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2011.01.05 (Wed)

今は「さらば」といわせてくれ

http://www.tobunken.com/news/news20110104142504.html

イベント
2011年1月4日投稿
“機”を見た男 【訃報 西崎義展】
何とも謎の多い西崎義展氏死去の報が11月8日に。
自家用クルーザー『YAMATO』(『宇宙戦艦ヤマト』の
最初の海外公開時のタイトルは『Space Cruiser Yamato』)
からの転落死とは、不謹慎ではあるが波乱万丈であった人生に
ふさわしい幕切れであろう。その死に謎めいたところが
多いのもまた。

毀誉褒貶定まらぬとはこの人のためにある言葉だろうが、
少なくともこの人の作った『宇宙戦艦ヤマト』が私の人生ばかり
でなく、その後の日本の文化シーンを大きく変えたことは事実。
岡田斗司夫のブログなどにおもしろすぎる西崎氏の話がいろいろ
出てくるが、残念ながら私の会ったころの西崎氏はまだ、そんな
タイクーンになっていない、ビジネスマンの頃の西崎義展だった。

76年の晩春だったと記憶するが、札幌のヤマトファンたちに
会いたい、と突然連絡があったときのことは未だに昨日のことの
ように覚えている。会ったメンバーが四人だけ、全員いろんな
ファン団体のリーダーではあったが、かろうじて大学生だったのが
一人だけで、残りの私含めた三人が浪人生という情けない身分だった。
それでもちゃんとホテルの会議室をとってくれていたのがさすが、という感じ
だった(ホテルが書いた案内看板に“『宇宙戦艦大和』ファン御一行様”、
とあったのを何故か記憶している)。
「あいたかったよ」
という、岡田斗司夫の本に書いてある挨拶と握手は確かにされた!
「二千万振り込もう」
とは言われなかったが(笑)。

そのときはプロデューサーというよりは営業担当みたいな感じの
人だな、と思ったものだが、やがてヤマトの劇場版が完成、その
発表会で見かけたときは、別人のごときオーラを発していた。
人間、成功すると変わるものだと思ったものである。
あまりいい変わり方とは思えなかったものだけれど。

西崎義展、本名弘文。日本舞踊の西崎流の一族である。
あれは十数年前のこと、タクシーに乗ったら、その運転手さんが
話し好きで、聞きもしないのに自分は西崎緑の夫だったと話してくれた。
かなりの高齢の人だったので、え、あのアイドルだった西崎緑の?
 と訊いたら、そうでなく戦後、西崎流の舞踊グループを率いて
全国を回っていた先代の西崎緑だという。そのマネージャーを務めて
日本中回っているうちに結婚して、夫兼マネージャーを長いこと務めた
のだそうだ(後に浮気がバレて離婚)。
「じゃ、西崎義展って知ってます?」
と訊くと、
「ああ、弘文でしょう。あいつ、俺のカバン持ちで興業について
回っていたんですよ。ところが、いく先々で踊り子に手ェつけやがって
ねえ。とうとう緑が怒って、俺がブン殴って東京に帰したんだ」
……もっとその話を聞きたいものだった。

思えば西崎氏は、そのマネージャー助手という出自、虫プロ商事の
営業という出自から、対スポンサーの営業技術のスキルを磨き、
ヤマトという商品を売り込むことに成功した人物だった。
地方で地道なオタク活動をしている浪人生たちに会いに来る
バイタリティと、“こいつらが将来の商売の鍵になる”と踏んだ
先見性。

機を見るに敏なその手腕は、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』の、
劇場用パンフを初版10万部印刷しろと配給の松竹に掛け合い、
松竹がパンフなんてものは寅さんでも2万部しか売れないと
拒否したのを恫喝的に談判し、結局4万部刷ったものが即日
完売して追加印刷することになり、結果80万部近くの売り上げに
なった、というエピソードにもよく表れているだろう。

だが、ヒットを出して、営業をかけずとも自作に買い手が寄ってくる
ようになると、今度は企画力が問題になる。
彼の企画力は復活篇で尽き、その後は陳腐な特攻話を延々パターン
を変えて繰り返すのみになった感があった。ドラッグに溺れたのは
自分のかつてのカリスマを取り戻そうというあがきだったの
だろうと思う。それから先はもう……ドラッグと銃刀法違反と
権利裁判とだけがこの人の話題のような気がしていた。

それでも……真田役の青野武さんが主宰している芸協の
公演を観にいったとき、そのパンフに青野さんが西崎プロデューサー
のことを書いていた。やっと、という感じで『宇宙戦艦ヤマト復活篇』
が公開された頃である。
http://www1.hinocatv.ne.jp/wildcats/yakusha19kara.html
「巨人未だ健在」
やはり、なんだかんだ言っても、西崎義展という人間の存在は
不世出であった。
この原稿を書いた青野さんも直後に病気で倒れ、加療中である。
西崎氏ももういない。歳々年々人同じからず。
ご冥福を心からお祈りする。


×11月8日 ○11月7日
×76年 ○77年
×松竹 ○東映

前々エントリー前エントリーを書いているときも思ったのだけど……下でいう「去年からの
繰り越しのプロジェクト」というのは、“追討”記事を書き上げてはアップすることと解釈すべ
きなんだろうか、やっぱり。

http://www.tobunken.com/news/news20110101110323.html
>2011年明けましておめでとうございます。
>とはいえ、まだ唐沢自身は去年からの繰り越しの
>プロジェクトがまだ終らず、悲鳴をあげながらの
>年越しになりました。


ほぼ 2 ヵ月遅れということで、本当の本当に「とても追討記事、追いつけるものにあらず
という事態になっているようですね……と。

で、そろそろかなと思っていたら、「西崎義展追討キタ――(゚∀゚)――!!」と2ちゃんねるの
スレに書き込まれましたの西崎義展追討。で、スレでも話題になっていたけど、自分が
高校生だったか浪人だったかの方を間違えるとも思いにくいし……ということで「76年」
は間違い、1958 年 5 月生まれの唐沢俊一が高校を卒業した年である 1977 年に、西崎
プロデューサーと会ったのだと思われる (Read Moreまとめwikiの経歴・年譜を参照)。

参考
宇宙戦艦ヤマトのビッグネームファンになりたかった唐沢俊一?
本当はヤマトのファンでも何でもなかった唐沢俊一
角川歴彦さんにも感心してもらったんだぞという夢または妄想
エヴァ論だったら、いつも空振り。ヤマト論も。
ガッチャマン!楽しいデュエルだったぜ! (←何か間違っている)
ほんとうは SF 作家になりたかった唐沢俊一?
本当はサークルの代表者ではなかった唐沢俊一
ヤマト×沖田艦長=崖っぷちのリアリティ
「私の活動を指示してくださっていた書店の店長」「私が出していたアニメ研究同人誌」
本当に実在した宇宙戦艦ヤマトのサークル「スカーレット・スカーフ」(1)
本当に実在した宇宙戦艦ヤマトのサークル『スカーレット・スカーフ』(2)
本当に実在した宇宙戦艦ヤマトのサークル『スカーレット・スカーフ』(3)

「西崎義展氏死去の報」は、亡くなった当日である 2010 年 11 月 7 日の時点で配信され
ていたので、「11月8日に」というのは間違い。まあ好意的に解釈すれば、唐沢俊一が
11 月 8 日になってから知ったということかもしれないが、それにしたって亡くなった日付の
11 月 7 日の方は書かないで、「11月8日に」とだけ書くというのは、ちょっと……。

http://gigazine.net/news/20101107_yoshinobu_nishizaki_pass_away/
>2010年11月07日 23時41分06秒
>「宇宙戦艦ヤマト」の西崎義展プロデューサーが転落死
〈略〉
>今回の転落事故で乗っていた汽船YAMATOは西崎さんが水産学校から買い上げたも
>ので、試験航海のために6日から父島を訪れていたそうです。小笠原海上保安署による
>と、西崎さんは父島にある二見港に船を停泊させ、遊泳しようとウェットスーツ姿で甲板
>から海に降りようとしていたところ誤って転落したとみられています。同署で転落した西
>崎さんを引き上げて診療所に運んだものの、15時ごろに死亡が確認されたとのこと。


ちなみに、「岡田斗司夫のブログなどにおもしろすぎる西崎氏の話がいろいろ」と唐沢俊一
が書いている「岡田斗司夫のブログ」では、11 月 8 日にはすでに「【社長日記】西崎義展
さんのご冥福を祈ります」と題したエントリーがアップされ、そこにはちゃんと「アニメ『宇宙
戦艦ヤマト』のプロデューサー、西崎義展さんが昨日、亡くなりました。」と書かれている。

「おもしろすぎる西崎氏の話がいろいろ」と書いている割には唐沢俊一は URL を示して
いない。まあ「西崎義展」単独でググっても、http://otaking-ex.jp/wp/?p=11013 という
のは、Wikipedia の「西崎義展」の項に続いて 2 番目に表示されるくらいだから、探すのに
苦労するものではないけど、見劣りするのが嫌さにリンクをしなかったのかも……と勘ぐら
せていただく。

ヤマトのリーダーだったという人が他にいるというのに (ここを参照)、また、自分はサブ
リーダーだったという設定だったはずなのに (こちらを参照) 「全員いろんなファン団体の
リーダー」って自分がリーダーだということに設定変更か――というのを不問にして全部
唐沢俊一の今回の自己申告通りだったとして、「ホテルの会議室」をわざわざとったのに
「会ったメンバーが四人だけ」、「『あいたかったよ』という、岡田斗司夫の本に書いてある
挨拶と握手は確かにされた!」というだけでは、http://otaking-ex.jp/wp/?p=11013
比べると、あまりに小粒な気が。「かろうじて大学生だったのが一人だけ」というのも、
北大のサークルはひとつしかなかったのかと思うし。


で、本当だとしても今ひとつインパクトが弱いが、本当だとはあまり思えない、「あれは
十数年前のこと」、「タクシーに乗ったら、その運転手さんが」、「自分は西崎緑の夫だった
と話してくれた」、「戦後、西崎流の舞踊グループを率いて全国を回っていた先代の西崎緑
だという」件について。

元アイドルの西崎緑 (西崎みどり) とは別に、二代目西崎緑舞踊研究所主宰の「二代目
西崎緑」の人がいて、「先代の西崎緑」とは初代西崎緑のはずなのだが、その人は、もし
生きていたら今年で 100 歳。元夫だという人が同年代だとすると、「十数年前」でももう
80 歳代半ばで、「かなりの高齢の人」で片づけてよいのか、高齢過ぎるんじゃないかと
いう気が。

http://homepage3.nifty.com/nishizaki_dc/guide.html
>初代西崎緑の創作舞踊に魅せられ、西崎流に入門。
>初代没後、二代目を襲名。
〈略〉
>昭和36年より35年間、同舞踊団と共にフジTVキンカン素人民謡名人戦のレギュラーを
>務める。


http://park1.wakwak.com/~record/newpage514.html
>初代西崎緑師匠は、明治44年5月16日の岡山県生まれ。
>正派西川流に入門し18歳で名取になり、その後独立して西崎流を立ち上げ、大衆民謡
>の創作踊りに取り組む。
>舞踊家として勲五等受賞。
>昭和32年2月18日没


http://kotobank.jp/word/西崎緑(初代)
>1911-1957昭和時代の日本舞踊家。
>明治44年5月16日生まれ。西崎弘太郎の長女。正派西川流初代西川喜洲に入門,西川
>喜代美を名のる。
>昭和5年本名で若葉会を結成,あたらしい舞踊の創作につとめる。23年西崎流を創設,
>家元となった。昭和32年2月18日死去。45歳。神奈川県出身。仏英和高女専門部(現
>白百合女子大)卒。著作に「酔うて候」「舞踊のあけくれ」。


高齢問題だけならまだ、世の中には元気なお年寄りも多いとか、10 歳以上年下の夫で
あった可能性もあるとかのフォローも可能だが、西崎義展の経歴と突き合わせてみると、
唐沢俊一の文章の中のタクシー運転手は、かなり奇妙なことを語っているのがわかる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/西崎義展
>西崎 義展(にしざき よしのぶ、1934年12月18日 - 2010年11月7日)は、プロデューサ
>ー。本名:西崎 弘文(にしざき ひろふみ[1])。
〈略〉
>東京に生まれる。西崎家は日舞の家元である。私立武蔵高等学校卒業。日本大学芸
>術学部に入学し、1957年に卒業。ジャズ解説、ナイトクラブの司会で生計を立てる。
>1962年、音楽制作プロデューサーとして企画制作の道に入る。1963年10月、オフィス・
>アカデミー(のちのウエスト・ケープ・コーポレーション)を設立。1971年、虫プロ商事に
>1年数か月間在籍。営業[2]や手塚治虫のマネージャーも務める[3]。1972年、テレビア
>ニメ『海のトリトン』をプロデュース。


「ああ、弘文でしょう。あいつ、俺のカバン持ちで興業について回っていたんですよ。ところ
が、いく先々で踊り子に手ェつけやがってねえ。とうとう緑が怒って、俺がブン殴って東京に
帰したんだ」とタクシー運転手はいうが、日本大学芸術学部の学生を「カバン持ちで興業に
ついて回」らせていたのかと。よくストレートで卒業できたものだ。かといって、卒業後の
ことだとすると、1957 年に亡くなっていたはずの初代西崎緑なのに、「とうとう緑が怒って」
なのか――ということになってしまう。


それから、2ちゃんねるのスレでも指摘している人がいるけど (Read More 参照)、パンフ
レット問題というのもあって。

そもそも、今回書かれているパンフレットの部数の件は、とても見覚えのあるものだった
ため、以前の裏モノ日記をそのままコピペして使い回ししたのだろうと思ったのだが、
実際はセルフ劣化コピペだったという……。

裏モノ日記 2008年 10月 10日 (金曜日)
http://www.tobunken.com/diary/diary20081010111635.html

さらにヤマトの話。
西崎氏が『さらば宇宙戦艦ヤマト』のプログラムを100万部刷れ、
と言ったのに対し配給の東映は
「日本の映画プログラムの売り上げ記録は松竹の寅さんシリーズ
の5万部である」
という数字をタテにとって拒否。
さんざやりとりがあった挙げ句、30万部刷ったプログラムが、
初日にもう品切れ。あわてて増刷に増刷を重ね、最終的には250万
部を売り切ったとか。

「あれで西崎さん、おかしくなっちゃったんだよねえ」
まあ、そりゃ万能感にとらわれて無理ないよなあ。
その他いろんな裏話聞くが、ヤバいので省略。


今回の“追討”では、「10万部印刷しろと配給の松竹に掛け合い、松竹がパンフなんて
ものは寅さんでも2万部しか売れないと拒否したのを恫喝的に談判し、結局4万部刷った
ものが即日完売して追加印刷することになり、結果80万部」と数字がだいぶ下方修正
されている。「恫喝的に談判」のあたりは話が悪い方に大きくなっているが。

で、まあ、数字についてはどちらが正しいかわからないとして、『宇宙戦艦ヤマト』のプロ
グラムだかパンフレットだかについて、松竹と交渉するというのは、いくら何でもおかしい
だろう。

「劇場版『宇宙戦艦ヤマト』」も、『さらば宇宙戦艦ヤマト』も (これも今回の“追討”と過去
の裏モノ日記とで食い違っているが、どちらなんだろう)、松竹は関係ない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/宇宙戦艦ヤマト
>オフィスアカデミー(東急レクリエーション)、東映洋画(東京都外)[62]

http://ja.wikipedia.org/wiki/さらば宇宙戦艦ヤマト_愛の戦士たち
>『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(さらばうちゅうせんかんヤマト あいのせんした
>ち)は1978年8月5日に東映系で公開の宇宙戦艦ヤマトシリーズの第2作目のアニメー
>ション映画。


あと、これもスレで突っ込みを入れていた人がいるけど、「彼の企画力は復活篇で尽き、
その後は陳腐な特攻話を延々パターンを変えて繰り返すのみになった感があった」という
のは変で、今回唐沢俊一が最後の方で「やっと、という感じで『宇宙戦艦ヤマト復活篇』
が公開された頃である」とか書いている復活篇の公開は 2009 年 12 月。その後で、
「陳腐な特攻話を延々パターンを変えて繰り返」したという話は聞かない。というか、この
公開から亡くなるまでの 1 年足らずの間にそんなことができたとしたら、「不世出」にも
ほどがあるのでは。

http://ja.wikipedia.org/wiki/宇宙戦艦ヤマト_復活篇
>宇宙戦艦ヤマト 復活篇』(うちゅうせんかんヤマト ふっかつへん)は、2009年12月12日
>に公開された『宇宙戦艦ヤマト』シリーズのアニメ映画作品である。キャッチコピーは
>「戦士たちよ、ヤマトに乗れ。人類を救え!」「愛のために戦え!」。通称「復活篇」、「ヤマト
>復活篇」。


唐沢俊一が何と間違えて「復活篇」と書いたのかは不明。ついでに、「その死に謎めいた
ところが多い」とか書いている理由もよくわからない。



More...

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/books/1293314261/
-------
980 :無名草子さん:2011/01/04(火) 17:08:04
西崎義展追討キタ――(゚∀゚)――!!

981 :無名草子さん:2011/01/04(火) 17:29:01
http://www.tobunken.com/news/news20110104142504.html
“機”を見た男 【訃報 西崎義展】

>76年の晩春だったと記憶するが、札幌のヤマトファンたちに
>会いたい、と突然連絡があったときのことは未だに昨日のことの
>ように覚えている。会ったメンバーが四人だけ、全員いろんな
>ファン団体のリーダーではあったが、かろうじて大学生だったのが
>一人だけで、残りの私含めた三人が浪人生という情けない身分だった。


1976年の晩春に唐沢は浪人生じゃなく、高校3年になったばかりじゃないのか?
本気でコイツはw

982 :無名草子さん:2011/01/04(火) 17:36:16
西崎追討に関しては、先に繋がりそうなので次スレで

【無断復刻】盗作屋・唐沢俊一160【著者偽装】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/books/1294100913/l50


983 :無名草子さん:2011/01/04(火) 17:38:35
>ドラッグに溺れたのは自分のかつてのカリスマを取り戻そうという
>あがきだったのだろうと思う。それから先はもう……ドラッグと
>銃刀法違反と権利裁判とだけがこの人の話題のような気がしていた。

なまくら同人誌と追討文とだけがこの人の話題だからなあ。
このスレ以外じゃ話題にもならない寂しい晩年。

984 :無名草子さん:2011/01/04(火) 17:42:04
唐沢が間違えないように年表作ってあげればいいのに。


985 :無名草子さん:2011/01/04(火) 19:54:15
>>984
誰が? 擁護が?w

986 :無名草子さん:2011/01/04(火) 20:02:41
>>921
道産子だからこそアンチ

987 :無名草子さん:2011/01/04(火) 20:03:30
>>984
すでに検証班やトンデモない氏が作ってくれてるよw
テンテー、ぜひ参考にしてくださいw

矛盾だらけだけどね

988 :無名草子さん:2011/01/04(火) 20:04:53
なをさんの年表も欲しいね。

テンテーの検証的な意味で。

-------

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/books/1294100913/
-------
12 :無名草子さん:2011/01/04(火) 17:34:47
http://www.tobunken.com/news/news20110104142504.html
“機”を見た男 【訃報 西崎義展】

>76年の晩春だったと記憶するが、札幌のヤマトファンたちに
>会いたい、と突然連絡があったときのことは未だに昨日のことの
>ように覚えている。会ったメンバーが四人だけ、全員いろんな
>ファン団体のリーダーではあったが、かろうじて大学生だったのが
>一人だけで、残りの私含めた三人が浪人生という情けない身分だった。

1976年の4月に高校3年になったハズの唐沢俊一。
何度も何度も、この時代の事を語って記憶は鮮明になっているハズなのに
どうして、そんな基本的な処を間違って記憶しているんだ?



13 :無名草子さん:2011/01/04(火) 18:49:54
>>12
1976年って、わざと間違えているような気がするなぁ。

だいたいファン団体のリーダーじゃなかっただろう。

14 :無名草子さん:2011/01/04(火) 18:54:45
今さらの感の西崎氏の追討。
帳尻合わせをするために時間稼ぎをしたけれど、結局ちゃんとすることは
できなかったのねw

15 :無名草子さん:2011/01/04(火) 19:50:28
この追討には
藤岡激怒
検証班冷笑
一行知識呆れ顔
だな。

あ、いつもと同じか。

16 :無名草子さん:2011/01/04(火) 20:02:20
>>12
どう書いても辻褄合わせられないからなあ。ニヤニヤ

17 :無名草子さん:2011/01/04(火) 20:55:38
http://inu-kyon.at.webry.info/201101/article_2.html

>毎年お正月は唐沢俊一先生宅に呼んで頂いていて。
>先生のお母様の手作り料理をご馳走になっています!
>昨日はおせちに、粕汁にお肉に沢山頂きました!

お気に入りの女優にメシを食わせる金はあるようだ
いや、母親の年金かもしれんが

18 :無名草子さん:2011/01/04(火) 21:00:36
検証する側が悲鳴だよ

19 :無名草子さん:2011/01/04(火) 21:32:46
なをきの「からまんブログ」
http://blog.nawosan.com/archives/2011-01.html#20110103

前スレにも出ていたけど、上京して半年後から「兄と同居で半年」
その後、1年おいてから「兄と同居」だった下宿に今度は1人で住んでいる。

検証blog
http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/20090216/1234749746

>上京して学生をしていた頃からしばらくの間、弟と一緒に阿佐ヶ谷に住んでいた。私も弟も
> ここが気に入り、通算で五年以上も住み着いてしまった。
(『奇人怪人偏愛記』より)

からまんブログを信用すれば、「通算で5年以上も住み着いた」のは、なをきの方だよね?

テンテーがなをきと阿佐ヶ谷で同居していたのは半年。
その後、1年以内に引っ越しているはず。

(1)なをきと同居解消の時点でテンテーも引越し
(2)なをきが東中野に出て別居。1年後、テンテーが出る代わりになをきが舞い戻る。
(3)テンテーはなをきが出た後に引越し。なをきはそれとは無関係に1年後に元の下宿に戻る。

(2)(3)の場合は、なをきが同居を嫌ったという事情が伺われる。
(1)だとすると、テンテーはその後どこに行ったか気になる。

20 :無名草子さん:2011/01/04(火) 21:42:41
1980年4月 なをき上京。阿佐ヶ谷で一人暮らし
1980年10月? 阿佐ヶ谷で唐沢兄弟同居開始。
1981年4月? 同居解消。なをきは東中野へ。テンテーは新宿区のどこかへ。
1981年4月 なをき、ベータマックスJ9を購入。
1982年4月? なをき、阿佐ヶ谷に戻って一人暮らし。

そして、82年か83年の春から仙台かな。

21 :無名草子さん:2011/01/04(火) 21:48:40
青山学院に入ってないっぽいよな

22 :無名草子さん:2011/01/04(火) 22:17:40
>>12
浪人中だったか高校在学中だったかを間違えることはないだろうから、
76年という年代のほうが間違いで、実際は77年晩春だろう。
その頃は『ヤマト』劇場版公開の直前。
『ヤマト』は、よみうりテレビ放送の地元・近畿地方から再放送が
始まり、全国のファンの嘆願運動の結果、75年の夏休みに全国的な
再放送が実現している。
スカーレット・スカーフの活動開始が西崎と会う前年だったとしても
その頃はかなりブームが盛り上がっている頃。
ヤマトFCとしては、かなり後発。

23 :無名草子さん:2011/01/04(火) 22:21:13
唐沢の最初の歴史では1977年にヤマトの放送を見てハマったと言う事になっていたけれど
1977年じゃ、再放送運動としては遅すぎるぞ!と突っ込まれ続けたので
いつの間にか1976年にハマって再放送運動を始めたという設定にスライドした
その為に、西崎が札幌に来たという歴史が1977年から1年前倒しになって
1976年に来たと言う事になってしまったのか?


24 :無名草子さん:2011/01/04(火) 22:23:39
>彼の企画力は復活篇で尽き、その後は陳腐な特攻話を延々パターン
>を変えて繰り返すのみになった感があった。

おいおい、「復活篇」の公開は一昨年の年末だぞ。

25 :無名草子さん:2011/01/04(火) 22:33:36
そもそも、さらば以降のヤマトなんて観ちゃいないだろうあのハゲ


26 :無名草子さん:2011/01/04(火) 22:38:40
>少なくともこの人の作った『宇宙戦艦ヤマト』が私の人生ばかり
>でなく、その後の日本の文化シーンを大きく変えたことは事実。

ヤマトのファンでもないのに人生を変えられてしまったのですか?

27 :無名草子さん:2011/01/04(火) 22:44:47
>76年の晩春だったと記憶するが、札幌のヤマトファンたちに
>会いたい、と突然連絡があったときのことは未だに昨日のことの
>ように覚えている。会ったメンバーが四人だけ、全員いろんな
>ファン団体のリーダーではあったが、かろうじて大学生だったのが
>一人だけで、残りの私含めた三人が浪人生という情けない身分だった。

去年末に当時のサークル関係の話でこれらしい話があったので
みんな納得して読んでいるけれど、それまでは西崎がらみの話は
こんな感じだったんだよね

『トンデモ創世記2000』 P.172
>唐沢● 西崎義展さん(編注:『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサー)辺りも、
>ヤマトを最初に放映したときはかなり懐を痛めたと思いますよ。札幌の
>再放送でようやく潤ったんじゃないですかね。
>志水● 次の作品をはじめるまでの事務所の経費くらいは持つらしいんで。
>唐沢● 西崎さんを札幌に招待したときには飛んできてくれましたからね。


全然違うジャンw

28 :無名草子さん:2011/01/04(火) 22:50:43
>自家用クルーザー『YAMATO』(『宇宙戦艦ヤマト』の
>最初の海外公開時のタイトルは『Space Cruiser Yamato』)
>からの転落死とは、不謹慎ではあるが波乱万丈であった人生に
>ふさわしい幕切れであろう。

実際に公開された海外版ではタイトルに“Yamato”は採用されず
“Space Cruiser”だけじゃなかったかな?

29 :無名草子さん:2011/01/04(火) 22:52:05
唐沢は自分の設定位ちゃんとしとけよ。
すぐ忘れるから、適当に作りなおして、
それでまたすぐ忘れて…

与太者の詐欺師

30 :無名草子さん:2011/01/04(火) 23:02:57
>>28
英語版wikipediaの記載によれば、"Space Cruiser"だけだね。

http://en.wikipedia.org/wiki/Star_Blazers

31 :無名草子さん:2011/01/04(火) 23:58:23
>未だに昨日のことのように覚えている。

のハズなのに、10年前に出した本ではまったく違う記憶がw

32 :無名草子さん:2011/01/05(水) 00:04:58
http://www.tobunken.com/news/news20110104142504.html
(今回の追悼文)
機を見るに敏なその手腕は、劇場版『宇宙戦艦ヤマト』の、
劇場用パンフを初版10万部印刷しろと配給の松竹に掛け合い、
松竹がパンフなんてものは寅さんでも2万部しか売れないと
拒否したのを恫喝的に談判し、結局4万部刷ったものが即日
完売して追加印刷することになり、結果80万部近くの売り上げに
なった、というエピソードにもよく表れているだろう。



http://www.tobunken.com/diary/diary20081010111635.html
2008年10月10日(金曜日)
西崎氏が『さらば宇宙戦艦ヤマト』のプログラムを100万部刷れ、
と言ったのに対し配給の東映は「日本の映画プログラムの売り上げ記録は
松竹の寅さんシリーズの5万部である」という数字をタテにとって拒否。
さんざやりとりがあった挙げ句、30万部刷ったプログラムが、
初日にもう品切れ。あわてて増刷に増刷を重ね、
最終的には250万部を売り切ったとか。



33 :無名草子さん:2011/01/05(水) 00:13:31
テンテー…
どっちが正しい、いや、きっとどっちも間違っているんだろうなぁ

34 :無名草子さん:2011/01/05(水) 00:16:27
きちんと正確に調べてくれないと、一般人は書かれている事をそのまま
信じてしまうんだけど。

35 :無名草子さん:2011/01/05(水) 00:17:23
>【JAniCA】 日本アニメーター・演出協会 その11
>http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/iga/1292256436/266

>266 名前:名無しさん名無しさん[sage] 投稿日:2010/12/23(木) 20:12:58
>188 :名無しさん名無しさん:2010/12/23(木) 20:09:56
>なみきたかしってアニドウの?

>だとしたら、昔から、甘い言葉で遺族だまして
>亡くなったクリエーターの遺品をただでもらうことで『コレクター』を名乗るって
>悪名高い偽善者だよ。

>しかもその版権モノを、アニドウフィルムって自社から画集として
>売って商売してるとさ。

>元アニドウの岡田さんや、唐沢さんたちからぼろくそ聞いたw
>別名「死神」。取りつかれるとアニメーターも、会社も滅亡するって。
>余計なお世話かも知れんが、自分のためにも気をつけな。
なみきたかし氏も他の書き込みを見ると大概のようだが。そこで、輝くのが
どこへ行っても、そこにいない人の悪口を言い出す唐沢センセーの勇姿(笑)
いや、揺るぎ無いですね。

36 :無名草子さん:2011/01/05(水) 00:22:46
『宇宙戦艦ヤマト』     『さらば宇宙戦艦ヤマト』

       の劇場パンフを
 
初版10万部         100万部
  
         刷れと

松竹に掛け合った       配給の東映に掛け合った

     のだが、松竹の寅さんですら
 
2万部しか          5万部である

       しかし、最終的に
 
4万部刷った         30万部刷った

    ものがすぐ完売し、最終的に
 
30万部近く          250万部
 
      売り切ったのである

37 :無名草子さん:2011/01/05(水) 00:26:31
唐沢みたいなヤツが適当に書いた物が本になって
それを読んだヤツがWikipediaにその記述を元に書いてしまい
さらにそれがネットで大量にコピペされる。

唐沢、お前はもう世間に害毒をまき散らすだけだから
早くすべて今まで出した本を回収して、姿を消せよ。


38 :無名草子さん:2011/01/05(水) 00:29:48
『宇宙戦艦ヤマト』の配給会社は東映洋画みたいだね。
『さらば宇宙戦艦ヤマト』の配給会社も東映洋画。

39 :無名草子さん:2011/01/05(水) 00:33:35
>>35
全てに確証がある訳ではないが、唐沢は、あらゆる唐沢と親しく付き合っている相手の陰口を
吹聴している。なみき氏に限らない。言われて当然のバーバラだけでなく、岡田の悪口も言っ
ているだろうし、自分をこの世界への橋渡しをしてくれたなをきの悪口も言っているだろう。K子
の悪口だって言っているだろうし、快楽亭ブラック師匠に対しても、表ではヨイショでも、裏に
回れば「あんな下品なゲテモノ落語」とバカにしているに違いない。あんなに世話になっている
母親の悪口も間違いなく言っているだろう。

唐沢は、最近すっかりネタ切れではあるが、唯一汲めども尽きぬものがあるとすれば、それ
は他人への悪口だろう。追悼でついつい誰かへの悪口が出てしまうのも、それしか表現が出
来ないんだろう。

40 :無名草子さん:2011/01/05(水) 00:42:57
>>39
それ、母親の影響みたいじゃん
「母の室」こそが唐沢の原動力だった。


41 :無名草子さん:2011/01/05(水) 00:56:25
テンテーの追討は悪口なんて可愛らしいもんじゃなくて、
誹謗中傷罵詈雑言罵倒讒謗の毀誉褒貶て言いたい位だよ。

「雨上がりの夜空に」はインポの歌って、その発想力。

42 :無名草子さん:2011/01/05(水) 00:56:30
>>38
(松竹配給の)寅さんのパンフ部数という話から、記憶が混乱して、ヤマトの配給元が松竹という
話になっちゃったんだろうけど。

これだけ仕事が無く、コピペしまくりなんだから、もう少しちゃんと調べて書くという事が出来ないん
だろうか?書いた物が正しいか自分で確認したりしないの?ネットでも割と出来ると思うんだが。

43 :無名草子さん:2011/01/05(水) 01:08:22
>>39
サッポロのサークル時代の唐沢は、とある女子に好意を持っていた男子を
ストーカー呼ばわりしていたらしい。
そして、その女子の悪口を他のメンバーに振りまいていたくせに、自分は
付きまとっていたらしい。

ソースは出せないから、嘘だと思われてもいいよ。

44 :無名草子さん:2011/01/05(水) 01:08:59
面倒臭いと思ったことは一切やらない
それがカラサークオリテー

ひょっとすると
酒呑み過ぎて人様より早くボケてきてるのかもね

45 :無名草子さん:2011/01/05(水) 01:12:52
>>43
トテカワさんに対する粘着というか執着の仕方がストーカーっぽくって
半端なくキモかったから、その話もさもありなんと思うだけ。
ソースが出されなくても疑う気にならないよ。

46 :無名草子さん:2011/01/05(水) 01:14:11
>43
メイって名前の彼女でしょうかね?

47 :無名草子さん:2011/01/05(水) 01:20:39
ストーカーという言葉がいつからあったのか、それが問題だ。

48 :無名草子さん:2011/01/05(水) 01:28:20
ペリーローダンのファンの女の子の方じゃないの?

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Comment

今更ですが、初代西崎緑の内縁の夫、マネージャーの内海通吉さんは、ご自身の著書(海軍・西崎流舞踏団 色ざんげ/ことば社)に、「大正8年1月15日東京生まれ」と書いてありますので、タクシーの運転手をしていてもギリギリセーフでしょう。

また、弘文が「いく先々で踊り子に手ェつけやがって
ねえ」と言っていたようですが、当の内海は緑の弟子と浮気しまくりでした。(前出の著書による)
9の部屋 |  2020年02月02日(日) 22:17 |  URL |  【コメント編集】

匿名希望の方から情報をいただきました。

>札幌の4プラで「長猫」「ホルス」の上映会を主催していたのは、
>大迫秀人(おおせこひでと)さんです。市民講座か何かで映写機を
>回す資格を取った話をしていたので間違いありません。

とのことです。

「大迫照久さん」とは別の方で、唐沢俊一の日記にお名前の出たことのある、北海道の方?
トンデモない一行知識 |  2011年01月25日(火) 01:35 |  URL |  【コメント編集】

●SF大会が特殊過ぎなのかも……

 「星を喰った男」は、潮氏の亡くなる直前の出版ですので、93年のダイコン6
>での出来事についての記載は無いはずです。

1992 年の HAMACON の内容は『星を喰った男』の本文に反映され、1993 年のDAICON (大阪) の話は反映されていない、という話だと思います。

http://tondemonai2.web.fc2.com/813.html
>唐沢俊一が文庫版『星を喰った男』で、HAMACON のあったのは 1993 年とかやって
>くれていたおかげで、ちょっと疲れることに。文庫本の出版された 1996 年の時点では、
>つい最近のできごとだったはずなのに。
〈略〉
> 唐沢俊一の Web 日記 (2001 年) によると、当時唐沢俊一の会社 (オノプロ) の社員が
> 潮健児の付き人をしていて、彼が地獄大使ショーでXライダーを演じたそうだ [21]。
〈略〉
> なお、『星を喰った男』文庫版では、ハマコン (HAMACON) は翌年 1993 年の開催と
> いうことになっているが [18]、まあ SF 大会の本家に HAMACON (横浜) は 1992 年、
> DAICON (大阪) は 1993 年と書かれている [19] し、ハマコンは 1992 年ということで
> よいのだろう。
〈略〉
>[21] - http://www.tobunken.com/diary/diary20011117000000.html
>>それから懐かしや、かつて私が社長をしていた時代のオノプロの社員のナベちゃん
>>(潮健児の付き人もやってくれていて、ハマコンでの地獄大使ショーではXライダーを
>>演じた)も来ている。


リンク先には「寄席のプロデュースしか経験がなく」とも書いてありますね。

http://www.tobunken.com/diary/diary20020725000000.html
>寄席のプロデュースしか経験がなく、色物の芸人さんなど、どんな大看板でも
>一人で荷物かついで“おはようございます”と楽屋入りしてくる姿に慣れている
>私としては、これはもう世界というか、常識が違うのだ、と思わざるを得なかった。

やはり特撮業界とは、それまで縁がなかったらしい唐沢俊一、ということでしょうか。

「Xライダー」か「ライダ-1」かについては、『星を喰った男』と 2010 年の日記で「ライダ-1」となっているので、2001 年の裏モノ日記の「Xライダー」は、多分唐沢俊一の勘違いではないかと思います。
トンデモない一行知識 |  2011年01月24日(月) 02:39 |  URL |  【コメント編集】

 また、唐沢氏の日記によると、この日の潮氏はノーギャラのようです。

>2002年 :: 07月 :: 20日(土曜日)
>基本的に、SF大会において、ゲストが享受できるのは“参加費免除”という特権だけであり(今回は予算の関係ということでその特権も破棄された)、交通費・宿泊費は自分持ちが原則である。
>……いったい、これでどこが大会の費用を圧迫するのか。氏に少し質問してみたい。それとも、われわれ末端ゲストとは違う、別格のオール大会持ちゲストという人が実は裏にいらっしゃるのだろうか。
>私の周囲でそういう例は、ハマコンの後、潮健児氏にDAICON6の実行委員氏が、“来年もぜひ、参加をお願いします”と言ってきたとき、私が“じゃあ、交通費と宿泊費を持ってくれませんか”とお願いして、そのとき彼が言下に“持ちます!”と即答してくれたのが唯一のものである。
>そしてそれは(当日精算ではあったが)完全に実行された。潮健児の名誉のために、あの、その場での一言は本当にうれしかったし、潮氏はその一言を大事にして、死病に冒されて余命いくばくもない体を、わざわざ大阪まで運んだ。
>結果、付き人を一人つけなくてはならなくなり、その費用は私が出したが、しかし、そのおかげで潮氏はファンたちに最後の挨拶が出来たわけで、その出費は決してムダではなかったと思っている。SF大会にとってもそうだろう。

 芸能プロの経営者として、また自称潮氏のマネージャーとして、プロの俳優さんにノーギャラの仕事をさせているという自覚はないみたいです。
 と同時に、SF大会として「地獄大使ショー」のために、何かしらの予算が用意されたわけではなさそうです。

 また、これを見る限り唐沢氏が手配したのは付き人(おそらくナベちゃん)一人だけのようです。
92年のハマコンでのショーは、地獄大使とライダーの二人だけの出演だったのでしょうか?
 
…こんなものを見つけました。
翌93年のSF大会(ダイコン6)での「地獄大使ショー」は、このグループの人たちが行ったとあります。

http://www.lares.dti.ne.jp/~maimilk/ZAI01.htm

>* 【日本SF大会DAICON6】において行われたゲスト・スペシャル・アトラクションショー。

>本物の地獄大使こと潮健児氏を迎えて、ザイバー最大のピンチ!
>病気を押してSFファンのために来阪した潮氏最後の舞台出演となってしまった遺作。
>記録ビデオやメイキングは潮氏贈呈のために制作された関係者用。

 「星を喰った男」は、潮氏の亡くなる直前の出版ですので、93年のダイコン6での出来事についての記載は無いはずです。
やまだ |  2011年01月24日(月) 00:44 |  URL |  【コメント編集】

唐沢氏の日記の中に、事務所の人が扮したのは、スーパーワンでなくXライダーとの記述があったと思うのですが。
唐沢氏のいつもの、記憶違いか。あるいは、複数のライダーがいたのか?

>現れた。ホンモノじゃなくってレプリカとゆーか、遊園地の後アトラクション用
>ってところが哀しいが、

 遊園地のアトラクションショー用のものだったとしたら問題です。
借りてきた先(会社)に返していないということですから。
 ファンが作って潮氏にプレゼントした物を使用し、それが現在、唐沢氏の手元にある…ということなのでしょうか?
 もし、このショーのために唐沢氏が誰かに制作を発注し、唐沢氏の会社から金銭が支払われていたとしたら、大変なことになりますけど。

やまだ |  2011年01月24日(月) 00:23 |  URL |  【コメント編集】

メモを兼ねてその 2。

>唐沢氏の事務所の若い人がXライダーorスーパー1に扮した

去年の裏モノ日記に「ナベちゃん」として登場した方ですね。

http://www.tobunken.com/diary/diary20100211135810.html
>今から20年前、私が伯父の芸能プロダクションを引き継いでエンヤコラ
>やっていた時に、そこの事務所のアルバイトとして働いてくれた人だ。
>その頃はうちももう、事務所をたたむ末期で(もともと、伯父の作った
>借金の後始末をするために存続させていた事務所だった)、
>怪しげな人物は出入りするわ、伯父自身は鬱病をこじらせるわで、
>私も大変だったが、ナベちゃんも大変だったと思う。

>それでも、もともとヒーローショーで仮面ライダーの中に入ったり
>演芸が好きで寄席に通い詰めをしていたような人物。
>潮健児さんの付き人をして潮さんの地獄大使とSF大会で
>仮面ライダースーパー1のショーをやったり、あるいは伯父と
>一緒に地方の寄席に旅興行をしたり、という生活が気に入って
>いたのだろう、安月給に文句も言わず、よく勤めてくれていた。

>やがて、予定通り(?)プロダクションは解散、私はモノカキオンリー
>の暮しに入って、早、20年が過ぎた。いつの間にやらモノカキが
>オンリーではなくなって、芝居をやるようになどなってしまったが。

ご本人のサイトによると、もともとアクションチーム所属だった人で、次に唐沢俊一の伯父の付き人になって、それから「潮健児(俳優・故人)の付き人」になったと。

http://www.theatrical-cantabile.com/members.html
>渡辺 勝巳(ワタナベ カツミ)
〈略〉
>芸歴: 1980アクションチーム所属。
>その後、小野栄一(ボードビリアン)、潮健児(俳優・故人)の付き人を経て
>役者となる。
>以降、舞台・映画・Vシネマ・CM等、多数出演。 現在『劇団カンタービレ』
>『様様寄席』主宰

で、この人以外の、小野プロと特撮業界をつなぎそうな人の話とか、唐沢俊一が潮健児さんと知り合う前に小野プロが特撮関係で実績をつんでいたという話とかは、私の記憶にはありません。

「ショッカーO野こと大野浩くん」の方は潮健児さんの元からの知り合いみたいに本には書かれていますし、中野稔氏、平山亨氏などの参加する「特撮ファンクラブGの飲み会」も、潮健児さんのマネージャーになってからの参加。

『星を喰った男』 P.322 ~ P.323
>今、所属しているプロダクションで僕の付き人みたいなことをやってくれている
>ナベちゃん(渡辺克己くん)も、ショーで仮面ライダーを演じてました。横浜で
>やったSF大会のショーで彼のスーパ-1と対決したんですが、なにしろ僕が
>主演のショーですからね。いくらスーパー1でも地獄大使にかなわない。最後に
>僕が勝ってしまうというとんでもないショーでしてね。ファンたちも大喜びで、
>僕もあんなに気持ちのいいことはなかったな、アッハッハ。
> 役者ばかりじゃない、構成作家をやったり専門学校の講師をやったり、八面
>六臂の活躍をしている、ショッカーO野こと大野浩くんも、戦闘員の出身です。
>彼とも、よく一緒にラジオのトークをやったり、舞台に立ったり……そう考えると、
>僕の周りは本当に、ショッカーで固められているんです。まさにあの役は僕の
>人生ですね。

http://www.tobunken.com/diary/diary20020831000000.html
>今日は十条和田屋での特撮ファンクラブGの飲み会なので、早めにアゲねば
>ならん。
〈略〉
> 新宿南口から埼京線で十条。十条というとなにか東京の僻地、といった
>感があったが、いや早い々々。6時45分には会場に到着していた。すでに
>大にぎわい、中野稔氏、平山亨氏、中島春雄氏、田中文雄氏、中野昭慶氏。
>和田屋飲み会もすでに19年目という歴史を持つ。私が最初にここに参加
>させてもらったときは、潮健児さんのマネージャーとして、であった。それも
>もう7年くらい前か。

# 「もう7年くらい前」というのはいつもの時空歪みで、2002 年時点なら
# 「もう10年くらい前」と書くべきだったですね。
トンデモない一行知識 |  2011年01月23日(日) 14:24 |  URL |  【コメント編集】

必ずしも直接的なレスとはなってないかも (すみません) ですが、メモ代わりにその 1。

http://mentai.2ch.net/sfx/kako/961/961191026.html
>34 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/08(土) 13:38
>>28.29
>地獄大使のマスクは、唐沢俊一氏が所有しているそうです。
>前に「なんでも鑑定団」にそれを持って、SF大会の会場から出演しました。
>それと、晩年に潮氏がアトラクやSF大会、東映のイベントで来た地獄大使
>の衣装は新調物で、本放送当時のものではないそうです。

「晩年に潮氏がアトラクやSF大会、東映のイベントで来た地獄大使の衣装は新調物」という話は、唐沢俊一の本のどこかで見た覚えがあるのですが、マスクについては本には書かれていなかったと思います。

http://www.asahi-net.or.jp/~wf9r-tngc/nikko96102.html
>帰って「開運なんでも鑑定団」を見ていると、かの唐沢俊一さんが潮健児
>お手製の「地獄大使のマスク」及び「潮健児イラスト入り洗面器」を持って
>現れた。ホンモノじゃなくってレプリカとゆーか、遊園地の後アトラクション用
>ってところが哀しいが、それでも値段は15万円になった。さすが地獄大使。
>死神博士のマントとどっちが高いだろーか。

http://tondemonai2.web.fc2.com/811.html
のコメント欄に引用した2ちゃんねるの過去ログによると……

>10 :無名草子さん:2008/12/06(土) 07:32:31
>地獄大使関連で思い出したことがある。

>潮さんの死後、唐沢氏が『開運!なんでも鑑定団』に、
>「潮健児自作による地獄大使のマスク」を
>出品したことがあった。
>営業用ではない素人っぽい造りだったが、
>「本人製作」が決め手になって15万円(ぐらいだったと思う)
>の高値がついていた。

>とは言うものの、生前の潮さんがマスクを
>自作したという話を聞いたファンが、少なくとも
>自分の周辺にはいなかった。

>そもそも、ウレタンとゴムで造形物を作るとなったら、
>素人には結構大変な作業になるが、潮さんから
>そんな話は出ていない。(出ていればどこかに
>書かれるはず)
>それに、潮さんの性格からして、自分でマスクを
>作ったとなれば、見せびらかしてまわらないなんて
>ありえないのだ。

>さて、真相は?

どうも、キナくさい感じがします……。
トンデモない一行知識 |  2011年01月23日(日) 14:03 |  URL |  【コメント編集】

「星を食った男」の企画が始まった91年から、実際に出版された93年当時の唐沢氏の信用・ツテでは、潮氏の本を出すことは難しかったのだと思います。
 本の性質上、東映や石森プロの承認もいるでしょうし、バンダイの出版部というのは妥当な線だったのだと思います。

 それよりも、潮氏について唐沢氏が何もかも自分一人の手柄にしてしまっている点について、さらに疑問があります。

 そもそも、SF大会での「地獄大使ショー」について、

「これではせっかくゲストになっても面白くない。もともと 芸能プロダクション出身のイベント野郎である。よし、ではこっちのプロと しての腕を使って、SF大会を乗っ取ってやるべし、と密かに決意した。
 で、その翌年の横浜大会から、立川談之助、快楽亭ブラック、大恐慌劇団と いう連中を集めてSF寄席をやり、潮健児さんに地獄大使ショーをやってもらい、徹底して企画をぶっつけた。」

 と唐沢氏は書いてますが、
 企画者は唐沢氏だとしても、これを実現させたのは唐沢氏一人の力では無いはずです。
 唐沢氏は「地獄大使」の衣装をどこから借り出したのでしょう?
(個人的にはとても知りたいです。92年当時、オリジナルの衣装が残っていたとは考えにくいですし)
 また、このショーにはライダーも出ているらしいのですが(唐沢氏の事務所の若い人がXライダーorスーパー1に扮したという日記があります)、その衣装はどこから?
 その唐沢氏の事務所の人以外にも、戦闘員などの出演者が多数いたのではないでしょうか?

 おそらく、潮氏のファンで、当時、ヒーローショーをやっていたような人たちの協力があったと思います。

 93年の「地獄大使ショー」と同時にやった「スカルソルジャー」の宣伝イベントのトークショーで、京本正樹氏の事務所とギャラの支払いでもめていることや(結局、ノーギャラ)、京本氏の新幹線代の支払いでグチグチ書いていることを考えると、SF大会の予算がそんなに無いことが判ります。
 ショーに出演してくれた人、衣装を準備してくれた人などは、ほとんど手弁当でやってくれたと考えるべきだと思います。

 しかしながら、唐沢氏の「よし、ではこっちはプロとして」の書きようでは、まるで芸能プロ経営の唐沢氏が「プロの営業」として企画を組んだかのような印象を受けます。
 唐沢氏が自身の会社で、東映や石森プロと交渉してショーの開催の承認を受け、正規の料金を支払って衣装・小道具を借り受け、全ての出演者に通常のヒーローショーと同等のギャラを支払って、はじめて唐沢氏の言い分は通ると思うのですが、実際はそうではないのではないでしょうか?

 本の出版にしろ、ショーにしろ、唐沢氏以外にも潮氏のファンで、潮氏のためにと尽力した協力者が何人もいたのだと思います。

 つくづく他者の協力や尽力というものに鈍感な男なんだと思います。
やまだ |  2011年01月23日(日) 01:15 |  URL |  【コメント編集】

●本当に何を考えていたのだろう早川書房

>『星を喰った男』がバンダイから出たのは、O野さんのツテだと思います。

なるほど、だから「プロデュース -- 大野浩」なのだと考えれば辻褄があうような気がします。文庫本で「出版を実現させてくれた大野浩さん」とひとりだけかろうじて名前が残っているのはそのせいなんでしょうか。

しかし、唐沢俊一は単行本の時点で自分がプロデュースしたのだと主張してもいて……何かとややこしい本ですね。@_@
http://tondemonai2.web.fc2.com/811.html

想像でしかありませんが、あの潮さんが出す本なのだから――ということで、「出版までにいろいろお手数ご迷惑をおかけした大野浩さん」も「仕事の枠を超えてこの本に入れ込んでくださったバンダイの加藤智課長」も、その他様々な人もいろいろと動いてつくった本なのではなかったかと思います。

他人がしたことも自分の功績にしたがる唐沢俊一が、そこに関わっていなかったら、こんな嫌な文庫本の出し方にはならなかっただろうにと思うと残念です。
トンデモない一行知識 |  2011年01月22日(土) 12:01 |  URL |  【コメント編集】

大野浩さんて、ショッカーO野さんですよね。
http://shocker.sakura.ne.jp/
こちらのプロフィールの「執筆活動(著書、連載、出版プロデュース)」の欄に、
「『星を喰った男』(潮健児著・バンダイ、プロデュース)」て書いてありますし。

ショッカーO野さんは、当時バンダイが出版していた「B-CLUB」で連載していたと思いますので、
『星を喰った男』がバンダイから出たのは、O野さんのツテだと思います。
やまだ |  2011年01月21日(金) 11:33 |  URL |  【コメント編集】

>なんでアニドウと仲の良い片山氏が本の装丁を引き受けたのか

をを、そうなのですか。この方の挿絵が文庫本から消えているという一点だけとっても、文庫版は単行本より何割か落ちるなあと思います。

>「FILM1/30」のこの記事は、なみき氏本人が書いたものと思われます。

うーむ、 「聞き書き自伝」というのは多少引っかかります。話を聞いて書き起こした分もあるかもしれませんが、単行本によると唐沢俊一本人が「潮さんの書き下ろされた原稿は、この本に直せば優に五百ページを超え」と書いているくらいですし。

>しかし唐沢はこの件について、なみき氏やアニドウが関与していたことを
>認める文章を書いているのでしょうか?

見た覚えがありませんし、改めてちょとだけ捜してみたのですが、やはり見あたりません……。

なにしろ、潮健児さん名義の「あとがき」を改ざんしてしまっているくらいですから、
http://tondemonai2.web.fc2.com/811.html
「すべて自分ひとりの手柄」にするためだけにはやたら熱心という感じで。

単行本の方は、「プロデュース -- 大野浩」という文字もあるし、唐沢俊一は大勢のうちの一人という感じです。文庫版からは、それを匂わせる記述は極力削除しているようですが。
トンデモない一行知識@レス遅延気味すみません |  2011年01月21日(金) 03:08 |  URL |  【コメント編集】

>50代(元アニドウ会員) さん
>ジブリアニメ顔負けの作画枚数をたっぷり掛けたフルアニメを作った、伝説の
>アニメ作家です。

1943 年の日本にこのようなアニメーションが……ウインザー・マッケイや今日泊亜蘭のようにオーパーツっぽい人だなあと思いました。いや私がアニメーションの歴史に無知なせいでハズした感想だったら申し訳ないのですけど。

http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-entry-417.html
http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-entry-479.html

http://hakutanya.web.fc2.com/karasawan.html
>唐沢なをき「電脳なをさん」/アスキー/1996/10/16
〈略〉
>EYE-COMはこのページのみ読んでいた私ですが、
>久々に読み返すと矢っ張り濃い。
>くもとちゅうりっぷが出てきたときはどうなることかと。
>まさに「誰が解るっちゅうねん!」と皆が皆突っ込んだという。
>(俺しか解らんだろうなぁコレ、というのを皆が感じている-というのは
> この手の手法が成功している事を意味する)

その他参考 URL:
http://kunimotokanei.blog8.fc2.com/blog-entry-32.html
http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/dennou_nao_san1.html

>唐沢俊一のアニドウ談義が、私の様な元会員の眼から見てトンチンカン
>なのは、実際はなをき氏からの伝聞を元にでっちあげてるからではないのか、
>とも思えるのですね。

ああ、これはとってもありそうですね。孔明人形の件とか、聞きかじりの話を例のごとく劣化コピーさせたものと考えれば、ある程度説明がつきそうな気がします。
トンデモない一行知識@レス遅延気味すみません |  2011年01月21日(金) 02:29 |  URL |  【コメント編集】

●「星を喰った男」はアニドウで出す予定だった・・・

『FILM1/30』といえば、No.4(1996年10月10日発行)に興味ぶかい事が載っています。

唐沢がアニドウに『星を喰った男』(文庫版)を寄贈した記事ですが、

〔一方の文庫版となった「星を~」は怪優潮健児さんの聞き書き自伝。実はこの企画はわがアニドウで出版する計画も一時あって何度か潮さんともお会いした。あまりにノロい進行に加え色々あって初版はバンダイから出版された訳だが、結果的にはそれが良かったと思う。〕
とあります。

『星を喰った男』は、私の手元にありません。
したがって、検証班さんやトンデモない一行知識さんの文からの引用ですが、バンダイ版の解説では、

〔ところがいろんな事情で出版社を転々とするハメになり、その間に潮氏は病篤くなって〕
とP.229に唐沢が書いています。

「出版社を転々」というその中にアニドウも含まれていた様です。

単行本(バンダイ)の後書きで、
〔出版までにいろいろお手数ご迷惑をおかけした大野浩さん、なみきたかしさん、藤井敏夫さん、装丁・イラストレーションを引きうけてくれた片山雅博さん、〕と潮氏は書いています。

なんで唐突にアニドウのなみき氏の名前が出て来るのか、なんでアニドウと仲の良い片山氏が本の装丁を引き受けたのか、不思議でしょうがなかったのですが、これで謎が解けました。

「FILM1/30」のこの記事は、なみき氏本人が書いたものと思われます。
「聞き書き自伝」「何度か潮さんともお会いした」とありますが、当然唐沢と一緒になみき氏は会っていたのでしょう。
しかし唐沢はこの件について、なみき氏やアニドウが関与していたことを認める文章を書いているのでしょうか?
トンデモない一行知識さんや検証班さんの書いた物を見ると、すべて自分ひとりの手柄にしているみたいですけど。

この『FILM1/30』が出た1996年は、唐沢が上り調子の頃です。
78年の入会時にはただの投稿者にすぎなかった唐沢は、プロのライターとして大手を振ってアニドウに“凱旋”した気分だったのでしょう。


50代(元アニドウ会員) |  2011年01月19日(水) 16:58 |  URL |  【コメント編集】

>トンデモない一行知識さん

>「むかし 昔 こんな漫画映画があった」(「くもとチューリップ」とか)なども、眺めていて楽しかったです。

唐沢なをき氏は、「電脳なをさん」第1巻に、政岡憲三漫画として「くもとあっぷる」というパロディ漫画を描いています。

政岡憲三といっても、TVアニメしか興味の無いアニメファンは知らないでしょうが、ジブリアニメ顔負けの作画枚数をたっぷり掛けたフルアニメを作った、伝説のアニメ作家です。
アニドウでは高く評価していました。

アニドウに『FILM1/30』という会誌があります。
『FILM1/24』、『FILM1/18』の他にまだあるのです(ややこしい!)。

その『FILM1/30』No.5(1998年6月1日発行)に、なをき氏のこのパロディ漫画が、取り上げられています。
▲「電脳なをさん」より、何人解るパロなのか?  とツッコミが入ってます。

こういうのを見ると、唐沢なをき氏もやはりアニドウの会員だったのではないか、という気がします。
84年に、漫画家デビュー前のなをき氏は、アニドウ主催のPAFにアニメ作品を発表していますし。

唐沢俊一のアニドウ談義が、私の様な元会員の眼から見てトンチンカンなのは、実際はなをき氏からの伝聞を元にでっちあげてるからではないのか、とも思えるのですね。
50代(元アニドウ会員) |  2011年01月18日(火) 20:46 |  URL |  【コメント編集】

>50代(元アニドウ会員) さん

>このブログの持ち主、たむらみのるさんという方はPAF(プライベート・アニメー
>ション、フェスティバル)の初期のころ、何度か作品を発表された方です。
>ブログにある『THE禅』『サンド・スナップ・ショット』等の作品は、そこで発表され
>ました。

をを、そうだったのですか。
http://anime.geocities.jp/qffnh142/anime001.html
に載っている GIF アニメや Flash をチェックして、へぇ∩と思っていたのでした。
新しいのは 2010 年の作で、現役でバリバリ更新中、という感じでしょうか。

# あ、トップの年賀状が 2011 年ですね。

http://anime.geocities.jp/qffnh142/a-omosiro.anime.html
の「ネットの中の面白いアニメーション作品(01)」 (カマキリのとか) 、
http://anime.geocities.jp/qffnh142/a-mukasi.anime.html
の「むかし 昔 こんな漫画映画があった」 (「くもとチューリップ」とか) なども、眺めていて楽しかったです。

改めてサイトを回ってみると、こういうのも↓
http://anime.geocities.jp/qffnh142/anime-8mm/07.jpg

http://anime.geocities.jp/qffnh142/anime8mm.html から飛べる分です。
トンデモない一行知識@レス遅延気味すみません |  2011年01月17日(月) 00:28 |  URL |  【コメント編集】

●写真の写し主の素性

うわあ、よくこんな写真を発見しましたね。
トンデモない一行知識さんの検索能力はすごいです。
なみき氏や五味洋子氏も写っています。

このブログの持ち主、たむらみのるさんという方はPAF(プライベート・アニメーション、フェスティバル)の初期のころ、何度か作品を発表された方です。
ブログにある『THE禅』『サンド・スナップ・ショット』等の作品は、そこで発表されました。
自主制作アニメの作家さんらしいです。

そういう関係でアニドウ等のアニメサークルとも交流があって、こういう写真を残したのでしょう。

唐沢が参加したと思われる、第9回、第10回の全国総会の集合写真は、『FILM1/24』にも載ってます。
ただ小さすぎてどれが唐沢だか見分けることは・・・。

『FILM1/24』は、国会図書館にも寄贈されているはずです。
ですから国会図書館に行けば読むことが出来るのではないでしょうか?
検証班さんはそうやって調べたのではないかと思うのですが。

50代(元アニドウ会員) |  2011年01月15日(土) 21:24 |  URL |  【コメント編集】

●大谷会館

>50代(元アニドウ会員) さん

『トンデモ創世記2000』では、「大谷会館ってところで上映したんですよ」に、「普段は葬儀会場なんだけど、そこには上映設備があったんで」と続きますが、2ちゃんねるのスレに書き込んだ人によると:

>札幌の4丁目プラザで1978年頃「長靴をはいた猫」の上映会があったけれど

なので、そもそも『長靴をはいた猫』や『太陽の王子ホルスの大冒険』の上映会が、本当に「大谷会館」で行われたかどうかも定かではないのではないかという気がします。

ハコのキャパとしては充分だったのではないかと思うので、そこで上映会があってもおかしくはないかなとは思うのですけど。

http://blog.livedoor.jp/liveamigo3/archives/50587099.html
>札幌市民以外は良くわからないと思いますが,20年前の札幌のコンサート
>会場の規模は 月寒グリーンドーム(野外)>真駒内アリーナ>厚生年金
>会館>札幌市民会館>道新ホール>大谷会館>ペニーレーンとかのライブ
>ハウス,確かこんな順番だったような気がします。
〈略〉
>スターリンがライブをやった大谷会館というところは,葬儀斎場の上というすごい
>シチュエーションで,おまけに100席くらいしかないようなハコだったんですが,
>何だか暴動みたいなライブの雰囲気にあってて妙に印象に残っています。

とにかく、1977 年頃に、北海道大などのサークルがアニドウと交流があって、上映会も何度か開催していて、唐沢俊一もそれを見にいったりしていてアニドウの存在をしることになった――まではよいのですが、「次は積極的に自分たちで上映会をやろうということになった」の「自分たち」とは誰のこと? と、どうしても思ってしまいます……。
トンデモない一行知識@レス遅延気味すみません |  2011年01月15日(土) 09:26 |  URL |  【コメント編集】

●全国アニメーション総会

>WEBアニメスタイルの「その34 全国総会」

http://www.style.fm/as/05_column/gomi/gomi34.shtml

の「その34」から「その35」、「その36」と続き、「その45」には 2008 年の会の言及もありますですね。

http://www.animetopics.com/news.php?news_seq=1703
>全国アニメーション総会は、毎年一回神戸、名古屋、静岡、東京の持ち回りで
>開催され、主に海外や自主製作など、普段なかなか見られないアニメーション
>作品の上映や、テーマを決めた特集上映、その他宴会などで一夜を過ごす、
>多分日本で一番歴史のあるアニメーションファンの集まりです。

http://wilee921.cocolog-nifty.com/cryingwilee921/2010/10/post-aff5.html
> 23,24日は第41回全国アニメーション総会常滑大会に参加してきた。
>アニメ総会は第8回の神戸大会(現在では廃墟として有名な摩耶ホテルで
>行われたのだった)から参加しているので、30年以上の付き合いである。

1970 年に第 1 回で、去年 2010 年に第 41 回が無事開催、と。

>アニドウが主催しなかった78年(会場:名古屋)か79年(会場:静岡)の
>全国総会で、宅さんは唐沢とニアミスしたのでしょう。

1978 年、第 9 回の名古屋大会の写真をアップしている方がいらっしゃいましたが、翌年の静岡大会についてはネットで情報は拾えませんでした。

http://anime.geocities.jp/qffnh142/nakama.html
>これは名古屋で行なわれた第九回全国アニメ総会の写真です

全員集合写真を見ても誰が誰やらで、宅八郎さんや唐沢俊一がいるかどうかは確認できなかったのでした。ただ、食堂での写真を見ると、宅八郎さんのいう「70年代の全国アニメ総会の食事の時」に、「席を並べていたことがあった」とは、このような感じだったのかと思ったり。
トンデモない一行知識@レス遅延気味すみません |  2011年01月15日(土) 08:46 |  URL |  【コメント編集】

●宅八郎氏と唐沢の接点とは・・・

>次は積極的に自分たちで上映会をやろうということになった。
東映の『長靴をはいた猫』とか『太陽の王子ホルスの大冒険』とかを借り出して、浄土真宗大谷派のやっている大谷会館ってところで上映したんですよ。
                     「トンデモ創世記2000」 P34。

唐沢が上映会を主催したというのはもちろんウソでしょうが、「スカーレット・スカーフ」が主催したのかというと、それも疑問です。

例の実際の主催者さんの文章を読むと、「スカーレット・スカーフ」というのは、TVアニメファンの集まりであり、東映の劇場アニメには興味は無かった、と思えるのですね。
この二作品は、当時アニドウが強力に推していたアニメです。

70年代後半には、東京アニメーション同好会(アニドウ)だけでなく、全国に大きなアニメサークルが幾つかありました。

宅八郎さんが例のコメントで <「席を並べていたことがあった」というのはアニドウ事務所でもなんでもなく、70年代の全国アニメ総会の食事の時です(アニドウ主催ではないです。当時のアニメ関係者は連絡先分かると思います)> と書いてるのは、その意味です。

アニドウが主催しなかった78年(会場:名古屋)か79年(会場:静岡)の全国総会で、宅さんは唐沢とニアミスしたのでしょう。
全国総会については、WEBアニメスタイルの「その34 全国総会」に詳しく書かれています。

しかし北海道には、道内のサークルを統率できる様な、大きなアニメサークルは無かった様です。

日本初のアニメ専門誌といわれる『ファントーシュ』創刊号の11ページに、第1回PAF(プライベート・アニメーション・フェスティバル)の報告が載っていますが、函館での開催はアニドウが主催した、とあります。1975年のことです。

大阪・名古屋等では各地域のアニメサークルが主催してますが、函館ではわざわざアニドウが出張しています。
PAFについては、例の「その81 PAF」を参照してください。

それを考えると同志社大のOBの大迫氏が北海道まで出張して、上映会を主催・・・・というか、やり方を北海道のサークルに伝授した可能性はありうる、と思うのですね。
アニドウにも、「上映会のやり方を教えてくれ」「フィルムはどこで借りられるのか」といった問い合わせは、ずい分あったと聞きましたし。

1975年の第1回PAFには、北海道大学アニメーション研究会も作品を発表しています(当時のチラシに載っています)。
その点から考えてもアニドウや関西のアニメサークルと、北海道のサークルとは交流があったはずです。

それらの出来事を見ていた唐沢が、「東京に出たらアニドウに入会しよう」と考えた可能性はあると思うのですね。
50代(元アニドウ会員) |  2011年01月11日(火) 21:01 |  URL |  【コメント編集】

●続報を楽しみに待ちながら

>50代(元アニドウ会員) さん

大迫さんという方は、この方で↓

http://www.style.fm/as/05_column/gomi/gomi59.shtml
> 大阪の同志社大学アニメーション研究会創始者で、やはり東京を再々訪れて
>人的ネットワークと見聞を広めていたのが大迫照久さん。大迫さんと私は帰りの
>方向が一緒でよく話したものですが、興味が幅広く探究心旺盛な方でした。

2ちゃんねるの書き込みは、これ↓ですね。

http://2chnull.info/r/books/1290754116/1-1001
>986:無名草子さん:2010/12/09(木) 11:26:24
>札幌の4丁目プラザで1978年頃「長靴をはいた猫」の上映会があったけれど
>主催者は大迫さんという方でした。
>自分も上映したい作品があって、上映会の催し方をこの方に聞きました。

>唐沢氏の言っている上映会はこれかなと思ったので。

で、アニドウのサイトによると、1972 年と 1976 年の上映会に「長靴をはいた猫」があって。

http://www.anido.com/html-j/step-j70.html
>1976年 (昭和51年)
〈略〉
>《第三回35mmで長篇を見る会「長靴をはいた猫」》8/28

札幌等、地方の上映会のスケジュールまでは、残念ながらサイトではわからないみたいですね……。


本題とは関係ないですが (_ _);、この「長靴をはいた猫」は東映のそれということで、多分私が生まれてはじめて映画館でみた映画です。スクリーン大きいー、すごーいと思いながらみていたのでした。
トンデモない一行知識 |  2011年01月09日(日) 10:25 |  URL |  【コメント編集】

●訂正

訂正
×ルーブルなにわ
○リーブルなにわ

メガネ、買い替えないとだめだな・・・
すみませんでした。
50代(元アニドウ会員) |  2011年01月08日(土) 21:01 |  URL |  【コメント編集】

●北海道、唐沢とアニドウの接点

年末、古いアニドウの郵便物を熟読していたら、いろいろ発見がありました。

83年2月に送られて来たチラシに 、「◎アニドウ出版物取り扱い書店」と有り、「○北海道 (札幌)ルーブルなにわ (釧路)小田原書店」と書かれてます。

北海道在住の唐沢はいつどこでアニドウの存在を知ったのか、不思議に思ってました。
ルーブルなにわに『FILM1/24』が置かれていたのなら、それを読んだ唐沢が「東京の大学に合格したら、アニドウに入会しよう」と、思った可能性は十分考えられます。

もっとも<盗作屋・唐沢俊一157[単著出ず?]> の986に、「札幌の4丁目プラザで1978年頃「長靴をはいた猫」の上映会があったけれど主催者は大迫さんという方でした」と有ります。
この書き込みが真実なら、大迫さんという方は、例のWEBアニメスタイルの「その59 この頃のアニメ」に出てくる大迫さんのことでしょうか?

大迫氏は「FILM1/24」にも何度か名前が出ています。
行動力のある方の様ですから、同志社大学OBでありながら北海道まで行った可能性も十分考えられます。
その上映会に行った唐沢が、チラシか何かでアニドウの存在を知った可能性もありえます。

これについては次回にもう少し詳しく書きます。

50代(元アニドウ会員) |  2011年01月08日(土) 20:48 |  URL |  【コメント編集】

●いつものことながら……

>とりとりさん

どうもです。(_ _)

確かにぱっと見で字面が似ている (?) のは完結編と復活編なのですよね。意味は反対ですが。完結編だったとしても、その後で「陳腐な特攻話を延々パターン を変えて繰り返すのみ」という程、延々やっていたっけかと思います。復活編までは間が空いている気がしますし。

>というかまるっきり観てないのではないかと。

サークルの人たちと誘いあって映画館にいったりしただろうから、まさか……とは思いますが、映画を見にいったときの思い出話でもなく、作品それ自体のことでもなく、裏話的なこと、それもガセっぽいことばかりですからねえ。
トンデモない一行知識 |  2011年01月07日(金) 01:46 |  URL |  【コメント編集】

復活編、ひょっとすると完結編と間違えたかも?というかまるっきり観てないのではないかと。
中学入ったばっかりのころ、ヤマト最後の映画と聞いて友人と見に行って、艦長にそりゃないわと・・・つっこみいれながら楽しんでいたような(東映でした)
それにしても、どの口がいうかという言いぐさは相変わらずですね
とりとり |  2011年01月06日(木) 15:15 |  URL |  【コメント編集】

>50代(元アニドウ会員) さん
>NNT さん

どうもです。(_ _)

>唐沢は『ヤマト』で検索して、東急レックス等、東急系の映画館で上映された
>ことを知ったのではないでしょうか? 「東急系なら東宝ではないな・・・すると
>松竹系だろう」

なるほど。私はてっきり、2ちゃんねるのスレでどなたかが書き込んでいたように、寅さん=松竹からの連想かなとしか思いませんでした。^^;

2ちゃんねるのスレといえば、

>61 :無名草子さん:2011/01/05(水) 09:40:09
>『宇宙戦艦ヤマト』劇場版も『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』も
>パンフの発行元は、西崎が代表を務める「株式会社アカデミー(後「株式会社
>オフィス・アカデミー」)なんだよな。

>ttp://members.jcom.home.ne.jp/reyamato/profile/okiroom/goods/yabook.htm

>配給の東映がどういう形で関わっていたものか……?

という書き込みがあって、あら?と思ったのですが、確かに裏表紙を見ると、『宇宙戦艦ヤマト』の発行は株式会社アカデミーで、
http://www.cwo.zaq.ne.jp/bfamp703/Movie_Pgm1.htm

『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』の発行は株式会社オフィス・アカデミーとなっています。
http://www.cwo.zaq.ne.jp/bfamp703/Movie_Pgm2.htm

刷れの刷れないのと配給元とやり取りするのは変な話かもしれないです。まあ刷ってもらっても困ると押し問答になったという話かもしれませんですが。


>ヤマトっていえば東映系だったじゃない!と、当時幼稚園児だった自分でも
>分かってました。

唐沢俊一も 2008 年の時点では、「配給の東映は」と書いていたのに……。

こちらの裏モノ日記の方が、ネタ元の人が話したことに近いのだろうと思います。

普段だったら元ネタの人の実在から疑わなければ、というのがあるのですが、「新宿ゴールデン街劇場」のオーナーと特定しているので、それは大丈夫として……うーん、でも、その人が唐沢俊一の書いているように「30年ほど前に、編集プロダクションをやっていた」か、唐沢俊一の日記の通りのことをいったかはわからないですね……。

そういう迷う要素さえなければまあ、寅さんを持ち出したのは、そのオーナーの責任ということになる (?) のですが。

トンデモない一行知識 |  2011年01月06日(木) 01:38 |  URL |  【コメント編集】

今年もよろしくお願いします。
ヤマトっていえば東映系だったじゃない!と、当時幼稚園児だった自分でも分かってました。
東映まんが祭りを観に行くつもりだったのに、何故か東宝のピーターパンを見せられて兄妹でブーイングだった事があって、東映と東宝は違うんだって刷り込まれました。
それで、漢字は読めないけど新聞の映画欄のカタカナを追ってました。
子供は松竹とは縁が無かった気がします。
東映まんがまつりの人気を考えると、なんで寅さんを引き合いに出したのか不思議です。
子供の方がよっぽどパンフレット欲しがるものでしょうに。
NNT |  2011年01月05日(水) 22:30 |  URL |  【コメント編集】

●『ヤマト』公開時の思い出

>『宇宙戦艦ヤマト』のプログラムだかパンフレットだかについて松竹と交渉するというのは、いくら何でもおかしいだろう。

『宇宙戦艦ヤマト』は1977年、東京・新宿の新宿東映パラスで私は見ました。
現在「バルト9」というシネコンが立ってる場所に、新宿東映という邦画の劇場があり、その地下の映画館を新宿東映パラスと呼んだのです。
この劇場名からわかる様に『ヤマト』は東映系で公開されたのです。
それを松竹とかなんとか、何をトンチンカンなことを、唐沢は書いてるのでしょうね。

この年の夏、「すみません。新宿東映ってどこにあるんですか?」と、カセットレコーダーを抱えた短パンの中学生くらいの少年に新宿駅東口で聞かれたのを、覚えています。

「ああ、ヤマトやってるところね」
「はい」
場所を教えましたが、カセットレコーダーに録音するつもりなんだろうが、満員の劇場でそんなこと出来るのかな?と他人事ながら心配になったのを記憶してます。

唐沢は『ヤマト』で検索して、東急レックス等、東急系の映画館で上映されたことを知ったのではないでしょうか?
「東急系なら東宝ではないな・・・すると松竹系だろう」
浅はかにそう考えて、こんなトンチンカンな話をでっちあげたのでしょう。
50代(元アニドウ会員) |  2011年01月05日(水) 20:23 |  URL |  【コメント編集】

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