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2011.02.20 (Sun)

黒のB級

http://book.asahi.com/review/TKY200901270152.html

B級ノワール論―ハリウッド転換期の巨匠たち [著]吉田広明
[掲載]2009年1月25日[評者]唐沢俊一(作家)
■日本未公開作品も分析した知的労作

 “B級ノワール”とは、何と魅力的な響きを持った名称であることか。
分析すれば、映画制作システムにおける2本立て興行の付け合わせ
の1本という意味の“B級”と、大戦を経験した時代の虚無主義が反映
した犯罪スリラー作品を総称する“フィルム・ノワール”を組み合わせた
だけのものである。

 しかし、その言葉のかもしだすイメージは暗い映画館の中で上映される
古いフィルムを凝視していた記憶を呼び起こし、映画を見るという行為の
持つ、ささやかな反社会性の魅力すら見事に表現している。映画の原点
を言い表した題名と言えるかもしれない。

 だが、皮肉なことに本書が成立し得たのは、暗い映画館や古いフィルム
という“過去の”映画状況が完全に変化した、2000年代初頭の映画シーン
のたまものである。言うまでもなく、DVDソフトの充実などによる、1940
年代から50年代にかけての日本未公開作品群の、系統だった、しかも
膨大な作品数の鑑賞が可能となった時代背景がこのユニークな映画論集
を完成させたのである。

 一応、本書では、B級ノワールのクリエーターたちを、ジョゼフ・H・ルイス、
アンソニー・マン、リチャード・フライシャーの3人に代表させている。果たして
彼らをB級監督としてくくっていいかには疑問も残るが、彼らの作品、及び
その周辺作品に対する著者の目配りは徹底している。「今現に見られるもの
のすべてを見る」ことを自らに課した著者のその作業が、楽しくはありながら
も、たいへんな苦労を伴ったであろうことは想像に難くない。映画評論家を
生業にしていなくてよかった、と胸をなで下ろしたことも確かである。

 しかし、そのほぼ9割以上が日本未公開である作品群の詳細な紹介と
分析のおかげで、われわれは、われわれが知っていると思い込んでいた
アメリカ映画への認識が節穴からのぞいたような狭いものでしかなかった
ことを思い知らされる。ひさびさに赤鉛筆を片手に、会心の指摘に傍線を
引きながら読むという知的興奮を体験した本である。


突っ込みどころとしては、「分析すれば〈略〉組み合わせただけのものである」、「大戦を
経験した時代の虚無主義が反映した犯罪スリラー作品を総称する“フィルム・ノワール”」、
「果たして彼らをB級監督としてくくっていいかには疑問も残るが」あたりについてか。

この『B級ノワール論』という本の帯には、蓮實重彦による以下の推薦文がついている。
(これは http://www.amazon.co.jp/dp/4861822114 の「内容紹介」のところにもある)。

>DVDの普及が、アメリカ映画に対する新たな視点の構築を21世紀の日本で可能にした
>ことを、まずは祝福したい。いまから半世紀以上も前のいわゆる「B級」映画と「フィルム・
>ノワール」を論じる著者の、これがはじめての著作であることにも率直な悦びを表明す
>る。その著者が「B級ノワール」を分析するマトリックスとして、ジョゼフ・H・ルイスとアン
>ソニー・マンとリチャード・フライシャーという三人の映画作家を選びとったことにも心から
>の賛辞を送りたい。人々は、ハリウッド映画についてまだまだ何も知らない。そのことを
>知らしめただけでも、本書の価値は計り知れないと断言する。 蓮實重彦(映画評論家)


ちなみに、唐沢俊一検証blogの「僕のエクスカリバーも難色を示す。」には、「…だいぶ
カブってるなあ」という感想あり。……はい、私も、そう思います、と。

ただまあ、蓮實重彦の推薦文を目にしてしまったせいかもしれないけど、この本を紹介する
にあたって、「B級」と「ノワール」という言葉に触れ、DVD の普及が膨大な作品群の視聴を
可能にしたことに言及し、ジョゼフ・H・ルイス、アンソニー・マン、リチャード・フライシャー
の 3 人の名前をあげ、「人々は、ハリウッド映画についてまだまだ何も知らない」と述べる――
といった要素たちを外すわけにもいかないだろうと思うから、似ていることそれ自体は悪い
ともいえないと思う。

そして、その方向で書評を書くのならば、蓮實重彦の短い推薦文の中では周知のものと
して省略されている「B級」と「フィルム・ノワール」という言葉の定義を一般向けに説明し、
「ジョゼフ・H・ルイスとアンソニー・マンとリチャード・フライシャー」について簡単に紹介する
とかいうのも、充分ありじゃないかと思う。問題は、どうも唐沢俊一は、余計なことを書き加
えているみたいなことで。


『B級ノワール論』という本は、以下の書き出しの序論で始まる。

『B級ノワール論』 P.8
>「B級」「ノワールについて」

> 本書は、一九四〇年代から一九五〇年代にわたってハリウッドで作られた「B級ノワー
>ル」の世界を紹介する。まず、この序論では、「B級ノワール」とは何なのか、またその歴
>史的位置について大まかな枠組みを提示する。
> 「B級ノワール」とは、見たとおり、「B級」の「ノワール」である。B級は二本立て興行の
>つけ合わせの一本の意であり、ノワールは犯罪スリラーの一変種。一見ごく自然に見え
>る「B級ノワール」という語彙であるが、その「B級」と「ノワール」の間には実は見た目以
>上に錯綜した関係が潜んでいる。その錯綜を解き明かすことからこの論を始めよう。


本に書いてあった「B級は二本立て興行のつけ合わせの一本の意」が、唐沢俊一の書評
では「映画制作システムにおける2本立て興行の付け合わせの1本という意味の“B級”」
になり、「ノワールは犯罪スリラーの一変種」が、「犯罪スリラー作品を総称する“フィルム・
ノワール”」となる。唐沢俊一が、蓮實重彦の推薦文だけではなく、『B級ノワール論』の
序論にもちゃんと目を通したことがわかる。

……わからないのは、「『B級』と『ノワール』の間には実は見た目以上に錯綜した関係が
潜んでいる」と著者が書いているのに、何でわざわざ、「“B級”と、〈略〉“フィルム・ノワー
ル”を組み合わせただけのものである」と書くのかと。「言葉としては、組み合わせただけ
のものである」などと書いて含みを持たせようとかいうならまだしも、唐沢俊一はご丁寧に、
「分析すれば〈略〉組み合わせただけのものである」と書いているのだ。


以下のような序文の記述は、まったく無視される。

『B級ノワール論』 P.9 ~ P.10
> ただ、フィルム・ノワールという呼称が、ある驚きとともに生まれた言葉だということには
>注意するべきだろう。周知のように、フィルム・ノワールという言葉は四六年にフランス
>で、ニーノ・フランクによって初めて使用された。当時立て続けに公開された一連のアメ
>リカ映画を見た彼は、その暗さ、登場人物の心理の不可解さに、アメリカ映画の新しい
>特質を見出し、それをフィルム・ノワールと名づけた。その一連の映画は四一年のジョ
>ン・ヒューストン『マルタの鷹』、あとはすべて四四年のエドワード・ドミトリク『欲望の果
>て』、オットー・プレミンジャー『ローラ殺人事件』、フリッツ・ラングの『飾り窓の女』。
>〈略〉戦後、フランスにおいてアメリカ映画の公開が再開され、そこで久しく見ることの
>できなかったアメリカ映画を一挙に、一つのまとまりとして見たとき、フランス人はアメリ
>カ映画の変貌に驚愕したのである。画面自体の暗さ、ニューロティックでエロティックな
>登場人物、道徳的な退廃。どのレベルにおいても均衡を欠いた諸作品は、三〇年代ま
>で彼等が目にしてきた明朗で希望に満ちたアメリカ映画とはすっかり趣を異にしていた。
>そこにはアメリカ映画の新たな側面が現われていたのだ。
> アメリカ本国では徐々に生じ、目に見えるものとならなかったのかもしれないこの変化
>を、外国人であるがゆえに、またまとめて見ることができたがゆえに、フランス人は見る
>ことができた。いずれにせよ本書でノワールを扱う意味は、ただこの一点、フランス人た
>ちが感じた驚き、彼らが見出した新しさ、にあるといってよい。確かにフィルム・ノワール
>(直訳すれば暗黒の映画)という名称は、あまりにも漠然としていて、そこに何でも入れ
>られる容器のようなものだったがために、拡大解釈を呼び続け、結局何をも指していな
>いような名称になり下がってしまったのかもしれないが、その当初においては少なくと
>も、作り手ですら未だ気がつかないようなアメリカ映画の変容を批評的に記述(創出)し
>たものであった。ノワールをそのようなアメリカ映画の変化を指標しているものと捉えれ
>ば、本書で扱う作家たちをノワールという言葉で括る正当性も担保されるのではない
>か、というのが本書の立場である。
〈略〉
>ハリウッドの古典期の只中に、既に映画の現代性の胎動が存在していた。その事実は
>アメリカ本国ではなく、フランスにおいて初めて直感的に把握され、また五〇年代六〇
>年代という映画の現代性の激動期を通過し、反動期に入った(つまり古典期に少しだけ
>逆戻りした)七〇年代以降のアメリカにおいて初めて精密に記述され始めたのである。

>一方、以下に詳述してゆくことになるように、B級映画は二本立て興行というハリウッドの
>ビジネス上の要請によって現われたシステムであり、三〇年代初頭に始まり、五〇年代
>初頭に終止した、こちらはあくまで歴史的な産物である。いわゆる「B級」、つまり美術や
>特撮が安っぽいため、あるいは性的、生理的描写が激しいために、見た目がエグいわり
>に、話がいい加減でご都合主義的なキワモノ、というイメージは、B級映画という歴史的
>産物の現実に必ずしも即してはいない。ただ、B級映画が低予算であり、上映時間も短
>かったために、見た目がチープ、また話がご都合主義的に展開するのは確かであり、
>またそのチープさ、ご都合主義が、どこか普通の(とはA級の、ということだが)映画とは
>違ったところがあり、それが独特の魅惑を放っていたことも確かで、それが現在まで「B
>級」という言葉が固有名詞ではなく、普通名詞として使われ続けている根拠でもある。
〈略〉
> 古典的な方向性と現代的な方向性を持つ「B級」と、それまでの映画に対するオルタ
>ナティブな方向性を探る「ノワール」が組み合わされたとき、映画は大きく現代性の方に
>傾くだろう。しかしあくまでスタジオ・システムの産物であるB級映画には、徹底した効率
>性と、視覚と説話の均衡が厳密に要求される。視覚は、説話から離れて自身を強調して
>はならないのである。「B級」「ノワール」とは、従って、単なるB級映画の一ジャンルなの
>ではない。そこで映画の古典性と現代性がせめぎ合う現場なのである。


著者の吉田広明のいう「フィルム・ノワール(直訳すれば暗黒の映画)という名称は、あまり
にも漠然としていて、そこに何でも入れられる容器のようなものだったがために、拡大解釈
を呼び続け」というのは、他の書き手によって語られている「フィルム・ノワール」についてを
いくつか読めば何となくわかる気がする。

参考 URL:
- http://ja.wikipedia.org/wiki/フィルム・ノワール
- http://www7.plala.or.jp/cine_journal/dvd/film_noir.html
- http://meta-metaphysica.net/lit/filmnoir.html

定義は様々だが、「フィルム・ノワールという言葉は四六年にフランスで、ニーノ・フランクに
よって初めて使用され」たということ、そこで評された「四一年のジョン・ヒューストン『マルタ
の鷹』」などが含まれることは共通認識として考えてよいだろう。

ここでちょっとだけ気になるのは唐沢俊一のいう「大戦を経験した時代の虚無主義が反映
した犯罪スリラー作品を総称する“フィルム・ノワール”」で、という記述で、これのみを読ん
でいた時点ではもっぱら戦後の作品をさすものと思っていたが、1941 年の『マルタの鷹』
や 1944 年のエドワード・ドミトリク『欲望の果て』、オットー・プレミンジャー『ローラ殺人
事件』、フリッツ・ラングの『飾り窓の女』は、大戦を「経験した」時代の作品というより大戦
を経験中の時代の作品で、大戦を「経験した」フランスの批評家によって発見された概念では
ないかという疑問が。

まあ Wikipedia の方では、1930 年代にフィルム・ノワールの源流があるという説を紹介
する一方、「これらのような、従来の通念に比してインモラルな作品群が1940年代以降に
続出した背景には、第二次世界大戦と冷戦期の不安な世相が在るとされる。また、第二
次大戦に兵士として従軍した作家たちが、それまで孤立主義を保っていたアメリカから外
に出たことにより、現実的かつ、暴力的な世界情勢に直面したことも重要な要因であろう」
とあるので、一般的な定義では唐沢俊一の書いているのも間違いではないと思う。

しかし、「いずれにせよ本書でノワールを扱う意味は、ただこの一点、フランス人たちが感じ
た驚き、彼らが見出した新しさ、にあるといってよい」と書いている本の紹介に書く定義とし
ては、ちょっとどうかと思った。


ノワールの方はまだよいとして、せっかく前半では、「分析すれば、映画制作システムに
おける2本立て興行の付け合わせの1本という意味の“B級”」だと本に書いている通りの
定義をひいてきているのに、「果たして彼らをB級監督としてくくっていいかには疑問も残る
が」には、あーあ、と思った。

ここでの「B級」は、著者のいう、「いわゆる『B級』、つまり美術や特撮が安っぽいため、
あるいは性的、生理的描写が激しいために、見た目がエグいわりに、話がいい加減でご
都合主義的なキワモノ、というイメージ」の方の「B級」になってしまっている。「固有名詞で
はなく、普通名詞として使われ続けている」言葉としての「B級」を語るために、この 3 人を
著者が選択したわけではないのに……。

いやそうではなく、著書が定義した「B級」の意味にそって考えても、この 3 人を「B級」
映画の監督とするには疑問が残る――という可能性も一応考えたけど、それもなさそうだ
し。

著者の吉田広明は、「B級映画の歴史」から丁寧に説明を試みている。

『B級ノワール論』 P.12
> 本書はB級映画全般を扱うわけではないし、その末期をもっぱら扱うことになるのだ
>が、まず簡単にB級映画の歴史について押さえておこう。蓮實重彦によれば「B級映画」
>という言葉の起源は一九二八年一〇月の、ウィリアム・フォックス社(三五年にトウェン
>ティ・センチュリー社と合併して二〇世紀フォックス社になる)の新撮影所建設に遡る。
>新撮影所建設を「A地域」、旧撮影所を「B地域」と称し、低予算映画に特化した製作者
>ソル・ワーツェルが「A地域」に移転することを拒否、「B地域」の撮映所に残ることになっ
>たことから、低予算映画が「B地域」で集中的に作られるようになった。各メジャー撮影所
>もそれにならい、トーキーが標準になるに従い、新たなトーキー撮影所を建設し、旧撮影
>所を低予算映画撮影所に流用、A班、B班の二部門を設けるようになった。ただし、二八
>年当時からB級映画が量産されたわけではなく、三〇年代初頭以降、不況期で減少し
>つつあった観客動員(大恐慌期の三〇年から三三年にかけて、観客動員数は週一億一
>〇〇〇万人から、六〇〇〇万人にほぼ半減)に歯止めをかけるために導入された二本
>立て興行(double feature、直訳すれば二本立て長編)の一般化を待ってのことである。


そして、「都市部では当らなかったA級作を地方では添え物とし、評判のいいB級を目玉と
して興行する戦略もとられた」等の例を紹介しつつ、以下のように述べる。

『B級ノワール論』 P.16 ~ P,17
> A級とB級が、必ずしも厳密に線引きされるものではないことは以上の記述である程度
>分かったかと思うが、その曖昧さはあくまで配給上、興行上のものである。製作するメ
>ジャーとしてみれば、製作費の掛け方が違い、製作部門がA班とB班と画然と異なるの
>だから、A級はA級、B級はB級に違いなかったであろう。



「彼らをB級監督としてくくっていいかには疑問も残る」なら残るで、それは著者の「B級」定
義自体への疑問なのか、それとも著者の定義する「B級」と外れているとする理由あっての
疑問なのか、簡単でも説明するべきではなかったかと。そうでなければ丁寧な説明をした
あげく、「疑問も残る」であっさり片づけられている著者がちょっと気の毒。

追記:コメント欄の指摘を受けて、 「フリッツ・ヤング」を「フリッツ・ラング」に訂正


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Comment

蓮實重彦「人々は、ハリウッド映画についてまだまだ何も知らない。そのことを知らしめただけでも、本書の価値は計り知れないと断言する。」

唐沢俊一「われわれは、われわれが知っていると思い込んでいたアメリカ映画への認識が節穴からのぞいたような狭いものでしかなかったことを思い知らされる。ひさびさに赤鉛筆を片手に、会心の指摘に傍線を引きながら読むという知的興奮を体験した本である。」

蓮實重彦のように「人々は」と書くのも少し気がひける……というので「われわれは」となったのでしょうか。「わたしは」という選択肢もあったと思いますが。

知らなかったことがたくさん書かれているから面白いといいたいのは 2 つとも同じなんでしょうが、「知っていると思い込んで」いたので「狭いものでしかなかったことを思い知らされる」と、ちょっと著者と張り合うような読み方を「われわれ」で書くのは、一般読者向けの紹介として少し違和感がなくもないです。
トンデモない一行知識 |  2011年02月25日(金) 08:44 |  URL |  【コメント編集】

●勝手に"われわれ"扱い

>われわれは、われわれが知っていると思い込んでいた
>アメリカ映画への認識が節穴からのぞいたような狭いものでしかなかった
>ことを思い知らされる。

どの年代の映画ファンも不快になるでしょうね。
altnk |  2011年02月24日(木) 00:20 |  URL |  【コメント編集】

●でばがめかなあ

節穴からのぞくと・・・映画でもみたことあるけど、覗きですねえ
あしとふしあなでは・・・あえて変えた理由は?
とりとり |  2011年02月23日(水) 23:14 |  URL |  【コメント編集】

●デバガメまたはfushianasan

あ、唐沢俊一は「葦の髄から」も結構使用します。
http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-entry-304.html
http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-entry-517.html

だから知らない思い出せないということはないでしょうが、考えてみると、どうして「節穴からのぞいたような」なのかというのは、少し気になってきます。

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?dtype=0&dname=0ss&p=%e3%82%88%e3%81%97%e3%81%ae%e3%81%9a%e3%81%84%e3%81%8b%e3%82%89%e3%81%a6%e3%82%93%e3%81%98%e3%82%87%e3%81%86%e3%82%92%e3%81%ae%e3%81%9e%e3%81%8f
>葦(よし)の=髄(ずい)(=管(くだ))から天井(てんじよう)を覗(のぞ)く
>葦の茎の管を通して天井を見ても全体が見えないように、狭い見識に
>基づいて物事を判断することのたとえ。

↑あまりよくない意味を含むので避けたのかと何となく思っていたのですが、それで「われわれは、われわれが知っていると思い込んでいたアメリカ映画への認識が節穴からのぞいたような狭いものでしかなかったことを思い知らされる」と書いては意味がないような気がしますし……。
トンデモない一行知識 |  2011年02月22日(火) 22:20 |  URL |  【コメント編集】

唐沢さんの書いている「節穴からのぞいたような狭いもの」は、きっと「葦の髄から天井を覗く」という表現を使いたかったのに、うろ覚えで正確な言い回しが分からなくて、似たような表現を勝手に考え出したんでしょうね。

節穴は唐沢さんの目の方かと。
グリンゴ |  2011年02月22日(火) 02:21 |  URL |  【コメント編集】

>ss さん

訂正しました。ご指摘感謝します。(_ _)(_ _)
トンデモない一行知識 |  2011年02月22日(火) 00:45 |  URL |  【コメント編集】

●間違いを指摘します

×フリッツ・ヤング

○フリッツ・ラング
ss |  2011年02月22日(火) 00:11 |  URL |  【コメント編集】

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