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2010.12.12 (Sun)

本当に東京で弟といっしょに住んでいたかもしれない唐沢俊一

唐沢俊一の仙台時代って、いつからいつまで? (2)」の続きでもあり、タイトルは逆だが
本当は東京で弟といっしょに住んではいなかったかもしれない唐沢俊一 (3)」の続きで
もあり。

さて、こちらに列挙した日記などの文章以外に、東京での兄弟同居をにおわせるものと
して、以下に引用する『トンデモ創世記2000』の中の文章がある。

『トンデモ創世記2000』 P.218 ~ P.219

唐沢● オタクの七つ道具ってありますよね。
志水● えっ!? 何だろ?(笑)
唐沢● いや、コピー機とか。これは揃えておかなけりゃっていうの。
志水● ああ。うん。
唐沢● 弟がね、ライバルを抜いてたのはね。僕も協力したんだけどね、
まだ四畳半の部屋でマンガ描いてたときにファックスとコピー機の最新
機種を入れたんですよ。拡大できるやつを。
志水● ああ、そう。はー。
唐沢● それまでは資料のコピー取るときも、いちいち外へ出てコンビニの
十円コピーを利用してたのを全部自宅でできるようにしたんですよ。これが
原稿書くのにえらい能率的で、背景貼りつけたりするときや、トレースの
ときも新しい状態でできるっていうのは、作業効率が格段にあがりました
ね。実をいうとリースだったんですけどね。リース会社の知り合いがいた
んで、個人契約でリースして運びこませたんですよ。木造の離れの一軒
家を二つに割って、二軒で貸してたんですけど、四畳半で二間っていうと、
普通は横につながっているんですけど、縦につながってるんですよ。一階、
二階って、はしごみたいな階段を登るような作りで、しかも、日が差さない
から一階なんて一日中真っ暗。普段は会社のオフィスとかに運んでいる人
たちが見て、「何だこれは?」って言われて、なおびっくり。それにしても、
あのはしご段をよく上げたなと思ったよね。
 実は、そのときのことを小説にしないかって言われてるんで、今二人で
まとめているんですけど、当時はなにしろスケジュールがぎっしりだったん
で、「ああ売れてらっしゃるんですね」ってそのリース会社の人にも言われ
たりしてさ。まあとにかく、本をコピーしてファイルしたり、その頃からコピー
機は本当に必需品でしたね。
 それから七つ道具と言えば、デジカメだね。あれでバシャバシャ撮ってる。
僕は、レンズ付きフィルム、いわゆる使い捨てカメラね。あれができてどん
なに記録しておくことが楽になったことか。とりあえずコンビニで売ってる
わけだからさ。


「日が差さない」は原文ママ。

「僕も協力したんだけどね」のあたりは、『マンガ極道』のキャラで脳内変換してみれば
よいのかな、というのは、おいといて。それと、「七つ道具」と書いてあるが、「ファックス
とコピー機」、カメラにビデオまでで話が終わっているので、後の 3 つは謎のまま終わっ
ているということも、おいといて。

ここで「ファックスとコピー機の最新機種を入れた」という「四畳半の部屋」。「木造の
離れの一軒家を二つに割って、二軒で貸してたんですけど、四畳半で二間っていうと、
普通は横につながっているんですけど、縦につながってるんですよ」に、「はしごみたい
な階段を登るような作り」――と、かなり特殊な部屋である。そして、ここが『奇人怪人
偏愛記』に登場した、あの部屋のことだと考えてよいだろう。

『奇人怪人偏愛記』 P.17

それから東京の阿佐ヶ谷で弟と二人暮らしをしていた時期に住んでいた
住居というのが、これまた一般の住居とはかなりかけ離れたものだった。
下宿とは言い条、離れとして建てられた一戸建てを丸まる半分使用した
ぜいたくなものだったが、その半分というところに問題があった。大家の
婆さんが家賃稼ぎをするために、自分の家の離れを半分に仕切って二軒
にして貸し出していたのである。したがって、私たちの住んでいた部分に
は玄関があるが、もう一軒の方には出入り口というものがなく、住人は
縁側から出入りしなければならなかった。一方、私たちの方には二階が
あったが、そこに上がる階段がアチラ側にあって、それをとっぱらってし
まっていたため、急場作りのハシゴみたいな階段が取りつけられていた。
それはまさにハシゴみたいな急角度の階段で、おまけにとっぱらった階段
を持ってきてそこに取り付けるつもりが部屋の位置の関係上うまくいかず
途中でつなぎ直したため、勾配の角度が三段階くらいに変わるという、
物騒極まりない階段であった。そんな変な下宿であったが、われわれが
ここを大変に気に入っていたのは、家のすぐ隣が銭湯、路地を出たところ
が弁当屋という、独身男性の暮らしには至便きわまりないところで、おまけ
に大家が不動産屋と喧嘩して手を切ってしまったため、長年の間、家賃が
一回も上がらないという理由があったからであった。


「極まりない」と「きわまりない」の表記不統一は原文ママ。

で、最初に引用した『トンデモ創世記2000』の、「そのときのことを小説にしないかって
言われてる」というのを見て、あ、なるほど、もしかしたら、と思った。『奇人怪人偏愛記』
の中には、唐沢俊一が自分の昔の思い出を語っている箇所がなぜか多くて、すぐ上に
引用したような、以前住んでいたところについての詳細な記述も含まれていたりする。
これは実は小説用に書きためていたメモを流用して、原稿用紙の升目を埋めたものだ
と考えれば、何か説明がつくような気がする。

そして、『トンデモ創世記2000』の方の記述と、前エントリーの、「講談社に作品(マンガ
原作)の持ち込み」、「半年近く書き直しをさせられ続けたものの、最後まで私の原作は
採用されず」 (『B級学』 P.124) などをあわせて考えて、兄弟が同居していたというの
は、弟のなをきが上京したばかりの美術専門学校時代ではなく、学校卒業後、漫画家
になることを決心し、アシスタントと平行してデビューを目指していた頃から、デビュー
1、2 年目にかけての時期と考えると、いろいろと辻褄があうようになる気が……。

インタビュー記事によると、唐沢なをきが漫画家になることを決心したのは、一般企業
への面接に行って酷いことをいわれた、その帰りの電車の中。つまり、学生時代には
漫画家を目指して何かアクションをおこしていたわけではない。

http://journal.mycom.co.jp/articles/2008/08/06/karasawa/001.html
>「こんなの使いもんになるわけねえじゃないか、みたいな。もう全否定されてしまって
>ですね、かなり傷ついたんです。それなりに半年から1年かけて、一生懸命がんばっ
>て描いたものですから。で、その帰り道でほとほと考えまして、就職活動で恥ずかし
>い思い、ツラい思いをするんだったら、もっと好きな自分で描いたマンガを持ち込みし
>た方が、まだツラくないんじゃないかと。もともとなんですよ。オレがなりたいのはデザ
>イナーでもイラストレーターでもない。オレはもともとマンガの者じゃないか、みたいな
>ね(笑)。そういうのがあったんですね。ですからプロになろうと決心したのは、デザイン
>会社に持ち込みした帰りの電車の中なんです(笑)。その電車の中で、じゃあマンガ家
>になってやろうじゃないかという、はっきりとした目標ができた。そういう感じでしたね」


阿佐ヶ谷での同居時代を、唐沢なをきが学校を出た 1983 年頃から、1987 年くらい
までと仮定すると、「阿佐ヶ谷」を「私も弟もここが気に入り、通算で五年以上も住み
着いてしまった」のが、あの玉の湯の隣の家のことで、「家賃が一回も上がらない」と
いうのもメリットとして効いてくる。契約更新って 2 年ごとだから、住んでいる期間が
それ未満だと、「大家が不動産屋と喧嘩して手を切ってしまった」からといって、何も
うれしいことはない。

『奇人怪人偏愛記』 P.28

上京して学生をしていた頃からしばらくの間、弟と一緒に阿佐ヶ谷に住ん
でいた。私も弟もここが気に入り、通算で五年以上も住み着いてしまった。


また、以下の日記の記述も、唐沢なをきが学校を卒業後に阿佐ヶ谷で同居していた
ときの話とすれば、不自然な点がなくなるし、唐沢なをきが在学中は東中野に下宿
していたという話とも矛盾しなくなる。

裏モノ日記 2007年 04月 23日(月曜日)
http://www.tobunken.com/diary/diary20070423125720.html

二人で業界ばなし、
「××って、最近仕事がないらしいねえ」
「あんなに人気あったのに、コワいねえ」
「われわれもいつ、そうなるか」
「用心しないといけないねえ」
考えてみると、私たち兄弟は阿佐谷で共同生活していた、まだ売れる
気配のケの字もない頃から
「売れなくならないためにはどうしたらいいか」
と話しあっていたような気がする。また、売れたが故にヘンになっちゃった
人とか、長年売れないためにヘンになっちゃった人とかのゴシップも大好き
であった。その成果(?)が、私の文サバ塾であり、なをきの『漫画家超
残酷物語』であるような気がする。


裏モノ日記 2007年 12月 25日(火曜日)
http://www.tobunken.com/diary/diary20071225112727.html

昼は母の室で、訪ねてきたなをきと一緒に。
お互いくたびれた顔をしている。
母の作った牛飯をかきこみながら、雑談いろいろ。
〈略〉
30年前、阿佐谷のボロ下宿で酒をかっくらいながら二人でオダを
上げていた時代に戻ってしまった。
お互い仕事なので、じゃあ、と別れかけて、
「もう一回言うけどダメだよな、あれ」
「ああ、ダメだダメだダメだダメだ」



ついでに、弟の上京前の 2 年間はずっとアオイ荘に住んでいたとすれば、玉の湯隣
から芳賀堂書店までは遠すぎないかという疑問も解決する。

地図は「本当は東京で弟といっしょに住んではいなかったかもしれない唐沢俊一 (3)
のエントリーからのリンクで参照していただくとして、2003年 01月 10日の裏モノ日記
http://www.tobunken.com/diary/diary20030110000000.html に唐沢俊一が書いて
いるように、「近藤家の離れが駅から五分で、アオイ荘はそこからさらに七、八分歩く」
といった具合の位置関係で、アオイ荘から芳賀堂書店は 10 分くらいで行けそうだが、
玉の湯隣の「近藤家の離れ」は、それに「七、八分」を足して 20 分近くの距離という
感じになってしまう。

裏モノ日記 2007年 12月 13日(木曜日)
http://www.tobunken.com/diary/diary20071213130116.html

思えばしりあがりさんの作品を初めて読んだのは、大学のとき、下宿から
歩いて十分ほどのところにあった芳賀堂書店(作家になる前の出久根達郎
氏のやっていた古書店)に置いてあった多摩美大の漫研の同人誌に、氏が
本名で描いていた漫画だった。


『トンデモ創世記2000』 P.72 ~ P.73

唐沢● いや、高円寺なんですよ、道路沿いにありましてね、芳賀堂書店
(編註:現在店舗はなく「書宴」という目録のみ年一、二回発行している)
という名前で。出久根達郎さんとはしょっちゅう話してましたね。それが
七八、七九年かな。それほど特徴のある書店じゃないんですよ、まんべん
なく揃えてる。文学書から歴史書からビニ本まで置いてあるっていう書店。
〈略〉
唐沢● そう、広くない。学生が銭湯の帰りにぶらりと寄って、蛍光灯も暗く
てね。阿佐ヶ谷の学生街のザワザワしたところで、非常に雰囲気のある
良い所でしたよ。




――ということで、前エントリーの年表を、さらにいじってみるテスト。

1977 年: 札幌で一浪 ヤマトのファンではないファンクラブに参加 (代表者は別の人)
1978 年: 東京で一浪 住まいは阿佐ヶ谷駅から 12 分のアオイ荘
1979 年: 東京で二浪 住まいは阿佐ヶ谷駅から 12 分のアオイ荘 近所に芳賀堂書店
1980 年: 仙台 (東北薬科大) 1 年目 大学に入ったばかりで『少年期』を買う
1981 年: 仙台 (東北薬科大) 2 年目 ローラン・ボックのプロレス観戦
1982 年: 仙台 (東北薬科大) 3 年目 『江戸の戯作絵本』(三)、『湘南爆走族』
1983 年: 東京 住まいは阿佐ヶ谷駅から 5 分の近藤様宅、玉の湯隣弟と同居開始
1984 年: 東京 プータローアニドウ イッセー尾形ピコワード
1985 年: 東京 イッセー尾形 用事で行った仙台空港のテレビで阪神優勝を見る
ヤングマガジンの編集者に原作原稿を見てもらう
1986 年: 東京 イッセー尾形 前説事件
ヤングマガジンの編集者に見てもらっていた原作原稿は、半年書き直しで掲載されず
1987 年: 札幌 『奇人怪人偏愛記』 P.21「一時東京をしくじって実家に戻っていた」
1988 年: 東京

追記: コメント欄の指摘を受けて、『オタク創世記2000』を『トンデモ創世記2000』に訂正。

追記 2: 修正した年表


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テーマ : 読書メモ - ジャンル : 本・雑誌

23:41  |  資料編 (14) +  |  TB(0)  |  CM(5)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

> デジカメはバシャバシャ言わない、唐沢さん、それは銀塩カメラだよ!

「デジカメ バシャバシャ」でググると、そう表現している人も結構いるようなので、まあ擬音語ではなくて擬態語と考えればアリかなと思ったのですが、こういう例も。↓

http://www.tennen-k.com/index/ope_photo5.html
>中谷のデジカメは完全防水。しかも連写機能がものすごく、撮影すると「バシャ
>バシャバシャバシャバシャバシャッ!」と結構な音がする。
トンデモない一行知識@レス遅延気味すみません |  2010年12月17日(金) 23:27 |  URL |  【コメント編集】

●管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
 |  2010年12月15日(水) 22:07 |   |  【コメント編集】

>藤岡真さん
ご指摘ありがとうございました。訂正しておきました。(_ _);

# 「と学会白書シリーズ」のトンデモ本、というところがポイントなのに、
# 間違えてはダメダメですね……。

>とりとりさん
まあ、真面目に立証というより、ここをこうすれば、何となくおさまりが悪くて気持ち悪かった部分がすっきりするかな、と遊んでいるだけだから良いのですが。

>数少ない実際にあったことなのでしょうか?
>なをきさんと一緒に東京にいたのは。

…………うーん。
同居の有無はともかく、
http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-entry-571.html
で引用した唐沢なをき氏のブログを読むと、兄である唐沢俊一が漫画製作において協力者とかパートナーとかいえる存在だったかどうか疑問に思えてくるのですよね。

http://blog.nawosan.com/archives/51596485.html
>昔は、ゲロ吐きそうになりながら、一人で深夜の阿佐ヶ谷の中杉通りを、何十回
>となくグルグルグルグル、歩き回りながらアイデア考えてたんですけどね。
>あれは本当に、つらい。
>冬の寒い時期とか、夜中に早稲田通りから青梅街道のあいだをずーーーっと往復
>で歩き回って、ついに明け方まで一個のギャグも思いつかなかった時なんか、
>マジで泣きたくなりましたよ。胃に穴が空くかと思ったですよ。
>あの漫画の作り方は、今、もう体力的に無理。

>いや、『電脳炎』からこっち、の唐沢なをき作品は、どれもこれも内助の功、
>といいますか、多かれ少なかれウチの奥さんに助けてもらってるんで、ひたすら
>感謝、感謝ですよ。 ありがとう! 南無、奥さん大明神。

奥さんと共同作業というかたちになる前は、本当に孤独な作業であったといっているように読めるのですが……。唐沢商会のときの唐沢俊一の原作って一体……。
トンデモない一行知識@おおボケ |  2010年12月14日(火) 00:03 |  URL |  【コメント編集】

●記憶と記載があれなので・・・

数少ない実際にあったことなのでしょうか?
なをきさんと一緒に東京にいたのは。

それにしても当人も本当と嘘が分からなくなっているようなので立証が大変ですね
とりとり |  2010年12月13日(月) 20:24 |  URL |  【コメント編集】

◯『トンデモ創世記2000』 ×『オタク創世記2000』
では?
藤岡真 |  2010年12月13日(月) 12:40 |  URL |  【コメント編集】

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