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2010.06.08 (Tue)

まさか別件で調べた“血の日曜日事件”についてを流用したんじゃないでしょうねの『青騎士』解説

  『青騎士 -鉄腕アトム 青騎士より-』角川書店 原作:手塚治虫 漫画:姫川明

解説 唐沢俊一
 子供たちは、現実の世界からはものを学ばない。
 現実を写した“物語の世界”から、現実を学ぶ。なぜならば現実はあまり
にも複雑であり、自己を投影させる主人公がいないからである。自分のい
ない世界は、子供たちにとって存在しない世界なのだ。
 手塚治虫が、鉄腕アトムの物語に託して、現実の世界に起きている人種
差別、そして革命闘争を描いた『青騎士』は、それまで正義と人間の味方
であるロボット・ヒーローの活躍に自分を投影させ、ただその冒険譚に酔い
しれていさえすればよかったわれわれ“リアルアトム世代”に、自分が
やがていやおうなく直面するであろう“世界”の構造を見せつけた、ある意味
ショッキングなエピソードだった。人間により作られ、人間のために戦うこと
で、われわれがヒーローと認識していたアトムに自己を投影できなくなる。
自らの身勝手な主人公のヒーロー視を、罪悪感をもって見つめ直さねば
ならなくなる。
 現在において、『鉄腕アトム』のエピソード中、最高傑作とされる『青騎士』
であるが、連載当時からアトムを読んできたわれわれにとって、このエピ
ソードは、あまり喜ばしいものではなかった。例えて言えば、スーパーマン
がロイス・レーンを痴話喧嘩で怒鳴りつけるところを見てしまったような、
“現実にはいない完全無欠のヒーロー”だからこそあこがれを抱けた主人公
の、見たくなかった裏側をのぞき込んでしまったような、そんな居心地の
悪さを感じる話だったのだ。
 読者である子供たちのこのとまどいと、その結果である人気の低さに、
作者の手塚治虫はかなり悩んだようだ。後に講談社の手塚治虫全集に
収められた『青騎士』の話には、手塚の、この作品の否定とも受け取れる
エッセイマンガが冒頭に付け加えられている。そこで手塚は、この作品の
連載(1965年)当時日本全国で巻き起こっていた学生運動による、旧態的
なヒーロー像否定の風潮にあわせてこのエピソードの“人間の敵”アトム像
を描いた(描かされた)と語っている。もちろんその風潮の影響はあったろう
が、テーマ的に見れば、実際には、同じ年の3月(連載開始の7ヶ月前)に
アメリカで起きた“血の日曜日”事件が直接のモデルになっているのでは
ないか、と私には思えて仕方ない。
 この事件は1965年3月、アメリカ・アラバマ州の街セルマで、公民権運動
中に黒人青年が警官に撃たれ死亡した事件への、黒人たちの抗議デモを
阻止しようとする警官隊との大規模な衝突により、黒人側に65名の負傷者
を出した事件である。その模様はマスコミにより全世界に報道され、自由の
国・アメリカの真の姿を見せつけられた世界各国に、大きなショックを与えた。
 『青騎士』のエピソードにおけるロボットたちへの暴行にこの“血の日曜日
事件”を、青騎士の姿に黒人公民権運動のリーダーであるマーティン・ルー
サー・キング牧師(師自身は暴力否定だったが)を重ね合わせることは容易
だ。手塚がこの作品を語るときに、そのことに言及しなかったのは、あくまで
娯楽作品の主人公であるアトムにあまり政治的なカラーを付与することを
嫌ったためだろうと考えられる。エッセイマンガにも描かれているが、当時
アメリカを中心に、世界にアメリカのアニメを配給していた手塚にとり、それ
は商業的な不利益も意味していたのだろう。
 しかし、作品はある意味、発表された時点で作者の手を離れ、独自の
歩みを始める。それはまさに、作中で描かれていたロボットのように。
『青騎士』は、初読時に不満と困惑を抱いたわれわれ読者により、その後
“本来アトムの最終回に置かれるべきだった傑作”という評価を得、そして、
マンガという文化ジャンルが描き得る世界を大きく広げた、先駆的な作品
という位置づけを得た。
 作品の発表から45年という時間を経て、『青騎士』は今、どう読まれる
べきなのか。黒人やユダヤ人をはじめとする人種差別撤廃運動は、世界
で一応の成果を収めている。だが、別の意味での差別と偏見は、形を
変えて今の世の中にまだ、蔓延している。権力者によるコミック規制など
も、マンガファンという人々を差別しようという、その一面の表れだろう。
 『青騎士』は時代を越え、形を変えて時代とともに読まれ続けるべき
作品なのだ、と思う。そういう意味で、姫川明氏による今回のリメイクは
興味深い。まして、発表誌が児童雑誌である『ケロケロエース』である。
ここには手塚が時代の制約でストレートに描けなかった部分もきちんと
描かれている。時代は、あきらかに“少しだけ”進んだ。
 今の子供たちも、この作品にとまどいを感じるのだろうか。感じてほしい、
と願っている。


2ちゃんねるのスレには、「これまで大量に手塚先生に関する悪質なデマと偽情報流して
中傷してきたハゲがなんで青騎士の解説してんのよ」といった厳しい声も書き込まれて
いた (Read More 参照) が、確かに唐沢俊一はこれまで、「手塚治虫は人形の本質が
わかっていなかったようだ」とか、まあ好き放題な批判を続けていて、しかもその文章は
正確性に疑問のあるものが多い。

手塚治虫関連のガセビア:
ライオンズのマークは、やっぱりレオ
チョコっとイタズラしたかった手塚治虫?
幼女と少女人形とロボットの区別をつけてから話した方がよくね?
父が銃殺されたこと以外はあたっていないぞのビリーパック
創作の秘密を盗み見たなんて妄想に取り憑かれた人の過去と現在
偏差値 50 未満の黄色い照明エピソード@レオ

今回、唐沢俊一は、姫川明によるリメイク版『青騎士』の解説をしている。その書き出し
が、「子供たちは、現実の世界からはものを学ばない」である。……2ちゃんなるのスレ
で指摘のあった通り、「のっけからエンジン全開だな、おい。」である。

まあ、推測するに、「普通の子供は、仲間との遊びや喧嘩や仲直りから多くを学ぶ」と
いうようなことは、これを書いていたときの唐沢俊一の頭にはない。好意的に解釈する
ならば、現実に起こっている事件の報道等よりも多くのことを、子どもはフィクションから
学ぶというようなことをいいたいのだろう多分。


さて、手塚治虫の『青騎士』だが、公式サイトに書かれている内容紹介は以下の通り。

http://tezukaosamu.net/jp/manga/291.html
>63 青騎士の巻 1965/10-1966/03
>ある日、人間に平気で逆らえるブルー・ボンというロボットが現われた。 ブルー・ボン
>は、ロボットを虐待する人間や、人間に味方するロボットを次々と襲いはじめる。 彼は
>青い鎧(よろい)を身にまとっていたため、青騎士と呼ばれ、恐れられる。 アトムはその
>青騎士に戦いを挑み、その過程で、青騎士が持っていた1本の剣を手に入れた。 そし
>てその剣を調べてみたところ、ロボットの中には、その剣を持つと痺れてしまうロボット
>と、持っても平気なロボットの2種類がいることがわかる。 ロボット嫌いのブルグ伯爵
>は、その剣を持っても平気なロボットは、人間に逆らう可能性のある危険な青騎士型
>ロボットであると決めつけ、青騎士型ロボットの逮捕・解体を命令した。 そして、アトム
>の両親も青騎士型であると判断され、収容所送りにされてしまう。 アトムは、初めて
>人間に逆らい、両親を連れて青騎士の元へと逃げた。


自分がこの話を最初に読んだのは小学生のときで、実家にころがっていたコミックスで
読んだ。そのとき、すべてを犠牲にしてまでも人間の味方というスタンスをつらぬいては
くれなかったアトムに失望めいた気持ちを抱いたり、人間とロボットがなかよく共存して
いる世界のお話ではなかったのかと戸惑ったりはしたような気はするけど……「スーパー
マンがロイス・レーンを痴話喧嘩で怒鳴りつけるところを見てしまったような」とは、少し、
いや、だいぶ違っていたような……。

これが『スーパーマンIII』のような話だったら、「見たくなかった裏側をのぞき込んでしまっ
たような」とかいうのもわかるけど、『青騎士』のアトムって別に、グレて不良行為にいそし
んでいたわけではないし。

http://www.amazon.co.jp/dp/B000067JXQ
>スーパーマンIII 電子の要塞 [DVD]

>ところが、弱点であるクリプトナイトの力によって、スーパーマンは正義の心を蝕まれて
>しまう。2人の悪事によって、全世界がパニックに陥っている中、スーパーマンは必死
>に心の中で善と悪の闘いを続けていた!


http://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=1052
>スーパーマンが不貞腐れて酒場で酔い潰れてるなんてのは、かなりおかしいけど、
>その後で分身になってユング心理学的に争い出すと、なんかギャグじゃなくなっちゃう
>のよね。そもそもクリプトンナイト与えられると、すさんじゃうの?
〈略〉
>シリーズ第3作ではスーパーマンが不良に。女に溺れたり酒を飲んだくれたり…。
>無残な醜態を晒す正義の味方の姿は滑稽でさえありました。


「見たくなかった」とかいう意味なら、むしろ偽アトム騒動の回の方が読者へのインパクト
があったかも。

http://homepage2.nifty.com/074/atomB01.htm
>ヒーローものの定番には、ヒーローそっくりのニセモノが現れ、混乱を引き起こすという
>のがある。
〈略〉
>もう一つ、偽アトムがあまりにもワイルドなので読者のもつアトムのイメージを損なうこ
>とを危惧してカットされた可能性もある。なにしろ国際会議場へつくなり柱で爪を研ぎ
>始めるのだ(左の絵)。



次に唐沢俊一は、なぜか「“血の日曜日”事件」について長々と解説する。

手塚版『青騎士』には、「剣を持つと痺れてしまうロボットと、持っても平気なロボット」と
か、「収容所送り」とか、魔女狩りやユダヤ人狩りの方をより強く連想させる要素もある
のだから、そんなに公民権運動、それも「“血の日曜日”事件」にのみ、こだわらなくても
よいのではないかと思うのだが。

「青騎士の姿に黒人公民権運動のリーダーであるマーティン・ルーサー・キング牧師(師
自身は暴力否定だったが)を重ね合わせることは容易」ってのもなあ……。サドの貴族に
母親を殺されたつながりで、星野鉄郎とかと重ねあわせる方がまだ容易なような気が。
青騎士って暴力否定どころか、「人間に味方するロボットを次々と襲いはじめる」とか、
お前は KKK かってこともしたりしてたんじゃなかったっけ。キング牧師とはずいぶん違う
のでは……。

http://ja.wikipedia.org/wiki/マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
>1929年、ジョージア州アトランタ市でバプテスト派牧師マイケル・ルーサー・キングの
>息子として生まれる。ミドルネームも含めて父と同じ名前を付けられたが、父マイケル
>は1935年にマーティンと改名し、息子も同様に改名したため「マーティン・ルーサー・
>キング、ジュニア」となった。宗教改革をはじめたマルティン・ルターから父親が命名し
>た。父親は区別のため「マーティン・ルーサー・キング、シニア」と呼ばれる。
〈略〉
>キングの提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」である。インド独立の父、マハ
>トマ・ガンディーに啓蒙され、また自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない
>非暴力を貫いた。
〈略〉
>事実、1963年5月にアラバマ州バーミングハムでのバーミングハム運動の中で、丸腰
>の黒人青年に対し、警察犬をけしかけ襲わせたり警棒での滅多打ち、高圧ホースで
>水をかけるなどの警官による事件映像が映し出され世論は次第にそれらの暴力に拒
>絶反応を示していった。


しかし、とにかく、「“血の日曜日”事件が直接のモデルになっているのではないか、と
私には思えて仕方ない」とする唐沢俊一は、「手塚がこの作品を語るときに、そのことに
言及しなかった」理由までも強引に説明しようとまでする。


何か、「他人の宮沢賢治論についてアレコレ言っている場合ではない唐沢俊一先生 (2)
に引用したことのある、以下の文章を思い出すのだけど……。

『トンデモ一行知識の世界』 P.171 ~ P.172

 普通、自分の立てた仮説が実際の作品にうまくあてはまらないのなら、
それは仮説の方が間違っているのではないか、と考えるのが一般的だと
思うのだが、もう、この著者ほどのレベルになると、作品の方にその責め
を負わせて平然としているのである。こんなに読み込んでやっている自分
の考えに反するなんて、まったくわからん作家だ、という風に。


上でいう「実際の作品」というのを、作者である「手塚治虫の語ったこと」に置き換えると、
今回の唐沢俊一がとっている態度となる。


で、まあ、「言及しなかったのは、あくまで娯楽作品の主人公であるアトムにあまり政治
的なカラーを付与することを嫌ったためだろう」としか書いていないということは、唐沢俊
一自身、「アメリカで起きた“血の日曜日”事件が直接のモデルになっている」との説を
裏づけるだけの材料を、作品それ自体からも、「手塚治虫の語ったこと」からも、引き出す
ことができなかったということなのだろう。

それならそれで、でも俺は「“血の日曜日”事件が直接のモデル」だと思う――というだけ
ですませればよかったと思うのだが、唐沢俊一は、「手塚がこの作品を語るときに、その
ことに言及しなかったのは、あくまで娯楽作品の主人公であるアトムにあまり政治的な
カラーを付与することを嫌ったためだろう」と言い張る。……「政治的なカラー」うんぬん
というなら、公民権運動への言及はダメで学園紛争はオッケーの理由が、わからない。

「エッセイマンガにも描かれているが、当時アメリカを中心に、世界にアメリカのアニメを
配給していた手塚にとり、それは商業的な不利益も意味していたのだろう」というのに
なると、今度は時系列とか因果関係とかいったものが、わからなくなる。

「当時アメリカを中心に」の「当時」というのが、作品発表時の 1965 年頃をさすとする
ならば、作品中に公民権運動を直接的に想起させる描写がない説明にはなりえても、
後に「手塚がこの作品を語るときに、そのことに言及しなかった」理由にはならないはず
なのだが。

「学園紛争などで荒んだ時代の雰囲気を反映して」という手塚治虫自身の説明が掲載
されているのは、昭和 51 年 (1976 年) のコミックス。この時期、日本発売のコミックス
の中で、神経質にアメリカの政治問題への言及を避ける理由もまた、特にないはず。

http://www.kurata-wataru.com/t-osamu/else0064.html
>鉄腕アトム:「青騎士」解題
> 60年代後半の、学園紛争などで荒んだ時代の雰囲気を反映して、編集者の示唆
>で、アトムを人間の敵にした、という、事情の説明。これによって目にみえて人気が
>落ちたこと、アトムの性格を元に戻してからも、なかなか人気が回復しなかったこと。
>結局、時代の流れに巻き込まれていたに過ぎなかったこと。
>「鉄腕アトム 19」(サンコミックス)


http://www004.upp.so-net.ne.jp/hayakawa/comics/teduka-suncomics.htm
>鉄腕アトム 19  S51. 5.31 初版 青騎士 アトム復活


その他参考 URL:
- http://xia-xia.jugem.jp/?eid=180
- http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~hori/yomimono/atom.html
- http://mechag.asks.jp/342435.html
- http://eijirohblog.blog.so-net.ne.jp/2009-10-20

追記: コメント欄の指摘を受けて、「例えて言えば」の行は削除しました。


More...

http://2bangai.net/read/love6/books/1271375173/
-------
【 472 】:?無名草子さん?2010/04/25(日) 23:29:04
『青騎士-鉄腕アトム 青騎士より-』角川書店 原作:手塚治虫 漫画:姫川明

解説 唐沢俊一
 子供たちは、現実の世界からはものを学ばない。
 現実を写した“物語の世界”から、現実を学ぶ。なぜならば現実はあまりにも複雑であ
り、自己を投影させる主人公がいないからである。自分のいない世界は、子供たちにとっ
て存在しない世界なのだ。
 手塚治虫が、鉄腕アトムの物語に託して、現実の世界に起きている人種差別、そして革
命闘争を描いた『青騎士』は、それまで正義と人間の味方であるロボット・ヒーローの活
躍に自分を投影させ、ただその冒険譚に酔いしれていさえすればよかったわれわれ“リア
ルアトム世代”に、自分がやがていやおうなく直面するであろう“世界”の構造を見せつ
けた、ある意味ショッキングなエピソードだった。人間により作られ、人間のために戦う
ことで、われわれがヒーローと認識していたアトムに自己を投影できなくなる。自らの身
勝手な主人公のヒーロー視を、罪悪感をもって見つめ直さねばならなくなる、
 現在において、『鉄腕アトム』のエピソード中、最高傑作とされる『青騎士』であるが、
連載当時からアトムを読んできたわれわれにとって、このエピソードは、あまり喜ばしい
ものではなかった。例えて言えば、スーパーマンがロイス・レーンを痴話喧嘩で怒鳴りつ
けるところを見てしまったような、“現実にはいない完全無欠のヒーロー”だからこそあ
こがれを抱けた主人公の、見たくなかった裏側をのぞき込んでしまったような、そんな居
心地の悪さを感じる話だったのだ。
(続く)

473: 無名草子さん 2010/04/25(日) 23:29:52
 読者である子供たちのこのとまどいと、その結果である人気の低さに、作者の手塚治虫
はかなり悩んだようだ。後に講談社の手塚治虫全集に収められた『青騎士』の話には、手
塚の、この作品の否定とも受け取れるエッセイマンガが冒頭に付け加えられている。そこ
で手塚は、この作品の連載(1965年)当時日本全国で巻き起こっていた学生運動による、
旧態的なヒーロー像否定の風潮にあわせてこのエピソードの“人間の敵”アトム像を描い
た(描かされた)と語っている。もちろんその風潮の影響はあったろうが、テーマ的に見
れば、実際には、同じ年の3月(連載開始の7ヶ月前)にアメリカで起きた“血の日曜日”
事件が直接のモデルになっているのではないか、と私には思えて仕方ない。
 この事件は1965年3月、アメリカ・アラバマ州の街セルマで、公民権運動中に黒人青年
が景観に撃たれ死亡した事件への、黒人たちの抗議デモを阻止しようとする警官隊との大
規模な衝突により、黒人側に65名の負傷者を出した事件である。その模様はマスコミによ
り全世界に報道され、自由の国・アメリカの真の姿を見せつけられた世界各国に、大きな
ショックを与えた。
 『青騎士』のエピソードにおけるロボットたちへの暴行にこの“血の日曜日事件”を、
青騎士の姿に黒人公民権運動のリーダーであるマーティン・ルーサー・キング牧師(師自
身は暴力否定だったが)を重ね合わせることは用意だ。手塚がこの作品を語るときに、そ
のことに言及しなかったのは、あくまで娯楽作品の主人公であるアトムにあまり政治的な
カラーを付与することを嫌ったためだろうと考えられる。エッセイマンガにも描かれてい
るが、当時アメリカを中心に、世界にアメリカのアニメを配給していた手塚にとり、それ
は商業的な不利益も意味していたのだろう。

474: 無名草子さん 2010/04/25(日) 23:30:42
 しかし、作品はある意味、発表された時点で作者の手を離れ、独自の歩みを始める。そ
れはまさに、作中で描かれていたロボットのように。『青騎士』は、初読時に不満と困惑
を抱いたわれわれ読者により、その後“本来アトムの最終回に置かれるべきだった傑作”
という評価を得、そして、マンガという文化ジャンルが描き得る世界を大きく広げた、先
駆的な作品という位置づけを得た。
 作品の発表から45年という時間を経て、『青騎士』は今、どう読まれるべきなのか。黒
人やユダヤ人をはじめとする人種差別撤廃運動は、世界で一応の成果を収めている。だが、
別の意味での差別と偏見は、形を変えて今の世の中にまだ、蔓延している。権力者による
コミック規制なども、マンガファンという人々を差別しようという、その一面の表れだろ
う。
 『青騎士』は時代を越え、形を変えて時代とともに読まれ続けるべき作品なのだ、と思
う。そういう意味で、姫川明氏による今回のリメイクは興味深い。まして、発表誌が児童
雑誌である『ケロケロエース』である。ここには手塚が時代の制約でストレートに描けな
かった部分もきちんと描かれている。時代は、あきらかに“少しだけ”進んだ。
 今の子供たちも、この作品にとまどいを感じるのだろうか。感じてほしい、と願ってい
る。
(終わり)

475: 無名草子さん 2010/04/25(日) 23:38:30
>子供たちは、現実の世界からはものを学ばない。

のっけからエンジン全開だな、おい。
普通の子供は、仲間との遊びや喧嘩や仲直りから多くを学ぶと思うんだが。

大人でも現実の世界で起こしたトラブルからなにも学ばない人を知ってはいるけど。

476: 無名草子さん 2010/04/25(日) 23:53:17
唐沢は友達がいなかったから、現実世界から学べなかったんだよ

477: 無名草子さん 2010/04/25(日) 23:55:01
> 『青騎士』のエピソードにおけるロボットたちへの暴行にこの“血の日曜日事件”を、
> 青騎士の姿に黒人公民権運動のリーダーであるマーティン・ルーサー・キング牧師(師自
> 身は暴力否定だったが)を重ね合わせることは用意だ。

誰が用意したの?

482: 無名草子さん 2010/04/26(月) 01:10:00
>>472
どうして唐沢<なんか>が解説を書いてるのかが不思議。

485: 無名草子さん 2010/04/26(月) 01:38:20
唐沢信者はまだまだいるからね。角川書店の中にもいるんじゃないの?

503: 無名草子さん 2010/04/26(月) 06:10:00
>後に講談社の手塚治虫全集に収められた『青騎士』の話には、手
>塚の、この作品の否定とも受け取れるエッセイマンガが冒頭に付け加えられている。

講談社の全集にエッセイマンガが付いているが
そのエッセイマンガは朝日ソノラマから出た単行本の時に
描かれた物だよ。

しかし、
>発表誌が児童雑誌である『ケロケロエース』である。
そんなマンガ単行本になんでこんな解説が載っているんだ?
この雑誌の単行本にはこんな解説が載せられるのがパターンなのか
それとも浦沢のプルートに対抗して載せたのか?

582: 無名草子さん 2010/04/27(火) 17:11:57
俺はガチで怒っている
これまで大量に手塚先生に関する悪質なデマと偽情報流して中傷してきたハゲがなんで
青騎士の解説してんのよ

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Comment

>粗忽亭主人さん
何かすみません&ありがとうございます。

漢字表記についてはご指摘の通りと思います。この漢字をあてるのは○、これは×だと、ついやりたくなるのは、学校教育の名残りみたいなものかなと思っているのですが、これも年代によってずいぶん違うかなという気もします。
トンデモない一行知識 |  2010年06月16日(水) 08:33 |  URL |  【コメント編集】

●表記の問題

おっしゃることはわかりますし、そのスタンスに関して注文をつける気はありません。
ただ、私が申し上げているのは漢字表記の問題であって、仮名遣いの問題ではありません。その点誤解なきよう。
また、どのような漢字表記を採用するかは辞書によってちがっている(たとえば広辞苑には「例える」は採用されていない)ので、その点は注意しないと、いわゆる擁護派から逆ねじを喰わされる恐れがあるのではないかとわが老婆心がささやいておるのであります。
粗忽亭主人 |  2010年06月14日(月) 11:21 |  URL |  【コメント編集】

>粗忽亭主人さん
>藤岡真さん

どうもです (_ _)。「例えて言えば」に×をつけたのはマズかったかなと反省し、本文から削除して、その旨追記に書きました。

ただまあ、訂正した理由は辞書に載っているからというもので、「そもそも訓読みというのは」というスタンスは当ブログではとりませんし、今現在、商業誌に発表された文章は、特に断りがないかぎり、現代的仮名遣いの表記であることを期待されるものだと考えます。
トンデモない一行知識@レス遅延気味すみません |  2010年06月12日(土) 11:53 |  URL |  【コメント編集】

>うさぎ林檎さん
>その”ヒラメキ”に拘泥し過ぎて(己を過信して)しくじっている気がします。

本人は、
http://tondemonai2.web.fc2.com/369.html
で引用した分章でいう「見事に“学”に昇華」させたつもりかもしれませんけど、結果はかんばしくないことが多いというか……。

『トンデモ一行知識の世界』 P.48
>  このように、ある一行知識を見た瞬間に、これまでの雑多な見聞や疑問が
>見事に“学”に昇華する場合があるし、また逆に、前もって頭脳の中の記憶
>プログラムに一行知識が入っていたために、新しい体験が単なる体験以上
>のものになって人生の一ページになる場合もある。

http://tondemonai2.web.fc2.com/99.html
で、「『公園デビュー』という言葉は赤軍派の使っていた『公然デビュー』のもじり」との説を取り上げたことがありますが、実はそこには引用していない唐沢俊一の言葉の方が、「頭がクラクラ」するちょっとすごい文章になっていたりします。

『トンデモ一行知識の世界』 P.34 ~ P.35
> 総括、という名目の凄惨な粛正は、あまりにマスコミが書き立てたために、
>流行語となってギャグマンガに使われるまでになっていた。そんな赤軍派の
>イメージと、事件から三十年近くがたって、若い母親が奥さんたちのコミュニ
>ティーに参加する日本的儀式のような公園デビューという言葉が、ここで
>いきなりワープして結びつく、そのアクロバットのような事実に、いささか頭が
>クラクラしたのを覚えた。
> ……もちろん、南原氏も“多分”と含みをもたせ、これを定説とはしていない。
>あまりにカケ離れたふたつの言葉を、語呂が似ているというだけでもじりと
>断定するのは問題もあるだろう。
> だが、すでに連合赤軍も、学生運動というコトバも時とともに風化し、記憶に
>それを止める人も少なくなっている今日、たぶん赤軍派もあさま山荘事件も
>まったく意識に上せたことのない若い母親たちが思い悩む公園デビューという
>その言葉が、連合赤軍にその語源を求められるとするならば。
> いささか強引かもしれないが、私は“歴史”というものを、その事実の内に
>見ることができるような気がするのである。

……「その事実」?
トンデモない一行知識@レス遅延気味すみません |  2010年06月12日(土) 11:37 |  URL |  【コメント編集】

●漢字の読みに関して

 以前、こんな議論もありましたね。

 http://tondemonai2.web.fc2.com/466.html
藤岡真 |  2010年06月09日(水) 14:45 |  URL |  【コメント編集】

●手もとの角川国語辞典では

たとえる【例える[譬(=喩)える】
新小辞林では
たとえる【例える・〈譬える・〈喩える】
(ともに意味解説部分および一部記号、歴史的かなづかい略)
となっています。
そもそも訓読みというのは漢字、すなわち支那文字に対する日本語のあてはめなので、日本語と支那語が一対一対応していない以上、この字はまちがい、という指摘はあきらかな誤用(田堵える、とか)でもないかぎり揚げ足とりというか、言いがかりに近いものになってしまいかねないので、あまり感心しません。明治大正戦前の作家の文章など、きわめて柔軟に漢字を使っていますし。(唐沢氏がそれにならっていると言っているわけではありません。)
もちろん、もとの文章が広辞苑の表記準拠とか、常用漢字音訓表準拠とかをうたっているのならその限りではありませんが。
粗忽亭主人 |  2010年06月09日(水) 10:25 |  URL |  【コメント編集】

●オレって天才かも……?

>「普通の子供は、仲間との遊びや喧嘩や仲直りから多くを学ぶ」と
>いうようなことは、これを書いていたときの唐沢俊一の頭にはない。

まぁ、彼の事情では実際に経験が無いのかもしれませんね。

>次に唐沢俊一は、なぜか「“血の日曜日”事件」について長々と解説する。

他の時もそうですけど、ちょっとした自分の思いつきに有頂天になってしまうのではないでしょうか。
その”ヒラメキ”に拘泥し過ぎて(己を過信して)しくじっている気がします。
残念な事に、ヒラメキに肉付けしていくための教養や調査・考察能力に長けているとはお世辞にも……ね。
うさぎ林檎 |  2010年06月09日(水) 10:23 |  URL |  【コメント編集】

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