2017年09月 / 08月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫10月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:--  |  スポンサー広告  |  EDIT  |  Top↑

2010.10.23 (Sat)

1971 年カラサワシュンイチ 13 歳

裏モノ日記 2004年 03月 21日(日曜日)
http://www.tobunken.com/diary/diary20040321000000.html

 いかりや長介さん死去、72歳。私はクレージーキャッツにハマッていた
人間なので、正直な話、ドリフターズをあまり評価して来なかった。お互い
に主演映画を数多く残しているが、クレージーが東宝の明朗スラップス
ティック路線で行っていたのに対し、ドリフは松竹の人情喜劇路線が色濃く、
どことなく泥臭くてこれもあまり好みではなかった。『全員集合!』よりは
当然のことながら毒の強い『ひょうきん族』の方を贔屓していたし、ドリフ
ターズの番組で毎週楽しみにチャンネルを合わせていたのは『飛べ! 
孫悟空』くらいだったと思う。……にもかかわらず、ドリフの価値を私が
大いに認めるのは、これくらい、教師やPTAにメノカタキにされたコメディ
アンたちも、まず絶後であろうと思うからである。
小学六年生の修学旅行時、バスの中で歌う歌にドリフのものを入れること
を認めよ、と、代表の一人になって職員室に談判に行ったことがある。
当時はそういう手続きを踏まないと、ドリフの歌を“学校行事で”歌うことは
禁じられていたのである。学年主任から“どういう歌詞だか、歌ってみろ”と
言われて、無難なところを、と思い『ツンツン節』のいかりや長介の歌う 一節、
「ボクはしがない婿養子/結婚九年目離婚沙汰/家土地財産妻のもの/
鍋釜子供はボクのもの」
 という部分を歌ったら、苦笑して認めてくれた(その教師が実際婿養子だ
と知った のはずいぶん後のことだった)。

 昭和50年代には、二~三ヶ月に一度は必ず、新聞のテレビ欄に、
“食べ物を粗末にするドリフのコントは許せない”といったような投書が
掲載されていて、それを読むのが楽しみであったものだ。若いうちは、
大人が自分たちの文化を理解できないことが嬉しいものである。加藤茶の
“ちょっとだけヨ”や、荒井注の“なんだ、バカヤロー”、さては志村けんの
“カラスの勝手でしょ”にいたるまで、ギャグとしてはどれも大したことない
ものなのに、痺れるような快感があったのは、そのギャグを口にすることで
大人たちの神経をかき乱せる、ということを子供たちが本能的に知っていた
からであった。“子供にとって一番オモシロイことは、大人の嫌がることで
ある”という原則を、これほど忠実になぞったコメディアンたちはいなかった
と思う。メンバー中、もっとも大人であり常識人であるいかりやにとって、
彼らの暴走の度合の目盛は、常に自分の中にあったのではないか。
親たちと同じ世代で、親たちからワースト番組と目される番組を作り続ける
という苦悩もあったと思う。きちんと丁寧に作り込んだ番組に彼がこだわって
いたというのも、その人気がいかに危険な場所に位置しているものか、を
身を以て理解していたためだろうと思えるのである。


2004 年に書かれた文章であり、この頃はまだ唐沢俊一が故人の“追討”を得意とする
ということがあまり知られていなかったせいもあるのだろうか、「私はクレージーキャッツ
にハマッていた人間なので、正直な話、ドリフターズをあまり評価して来なかった」とか、
「『全員集合!』よりは当然のことながら毒の強い『ひょうきん族』の方を贔屓していた」
とか、何でわざわざこんなこと書くかなあということを無防備にダラダラ書き連ねている
感じ。

まあ、唐沢俊一の場合、それは最近発表している文章でも同じなのかもしれないけど。

で、今回は、2ちゃんねるのスレで (Read More 参照)、「クレージーにはまって、ドリフを
認めていなかったのなら 『全員集合』と比較するのは『出発進行』だろ? 『ひょうきん族』
なんて81年から始まった番組だし。」などと突っ込みを入れられているのだけど、確かに
何でここで「『ひょうきん族』の方を贔屓」などと書いているのかは理解に苦しむ。

唐沢俊一の並べ立てている『ツンツン節』、そして「加藤茶の“ちょっとだけヨ”や、荒井注
の“なんだ、バカヤロー”、さては志村けんの“カラスの勝手でしょ”」――「さては」という
のは「果ては」の間違いか――のどれも、1981 年開始の『ひょうきん族』と、時期がまるで
かぶっていないような……。

http://ja.wikipedia.org/wiki/オレたちひょうきん族
>『オレたちひょうきん族』(おれたちひょうきんぞく)は1981年5月16日から1989年10月
>14日までフジテレビ系で土曜日20:00 - 20:54(JST)に放送されていたお笑いバラエ
>ティ番組。放送開始当時、土曜日20時の人気・視聴率を全て集めていた『8時だョ!
>全員集合』に真っ向から挑み、2大お笑い番組と言われるまでになった人気番組であ
>る。通称「ひょうきん族」、「ひょうきん」。


個人的なことを書いてスマソだけど、自分にとっては『オレたちひょうきん族』は、大学に
入学して上京してからの番組で、「加藤茶の“ちょっとだけヨ”や、荒井注の“なんだ、バカ
ヤロー”、さては志村けんの“カラスの勝手でしょ”」は、小中学生の頃に慣れ親しんだ
ものであって。『ひょうきん族』と視聴率争いをしていた時期の『全員集合』のギャグを
紹介しつつというならともかく、これで「『ひょうきん族』の方を贔屓」も何もないだろうと。

http://ja.wikipedia.org/wiki/加藤茶
>特に1972年から1973年までの間『全員集合』で毎週たった一度だけ「タブー」の曲に
>合わせて踊る「ちょっとだけよ」は大ブレークし日本のコントの歴史に残るギャグとなる。
>ちなみに、「ちょっとだけよ」のネタは加藤が仕事で出かけた広島市のストリップ劇場で
>見たストリップショーを見て考えたという[5]。


http://ja.wikipedia.org/wiki/荒井注
>1974年3月に「体力の限界」を理由にドリフターズを脱退(『8時だョ!全員集合』のプロ
>デューサーだった居作昌果の説によれば、いかりやのワンマンが気に入らなかったと
>言う。ギャラの配分をめぐる不平なども関係していたとされる。ただしいかりやの著書
>では、荒井からは多くを学んだと評しており、好印象で語られている)。一般発表した
>のは『8時だョ!全員集合』の生本番中だった。その後、交代したばかりの新人であった
>志村けんでは、穴埋めとしても暫くは完全には対応できなかった。


売れる前からキャンディーズが出ていたのが『全員集合』で、解散後に始まったのが
『ひょうきん族』じゃなかったっけ、という話もある。

何より、唐沢俊一自身、「痺れるような快感があったのは、そのギャグを口にすることで
大人たちの神経をかき乱せる、ということを子供たちが本能的に知っていたから」とか
書いている。『ひょうきん族』の始まった 1981 年には、1958 年生まれの唐沢俊一は
23 歳。子どもといえる年齢ではない。……といっても唐沢俊一の定義では、20 代半ば
まで子ども時代ということになっている可能性がなくもないのが、つらい (?) ところだが。

参考
大学生ってまだまだ子どもですか? にハゲドウならぬアニドウの「呼べど叫べど」
唐沢俊一 25 歳の青春であった<金髪美女のヌードCM

さて、そしてこれも違和感が強いのが、「昭和50年代には、二~三ヶ月に一度は必ず、
新聞のテレビ欄に、“食べ物を粗末にするドリフのコントは許せない”といったような投書
が掲載されていて、それを読むのが楽しみであった」のくだり。

ドリフターズが「教師やPTAにメノカタキにされた」り、新聞の投書欄に批判的な意見が
載せられたりしたのは、主に昭和 40 年代の後半、西暦でいえば 1970 年前半では
なかったのかと。先に引用した通り、加藤茶の「ちょっとだけよ」は「1972年から1973年」
との話だし、昭和 50 年代には荒井注はすでに脱退していたし。

ついでにいえば、「新聞のテレビ欄に、“食べ物を粗末にするドリフのコントは許せない”
といったような投書が掲載」って、新聞の投書欄ではなく「テレビ欄」の話なのかなあとも
思ったり。番組表と視聴者の投書が同じ面に載っている新聞があったのかもしれないし、
テレビ欄に掲載されていたコラムか何かと混同しているのかも。

- http://www.geocities.jp/hasu58/tsure/09.03.30_2.gif
- http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/000/289/06/N000/000/001/tv.jpg

http://www.spotlight-jp.com/matsutake/mt/archives/2009/09/_19751990.html
>[書籍/レビュー]
>タイトル : ザ・テレビ欄1975-1990
>著者 : テレビ欄研究会
>出版社 : TOブックス
>出版年 : 2009/3
>ただ新聞のテレビ欄をスキャンしたものがズラっと並んでるだけの本です。楽しみ方は
>人それぞれ。


そして、2ちゃんねるのスレでも指摘されていた (Read More 参照)、『ツンツン節』の件に
ついて。

まあ真偽はおいといても、「その教師が実際婿養子だと知ったのはずいぶん後のこと
だった」というのは全然笑えなかったぞという問題はある。2ちゃんねるのスレに書き込
まれていた「俊ちゃんの語る『ボクのオモシロ話』って、なんでこう40年前センスの小賢
しいオチがつくんだろ」の方には笑ったけど。

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/books/1287789550/54
>54 :無名草子さん:2010/10/23(土) 17:17:23
>ドリフの「ドリフのツンツン節/ドリフ音頭 」がリリースされたのは1971年5月
>唐沢俊一は1958年5月生まれなので、この曲がリリースされた時は13歳の中学1年
>生では?

>映画「ツンツン節」も1971年公開作品。


実際、『ツンツン節』は確かに 1971 年発売のようだし、映画も 1971 年公開。ついでに、
「夜のヒットスタジオ」でドリフターズが歌っていたのも 1971 年で、1970 年以前には歌っ
ていない模様。

http://www.snowrecords.jp/?pid=16262451
>アーティスト DRIFTERS, THE
>タイトル   drif no tsun tsun bushi
>レーベル   TOSHIBA MUSICAL INDUSTRIES
>カタログ番号 TP-2440
>発売国    JAPAN
>発売年    1971


http://ja.wikipedia.org/wiki/ザ・ドリフターズの映画
>ツンツン節だよ全員集合!! 松竹 1971年

http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/m/200703
>◆ザ・ドリフターズ-初出演:1969年7月14日(第37回)/最終出演:1978年5月29日
>(第499回)、出演回数:15回(うち、荒井注に関しては12回、志村けんについては個
>人名義の出演を含め4回)
>01 1969/07/14(0037) ミヨちゃん
>02 1970/03/30(0074) ドリフのズンドコ節
>03 1970/06/01(0083) ドリフのほんとにほんとにご苦労さん
>04 1970/10/05(0101) ドリフのほんとにほんとにご苦労さん
>05 1971/01/11(0115) 誰かさんと誰かさん
>06 1971/02/22(0121) 誰かさんと誰かさん
>07 1971/04/26(0130) ドリフのツンツン節
>08 1971/06/14(0137) ドリフのツンツン節
>09 1971/08/23(0147) ドリフのツンツン節


単に、小学六年生の頃に流行った歌だと思っていたら実は中学一年生のときでしたーと
いう話ならよいのだが、「小学六年生の修学旅行時」と、修学旅行の記憶に結びつけら
れているあたり、もしかしたら唐沢俊一小学校ダブり説が再び浮上かと思ったりもする。

参考
1970 年カラサワシュンイチ 12 歳
唐沢俊一にとっては『血と薔薇』>>>『少年期ハードスペシャル』か
高度に発達した唐沢俊一の経歴は、「東京人」と見分けがつかない


More...

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/books/1287789550/
-------
50 :無名草子さん:2010/10/23(土) 16:56:49
http://www.tobunken.com/diary/diary20040321000000.html
日記 :: 2004年 :: 03月 :: 21日(日曜日)
>いかりや長介さん死去、72歳。
>私はクレージーキャッツにハマッていた人間なので、正直な話、
>ドリフターズをあまり評価して来なかった。
>お互いに主演映画を数多く残しているが、クレージーが東宝の明朗スラップスティック路線で
>行っていたのに対し、ドリフは松竹の人情喜劇路線が色濃く、
>どことなく泥臭くてこれもあまり好みではなかった。
>『全員集合!』よりは当然のことながら毒の強い『ひょうきん族』の方を贔屓していたし、
>ドリフターズの番組で毎週楽しみにチャンネルを合わせていたのは
>『飛べ! 孫悟空』くらいだったと思う。
>……にもかかわらず、ドリフの価値を私が大いに認めるのは、これくらい、
>教師やPTAにメノカタキにされたコメディアンたちも、まず絶後であろうと思うからである。
>小学六年生の修学旅行時、バスの中で歌う歌にドリフのものを入れることを認めよ、
>と、代表の一人になって職員室に談判に行ったことがある。
>当時はそういう手続きを踏まないと、ドリフの歌を“学校行事で”歌うことは
>禁じられていたのである。学年主任から“どういう歌詞だか、歌ってみろ”と言われて、
>無難なところを、と思い『ツンツン節』のいかりや長介の歌う 一節、
>「ボクはしがない婿養子/結婚九年目離婚沙汰/家土地財産妻のもの/鍋釜子供はボクのもの」
>という部分を歌ったら、苦笑して認めてくれた
>(その教師が実際婿養子だと知った のはずいぶん後のことだった)。

51 :無名草子さん:2010/10/23(土) 17:03:47
俊ちゃんの語る「ボクのオモシロ話」って、なんでこう40年前センスの小賢しいオチがつくんだろ。
日記に書かれる「ボクが見たオモシロイ夢」そっくりというか。

52 :無名草子さん:2010/10/23(土) 17:04:07
apjって、ゆうこりん?

53 :無名草子さん:2010/10/23(土) 17:10:36
クレージーにはまって、ドリフを認めていなかったのなら
「全員集合」と比較するのは「出発進行」だろ?
「ひょうきん族」なんて81年から始まった番組だし。

クレージーをそこまで持ち上げている唐沢だったら
1971年という13歳の時に「出発進行」という番組。
ドリフの「8時だョ!全員集合」が半年間休みになり
その間に先輩クレージーが土曜8時台を繋ぐためにやった
同じような公開生放送があった

なんて知っていそうな気もするんだが……

54 :無名草子さん:2010/10/23(土) 17:17:23
ドリフの「ドリフのツンツン節/ドリフ音頭 」がリリースされたのは1971年5月
唐沢俊一は1958年5月生まれなので、この曲がリリースされた時は13歳の中学1年生では?

映画「ツンツン節」も1971年公開作品。



55 :無名草子さん:2010/10/23(土) 17:22:59
>学年主任から“どういう歌詞だか、歌ってみろ”と言われて、
>無難なところを、と思い『ツンツン節』のいかりや長介の歌う 一節、

どうして、唐沢がいかりやパートを無難と思ったのか不明。
1番の加藤茶が歌う部分の方が小学生らしいんだけど

http://j-lyric.net/artist/a001629/l019690.html
>僕は可愛い 小学生 ツンツン 国語算数 理科社会 ツンツン
>頭の悪さは パパに似て ツンツン 顔のまずさは ママに似たの ツンツン

56 :無名草子さん:2010/10/23(土) 17:52:49
70年代も時空を歪ませているのです

57 :無名草子さん:2010/10/23(土) 18:06:41
「歌詞を聞かせたその教師は実は婿養子だった」というオチを付けるための、唐沢定番の捏造思い出話でしょうなあ


58 :無名草子さん:2010/10/23(土) 18:10:34
>「ボクはしがない婿養子/結婚九年目離婚沙汰/家土地財産妻のもの/鍋釜子供はボクのもの」

ツンツン節で一番面白いところだもんなここ
やっぱ唐沢、見る目はある!
漫棚通信も唐沢にパクられたことを誇れ

59 :無名草子さん:2010/10/23(土) 18:18:42
同意
漫棚にしろ知泉にしろパクってもらってありがとう
という気持ちがないところがどうも好きになれん

60 :無名草子さん:2010/10/23(土) 18:22:55
一番の笑い処は、荒井注パートの

>俺は不真面目 失業者 ツンツン
>失業手当ても 乙なもの ツンツン
>飯は喰い逃げ 酒はツケ ツンツン
>借金月賦は 踏み倒し ツンツン

だろうな、とても教師の前で小学生が歌うものじゃないけど
でも、なんでドリフでよりによって「ツンツン節」なんだ?
他にも大量に当時の段階でヒット曲あったし。

そもそも
>学年主任から“どういう歌詞だか、歌ってみろ”
ってのが、どういう物なんだかなぁって感じ
「その曲の歌詞を見せてみろ」だったら判るけど
その場で歌ってみろとか言う教師
それに答えてその場で、即座に無難と思える箇所を歌い始める小学生
下手くそな脚本だなw

-------
スポンサーサイト

テーマ : 感想 - ジャンル : 本・雑誌

23:11  |  その他の雑学本 間違い探し編 (324) +  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

>野球拳時代のコント55号

こういうのがあったから、「空前」とは書きにくかったのかなと思います。「絶後」といわれてちょっと疑問に思ったのは、スーパージョッキーのたけしとかは無事だったっかかということなのですが。
トンデモない一行知識 |  2010年10月27日(水) 01:18 |  URL |  【コメント編集】

肝心な指摘を忘れてました。

>ドリフの価値を私が大いに認めるのは、これくらい、教師やPTAにメノカタキにされたコメディアンたちも、まず絶後であろうと思うからである。

少なくとも月亭可朝と野球拳時代のコント55号の二組は先行してますね。
discussao |  2010年10月26日(火) 08:16 |  URL |  【コメント編集】

>discussao さん
うちのブログにある分で、欽ちゃんが出てくるのは
http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-entry-483.html
くらいではないかと。唐沢俊一が「見ごろ食べごろ笑いごろ」に言及した文章とかは記憶にないですね。『トンデモ一行知識の世界』 (P.45) の「かつて伊東四朗がやっていた『ベンジャミン伊東』のベンジャミンは、ベンジャミン・ブリテンからとられた。」というのはありますけど。

>クレイジー

今日 (もう昨日か) の昼、NHK アーカイブスの谷啓追悼番組をぼーっと見ていたら、昭和 40 年代になると彼らを取り巻く状況も変化し、クレージーキャッツでというよりそれぞれ単独で活動することが多くなっていったとかいっていました。それにもともとあまり子ども向けの人たちではなかったような気も。

想像でしかないですが、唐沢俊一も本当に子どもの頃に好きだったわけではなく、タモリだツツイだ赤塚だジャズだとかいう後付けの知識で好きだったことにしているのではないでしょうか。
トンデモない一行知識 |  2010年10月25日(月) 00:53 |  URL |  【コメント編集】

>売れる前からキャンディーズが出ていたのが『全員集合』で、解散後に始まったのが『ひょうきん族』じゃなかったっけ、という話もある。

ここでの本題はドリフ限定だとしても、同時代の笑芸人の名がまったく出てこないのはちょっと不可解です。欽ドンやみごろたべごろをスルーしてひょうきん族というのは雑過ぎなのでは。
クレイジーですか・・・。クレイジーがリアルタイムで面白かったのは全共闘世代くらいまでで、唐沢俊一くらいの生まれで当時クレイジーが面白いとか言っていたら、そいつはただのダサい笑いの分からない子供だということ。芸人が叔父にいると、こういう特殊な感性になるのだろうか?
discussao |  2010年10月24日(日) 19:21 |  URL |  【コメント編集】

コメントを投稿する


 管理者だけに表示  (非公開コメント投稿可能)

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://tondemonai2.blog114.fc2.com/tb.php/544-b9d17d62

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | BLOGTOP | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。