軽井沢が最良の保健地と認められ、高崎営所の脚
>気患者が転地療養したのは明治14年でした。佐藤万平宅を収容所に、50名ずつ交代
>で約200名を治療しましたが、費用不足で3年で閉鎖となりました。しかし、以後の日清・
>日露・北清など戦争の傷病兵療養所も開設されるなど、転地療養の適地とし軍の利用
>は繰り返され、今日の保健休養地のきっかけとなりました。

> また木脇医師により、バセドー病全治例が欧米医学界にまで紹介されるなど、山岳療
>法・空気療養地などの言葉で軽井沢が知られました。そのため27年夏の日本人転地療
>養者は30余名を数えました。



で、2ちゃんねるのスレ (Read More 参照) では、「”転地療法とはちょっと相容れない”は
いいすぎかもしれないと思ったが、 転地療法が発展してワンゲルムーブメントが起きたと
いう説も見当たらない」と書かれている件について。

Wikipedia を参照すると、「日本のワンダーフォーゲル部にある、山岳部の亜流(第2山岳
部)もしくはかなりのハードなトレーニングをする山岳部という意味は、ドイツのワンダー
フォーゲル運動にはなかった」とのことで、活動内容はボーイスカウトに似ている感じ。
そしてワンダーフォーゲルというムーブメントは自然主義指向アウトドア指向の若者から
自然発生したものという話で、唐沢俊一のいうような転地療養を「発展させ」たものだと
する人はあまりいないような。少なくともそれは定説ではない模様。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ワンダーフォーゲル
>ワンダーフォーゲル(ドイツ語:Wandervogel)は、戦前期ドイツにおいてカール・フィッ
>シャーらがはじめた青少年による野外活動である。またそれを元にする野外活動を率先
>して行おうとする運動。1896年にベルリン校外のスティーグリッツのギムナジウムの学
>生だったカール・フィッシャー[1]がはじめた。その思想の一部を受け、日本でも(主に)
>大学のクラブ・サークル活動の一環として野外活動を主とする部が発展した。これらの
>活動もワンダーフォーゲルと呼び、ワンゲルと略したりする。
>ただし、日本のワンダーフォーゲル部にある、山岳部の亜流(第2山岳部)もしくはかなり
>のハードなトレーニングをする山岳部という意味は、ドイツのワンダーフォーゲル運動に
>はなかった。
〈略〉
>19世紀後半のドイツにおいての急激な近代化に対する広い意味での自然主義の高揚
>を背景としている。
>はじめ、フィッシャーらは男の子ばかり郊外の野原にでかけてギターを弾き、歌を歌っ
>た。そのうち、グループの緑の旗が出来たり、男の子は半ズボンに、ニッカーボッカーの
>ようなスタイルになり、女の子も参加するようになる。
〈略〉
>運動の消滅とナチズム
>1910年代にはドイツ全土に広がるが、時は第一次世界大戦に入り、ワンダーフォーゲル
>は、戦争忌避的な個人主義、個人の享楽主義のようにとられ、好ましくないとの批判が
>出てくるようになり、関連の団体、グループ13団体が、ホーエン・マイスナーに集合し、
>「自由ドイツ青年」という団体を結成する。戦争の進展と共に運動の一部はナチ化し、の
>ちヒトラーユーゲントに吸収されて、その姿を消す。


http://fuwvob.web.fc2.com/wvdata/whatwv.html
>【歴史】
>1896年ベルリン・シュテグリッツ高等学校 Berlin-Steglitzer-Gymnasium のフイシャ
>-Karl Fischer という生徒が、2~3の学友と山野にキャンプしながら放 浪の旅をした事
>に始まり、1901年<渡り鳥>という名 前が付けられたものだといわれる。当時この運
>動は、良家の子弟の<戯れ>だと一般には冷 笑されたが、実際には、班長(Bacchant
>バハント)を中心とす る真面目な規則正しい集団生活を送ったという。
>こうして1904年には正式の規約が決定され、ついで 機関紙<ワンダ-フォ-ゲル>
>の創刊(1905)、渡鳥歌集 1908もつくられるにおよんで、運動は次第に普及していった。
〈略〉
>「ボ-イスカウト」
>ボーイスカウト活動の始まり ~ 1907年8月初旬の8日間、20名の少年たちが英国の
>ドーセット、 プール近郊のブラウンシー島で実験キャンプを行ったことから、この運動は
>始まった。
>これを組織したロバート・ベーデン-パウエル卿 (Lord Robert Baden-Powell : B-P)
>は、 彼の考案した訓練と訓育方式が青少年にとって魅力的なものであり、かつ有効で
>あることを確信した。


その他参考 URL:
- http://jad.fujitsu.com/adver/president/talk01.html
- http://www.geocities.jp/ramopcommand/page013.html

と、ここまでは割と予想通りだったのだけど、「ワンダーフォーゲル運動」と「ベルツ博士」と
はあまり関係なかった――というのは何か少し意外だった。「ベルツ ワンダーフォーゲル」で
ググると唐沢俊一の日記がいきなり上の方にくるし、それ以外の上位のページには、エル
ヴィン・フォン・ベルツとワンダーフォーゲルとを特に関連づけた記述はなかったりする。

http://www.ikitai.net/m/marumi/2005.10.30takasagokan/index.html
>浅間牧場から先は、初めての道である。
>「ロマンチック街道」といって、草津の恩人・ベルツ博士もよく歩いたんだって。
>ワンダーフォーゲル好きだったのかも、ドイツ人だし。


読み返してみたら、唐沢俊一自身も、「ベルツ博士も山歩きが趣味であった」としか書いて
いなかったりするのが何とも……。


つまり、まあ、ノンちゃん→転地療養→ベルツ博士→ワンダーフォーゲル→ヒトラーユーゲ
ントという流れのうち、転地療養→ベルツ博士、ベルツ博士→ワンダーフォーゲルへの結び
つけは、最初読んだときもずいぶん強引じゃないかと思ったのだが、調べてみると思ってい
た以上に強引だったのだなあ、と。よほどヒトラーの方に話をもっていきたかったのかなと
は思うけど、そこまでヒトラーに執着した理由は謎。

「ヒトラーにかぶれたという“過去”を払拭したい、という熊谷」に重点をおいた話をするため
に、とにかくヒトラーに関連しそうなことに字数をさきたいと思ったのかもしれないが、息子
のトクがヒトラーと接近していたからって、この人もこの映画とは関係ないし、孫のディーツ
は原節子に花束を渡した事があるというだけで……だから、どうしたとしかいえないような
気が。

確かに唐沢俊一は、ヒトラーについてのガセを書いたり、「社会派くん」で唐突にヒトラーの
名前を出したり、ヒトラーの話をするのはそこそこ好きなのかな (好きなものこそ、とは限ら
ないが) とは思っていたけど、今回のように妙に執着してしまうほど好きだったっけ。

タコもクラゲも区別しないのはトンデモさんだけ
そもそも美幼女じゃなくて美少女もロリコンの対象?
そのトリニダード、多分カリブ海の島じゃありません
村崎百郎さんのご冥福をお祈りします。 その 3。


その他参考 URL:
- http://www5d.biglobe.ne.jp/~d-momo/fan04.htm




More...

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/books/1298408672/
-------
42 :無名草子さん:2011/02/28(月) 22:48:18.29
http://www.tobunken.com/diary/diary20110228172829.html
『ノンちゃん雲に乗る』

これは…
「映画の話はどこへ行ったぁ!?」
と突っ込みながら読んでもらうことを想定して書いているのか?

43 :無名草子さん:2011/02/28(月) 22:52:35.17
ノンちゃん雲に乗る、見てみたくなった

44 :無名草子さん:2011/02/28(月) 22:55:50.67
>>43
(笑)

45 :無名草子さん:2011/02/28(月) 22:57:08.08
ひでえ悪文だよな
「であり」「である」と続くから、山岳映画の巨匠がリーフェンシュタール?と誤解しそうだ。

>アーノルド・ファンク(ワンダーフォーゲル思想から発生したドイツ映画独自の分野である山岳映画の巨匠であり、ヒトラーのお抱え記録映画作家であるレニ・リーフェンシュタールを最初に“女優として”見いだした人物)


46 :無名草子さん:2011/02/28(月) 22:59:57.37
>本家ドイツではこの思想は昔から盛んで、これを発展させて、19世紀末に
ワンダーフォーゲル運動というムーブメントが起きた。
これちょっと疑わしいね。
日本のワンゲル部のイメージが強すぎるのかもしれないけど、
転地療法とはちょっと相容れない様な


48 :無名草子さん:2011/02/28(月) 23:05:01.55
転地療法はドイツだけじゃないからね
ワンゲルよりはむしろ観光と結びつく発想

51 :無名草子さん:2011/02/28(月) 23:12:17.65
>>43
つ http://www.tudou.com/programs/view/46u7jmJPIV8/

52 :46:2011/02/28(月) 23:15:29.07
>46補足
ウィキペみたりググった結果、
”転地療法とはちょっと相容れない”はいいすぎかもしれないと思ったが、
転地療法が発展してワンゲルムーブメントが起きたという説も見当たらない。

53 :無名草子さん:2011/02/28(月) 23:15:57.77
俊ちゃんは何に乗るの?

74 :無名草子さん:2011/02/28(月) 23:42:33.96
>この映画が、非常によく出来てはいるが、どこか甘い“家庭映画”の
>ワク内を出るものではない(現在の眼で見るとそこが価値になっていたり
もするが)のは、そのせいであろう。


なに、この上から目線
全然見る気が起きない

-------

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テーマ : 感想 - ジャンル : 本・雑誌

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Comment

直接のレスでなくてすみませんです。(_ _);
昨日たまたま買った『とりあたまニュース』に書いてあった佐藤優のエッセイより。

P.136 『とりあたまニュース』
> 筆者の高校生時代のことだ。埼玉県立浦和高校には、山岳部とワンダー
>フォーゲル(ワンゲル)部があった。この2つの部がひどく仲が悪かった。
>山岳部員は、「ワンゲルは女子供の遊びだ」と笑っていたし、ワンゲル部員は
>「山岳部は山を征服するという攻撃的性格の連中だ。僕たちみたく山と友だち
>になるという思想がない」と批判していた。もっとも、両部員共にリュックサックに
>石を詰めて、非常階段を上り下りする厳しい訓練をしていたので、当事者でない
>筆者からすれば、同じようなマッチョな連中だった。
> ワンダーフォーゲルは、ドイツ語から直訳すると「渡り鳥」の意味で、野外活動
>をする青少年を指す。もっとも日本の場合、野外活動といっても、山が多い。
>そのため日本のワンゲル部は第二山岳部のような存在になってしまったようだ。
> いま流行の山ガールたちはワンゲルの亜種なのだと思う。

# どうでもよいけど西原理恵子の描く佐藤優の似顔絵は割と写実的 (?) というか、
# 伊藤潤二@うずまきの人の漫画の主人公とは、もの凄く違う。
トンデモない一行知識 |  2011年03月09日(水) 08:51 |  URL |  【コメント編集】

なんだか百科事典などだとカール・フィッシャーの名前ばかり出て、専門書(例えば以下の引用書『ドイツ社会史』)などだとヘルマン・ホフマン(とカール)という傾向がありますね。出典の違いなのだろうか。

『ドイツ社会史』(矢野久/アンゼルム・ファウスト編)より、私のコメントの根拠・参照点を引用します(斜体部引用)。
(引用者注:当初のワンダーフォーゲルは)メンバーは12歳から19歳、ギムナジウムなど中等学校の生徒が中心である。1グループは20人までで、リーダーは一般のメンバーより3~6歳年長であった。(中略)一般にワンダーフォーゲル運動は、都市的文明(=近代)や大人たちの生活様式に対する反抗だったといわれている。だが、他方で、結局は大人主導の運動にすぎず、その価値観も市民層の価値観を大きく逸脱することはなかったという研究者もいる。
しかし、青少年を家庭と学校に囲い込み、監視を強めようとしている大人たちの眼から逃れられることができるという点、同年代の仲間たちだけで自由な時間を過ごすことができるという点が、この運動の最大の魅力だった。(中略)
ギムナジウムの生徒たちは、第5学年(14歳)で同一年齢人口の3%にすぎず、まさにエリートであったが、彼らの日常生活は灰色であった。まず、社会に出てから何の役にも立たないラテン語やギリシア語に大きなエネルギーを割かねばならない。服装や外出時間も厳しく規制された。最上級生でも、午後6時以降は、大人の付添いなしに外出してはならなかったのである。また、イギリスのパブリック・スクールとは違って、スポーツや課外活動もおこなわれず、多くの生徒たちにとっては、「牢獄」、「無味乾燥な頭脳工場」とおもわれていた。こうした状況にあった生徒たちが、ワンダーフォーゲル運動に強烈な魅力を感じたことは容易に想像できよう。
ワンダーフォーゲル運動によって生み出された野山の渡り歩き、キャンプ、キャンプファイア、フォークソング、フォークダンスといった活動スタイルは、ギムナジウムの生徒を超えて広がっていった。カトリックやプロテスタントの宗派系青少年団体や社会主義系の青少年組織は、ワンダーフォーゲル運動よりも大人たちが主導するという側面が強かったが、これらの組織も同じ活動スタイルを取り入れていくのである。
さらに青年運動の広がりに目をつけた大人たちがいた。とくに軍部である。19世紀末から、軍関係者は、青少年が社会主義運動に感化されるのを防ぎ、彼らに愛国心を涵養し、さらに肉体的にも鍛え上げて国防力を強化することが必要だと考えていた。(中略)
このような目的のために、1911年11月、フォン・デア・コルツ元帥によって青年ドイツ同盟が結成され、ワンダーフォーゲル諸組織(いくつかの団体に分裂していた)や宗派系青少年団体、体操協会などさまざまな青少年団体に参加をよびかけた。青年ドイツ同盟は、政治的には中立性を強調し、軍国主義的色調を抑えてはいたが、加入団体の中には軍事訓練をおこなうものもあり、精神的・肉体的に青少年の国防力を強化するための組織であることは明らかであった。指導者は大人、しかも圧倒的に軍人だったので、この同盟への加入は青少年の自律を危うくするものであった。
事実、加入を拒否した「新ワンダーフォーゲル」は、「青年の自律」を強調する。青年ドイツ同盟の大規模組織、大人の指導、命令と服従、上官と部下といった特徴に対して、自分たちは個人の育成、同年齢の同志、共同決定、友人、旅行を重視するという主張である。だが、このように考えるグループは少数派であった。ワンダーフォーゲルの他のグループは青年ドイツ同盟に加入し、この同盟の20歳以下のメンバーは、1914年には、75万人を数えるにいたっている。


この後、第一次世界大戦勃発によって青少年層はもとより全ドイツ国民的に階級を超えた一体感、高揚感に熱狂したのだけれど、戦争後半ともなると戦争支持と「平和と民主化」を要求する人々との対立が激しくなった。<革命の結果成立したヴァイマル共和国のもとで、市民層の青少年は、極左派から極右派まで、禅宗やヒンドゥー哲学にのめり込むグループから原始共産主義を実践するグループまで、多種多様なグループに分裂していった。
こうした「多種多様に分裂した」状態をまとめようと生まれたのが「ブント(同盟)系青年組織」(先の「青年ドイツ同盟」とは別)。「ブント」系青年組織は1926年時点で5万人あまり。プロテスタント系46万、カトリック系78万、社会主義系37万なのでまったくの少数派であったけれど、他の青少年団体に大きな影響を与えており、ヒトラー・ユーゲントもこの「ブント」系青年組織のひとつとして設立された。
「ブント」系の指導者は一般に大人であった。ヒトラー・ユーゲントは「若者は若者によって指導される」との基本方針を立て大人の権威を排除し、むしろそれに反抗することを目指していた。しかし見方を変えれば、ヒラの組織員たちは同年齢もしくは年下のリーダーに命令されるわけで、最悪の場合労働者階級の年長者が上級学校在学の年少リーダーに服従し、そこには階級問題・格差問題は存在しないことになっているというケースも発生した。


>河童が尻小玉をぬく
↑まァ、尻小玉を抜かれた経験も無いし抜かれた人も知らないのでアレなんですけれど、耳にした伝説の範囲だと、河童に尻小玉を抜かれるのは泳いでいとき限定ではなく、むしろ橋を渡ろうとしたり、川原を散策したりといった状況下のほうが多いような気がしますが。
discussao |  2011年03月07日(月) 20:20 |  URL |  【コメント編集】

>discussao さん

カール・フィッシャーの方ではなく、「ヘルマン・ホフマンが発足させた」 (前身の組織の方ですが) みたいな書き方をしている資料もありました。

http://www.geocities.jp/ktmtkg2000/review/1025.html
> ワンダーフォーゲル運動は,1886年,ギムナジウム(日本の中学・高校に
>当たる)の教師であったヘルマン・ホフマンが発足させた「シュテグリッツ校
>生徒徒歩グループのための委員会」に端を発する。
> これを,ホフマンの教え子の一人であったカール・フィッシャー(当時・ベルリン
>大学法学部の学生)が引き継ぎ,1901年,「ワンダーフォーゲル(渡り鳥)生徒
>実行委員会」とした。「健全な精神を養うとともに物質文明(産業革命)で見失わ
>れた伝統や価値の再発見を目指す」目的であった。グループ内で絶対的な力を
>持つリーダー「グロスバッハハント」の下で森歩きなどを行い,仲間と会うと
>「ハイル」とあいさつする。やがて,山歩きより軍事訓練に力点が移った。なお,
>フィッシャーは1906年にワンゲル運動から身を引いてドイツ海軍に志願し,
>中国・青島で日本軍の捕虜にもなっている。
> ワンゲル運動は,第一次大戦後,大衆化してドイツ語圏で爆発的に広まり,
>正会員だけで20万人を軽く突破するまでに至った。これが,ナチ突撃隊や
>ヒトラー・ユーゲントに合流した。この結果,第二次大戦後はナチ戦犯に連座
>する形で,ドイツ国内では禁句となったという。


>引率者といった「大人」の責任者を置かず、基本的には少年のリーダーが
>少年を統率する形態

というのが、ボーイスカウトとの大きな相違点で、発足も学生がリーダーシップをとって――とか考えていたのですが、ちょっとわからなくなりました。@_@ まあヘルマン・ホフマンの方も、学生でもあったというのは、わかるのですが。


>ウチナンチューに意外と遊泳習慣がないように。

そうなんですよ、後出しジャンケンで申し訳ないですが、それはちらっと頭をよぎりました。しかし、昔は川で泳ぐ習慣がなかったとすると、河童が尻小玉をぬくとか、そういう伝説が発生する余地もあまりなかったことになるのでは、とも思いまして。^^;
トンデモない一行知識 |  2011年03月06日(日) 23:53 |  URL |  【コメント編集】

>mino さん
>暗い冬を過ごすと、お日様が実に恋しくなってしまうものです。

( ・∀・)ノシ∩へぇ~
なるほど、健康法とか生活習慣とかだけの問題ではないのですね。

スウェーデンといえば、インテリアが明るくカラフルというイメージもあるのですが、暗く長い冬に対抗する心理 (?) がはたらくのかも、と思ったりもしました。

# または北欧らしく HR/HM ですね (←何か偏っています)

日本人でも水着の跡をつけないように焼く人は多いですが、外人の方が、跡をつけない焼き方に執着する人が割合的に多いような気はします。
トンデモない一行知識 |  2011年03月06日(日) 23:38 |  URL |  【コメント編集】

その松岡正剛のとこにある「草創期のワンダーフォーゲル」という写真で確認すると、カール・フィッシャーはとても幼い顔立ち、対するヘルマン・ホフマンは顔が不鮮明ながらも腰に手をあてるポーズといい体格といいおっさんぽい(大学生だけど)。
ヒトラー・ユーゲントと数多あった青少年組織との大きな違いは、(1)各青少年組織は宗派や階層ごとに分断されていたのだけれど、それらを「階級なき社会」実現のため一つにまとめ、理想とする「都市市民青年層のライフスタイル」で運営したこと(2)引率者といった「大人」の責任者を置かず、基本的には少年のリーダーが少年を統率する形態を取ったこととされ、それがヒトラー・ユーゲントの魅力ともなり一部の若者たち(「エーデルヴァイス海賊団」「スウィング青年」「モイテン」ら非合法青年組織)らの反発となったそうです。体制翼賛的な優等生リーダーを不良少年が唾棄するということですね。


>健康法としての海水浴は「お雇い外国人」からの輸入として、彼らの影響がなかったとしても、日本人は海でぱちゃぱちゃ泳いで遊んでいたんじゃないかなあと思ったりしています。

武道のなかでの「古式泳法」や海女・海人などの職能民は除いて、日本に海川で泳いだりという習慣はなかったのでは?ウチナンチューに意外と遊泳習慣がないように。
健康法としての海水浴は18世紀後半欧州で始まったそうです。おそらくベルツ以下外国人たちがアウトドア健康法を推薦し松本良順ら体制側の健康管理者がそれを受け入れたのも、それが当時のトレンドと考えられていたからでしょう。欧米人も19世紀までは入浴する習慣がなく垢だらけだったという話とどう繋がるかはしらないけれど。
discussao |  2011年03月06日(日) 17:59 |  URL |  【コメント編集】

●日光浴

スウェーデンで二年ばかり過ごした経験からすると、
健康のためとかいうより、精神的に日光を求めるようになってしまいます。
もちろん、健康のためにも必要なんでしょうが、暗い冬を過ごすと、お日様が実に恋しくなってしまうものです。

男女問わず日光浴をするわけですが、女性は日焼けに水着やら下着の跡がつくのを
かなり嫌うんだなぁ。というのをビーチや山などで日光浴中の女性の格好から学んだものです。
mino |  2011年03月06日(日) 16:10 |  URL |  【コメント編集】

これは雑談モードというか、ちゃんとした根拠が示せるわけではないのですが (_ _);
健康法としての海水浴は「お雇い外国人」からの輸入として、彼らの影響がなかったとしても、日本人は海でぱちゃぱちゃ泳いで遊んでいたんじゃないかなあと思ったりしています。

「お雇い外国人」などの影響が強そうだなと思っているのが日光浴で、東京に出たばかりのとき、外人は日光浴に執念を燃やすものだなあと感心した覚えがあります。プールなんかでも日傘の下にいたりしないでとにかく焼く、その際には室内にいても日焼けするタイプのサンオイルをべたべた塗る、という感じで。

私が子どもの頃は、紫外線の害とか皮膚がんとかの話はあまり聞かなくて、夏のうちに日焼けしておくと冬に風邪をひかなくていいんだよと言われていました。このあたりは外国の輸入かなあ、と。
トンデモない一行知識 |  2011年03月06日(日) 14:09 |  URL |  【コメント編集】

>ヘルマン・ホフマンという大学生に速記術を
>いにしえの「遍歴学士」の伝統

へぇ~∩と思ってググったら、こういうの↓を発見。これはとても面白かったです。

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0749.html
> そもそもドイツ青年運動のルーツのルーツは中世の「ブルシェンシャフト」
>(遍歴学生)にまでさかのぼる。とくにプロイセン絶対主義にもフランス革命
>にも与さず、しきりにドイツの伝統だけを愛した愛国的学生運動をルーツに
>していた。そこには疾風怒濤とドイツ・ロマン主義が生きていた。
〈略〉
> ワンダーフォーゲルがベルリン郊外のシュテグリッツに発祥したというのは
>ひとつの伝説である。
> 実際にはすでに予兆が胎動していた。テューリンゲン、ヘッセン、ホーエマ
>イスナー、クロナッハ、イエナ、ゲッティンゲン、カッセルなどの「新しい群」
>(ノイエ・シャール)に蠢いていた。それはかつての義勇軍(フライシャール)や
>少年団(ユンゲンシャフト)の変形がもたらす揺動だった。担い手はほぼ全員
>が中産階級出の青少年たちである。
> それらの根っこに発端の火をつけたのが、1894年にヘルマン・ホフマンが
>シュテグリッツの高等中学校時代につくった「速記術研究会」だった。
> この研究会はときおり会員で「遠足」をした。その体験には何か新しい機運
>が感じられた。そこでホフマンと友人のカール・フィッシャーは、1901年11月4日
>の夕刻、「ワンダーフォーゲル・学生遠足委員会」という結社をつくり、規約を
>決めてパンフレットを発表する。
> これがワンダーフォーゲル誕生の“真実の瞬間”である。
> 遠足はもっぱら近郊の山歩きと山渡りをおこなった。しかし、その前提には
>速記術研究会がそうであったように、ドイツ青年どうしの言葉と、その言葉を
>象徴する表象によるコミュニケーションの方法をさぐり、そこに新たな連携を
>確立するという目的がうずいていた。一人一人がハインリッヒとヒューペリオン
>になるべきだったのである。
〈略〉
> 菜食主義、合唱団の結成、先遣隊(フォアトルップ)の組織化、支部新聞
>発行の義務化、男性同盟(メナーブント)の試みなども課題にあがったが、
>まだこれらは前提にはならなかった。ということは、しかしこうした先鋭的で
>分隊的な動きが非常に活発化していたということである。
> たとえば同性愛はこのあとずっとドイツ青年団につきまとう特徴となり、そこか
>らは女性蔑視の「男性文化協会」といったオトナの組織も派生したものである。
>  が、その一方で、女子の青年団加盟も頻繁になり、むしろ自由恋愛こそが
>ゲルマン魂の真骨頂であるというような、のちに英国ブルーストッキング派に
>影響を与えるようなラディカルセックス思想も芽生えたのだった。
トンデモない一行知識 |  2011年03月06日(日) 13:51 |  URL |  【コメント編集】

>「葉山に皇室の御用邸としての別荘地が創られたのはベルツの進言によるもの」ということ自体は、葉山御用邸ができた (1894年) のは、ベルツが宮内省侍医になる (1902年)よりも前というのが少し気になるが

東京医学校のお雇い外国人教師ベルツとイタリア駐日公使マルチーノが、1887(明治20)年皇室に<葉山が絶好の休養地である>と進言した云々、というのが由来として言われています(http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/miurahasi12.html)。そういう流れがあったから後々宮内省侍医に就任となったとも言えるし、まぁでも海水浴の薦める外国人はベルツ(とマルチーノ)だけじゃなく、仏法律家ブスケ、仏東洋学者エミール・ギメ、米エドワード・モース、米医師ヘボンと挙げるとキリがない(http://www.m-y-star.com/shonan_story/yuhodo_birth/sea_bathing.shtml)。


ワンゲルは、Wikipediaだとギムナジウムの学生カール・フィッシャーひとりの名前だけだけど、カールらギムナジウム生徒たちがヘルマン・ホフマンという大学生に速記術を習っていて、ヘルマン・ホフマン引率で課外活動・レクリエーションを行なったのが起源とか。ギムナジウムが学業オンリーなシステムで身体的育成や情緒教育が欠落していた反動で大流行したそうです(いにしえの「遍歴学士」の伝統とも)。
discussao |  2011年03月05日(土) 20:15 |  URL |  【コメント編集】

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