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2010.01.17 (Sun)

本当は怖くなかった『日本売春史』?

朝日の書評より。
http://book.asahi.com/review/TKY200711060214.html

日本売春史―遊行女婦からソープランドまで [著]小谷野敦
■現代の売春を見つめ「聖なる」説を論難
 読んで驚く本というものがまま、あるものだが、この本もその類(たぐ)い
の一冊であった。まず、内容が想像とはかなり違う。書名こそ売春史だが、
読んでみると、『日本売春論史』とでも言った方が近い。いや、それよりも
『日本売春論争史』の方がピッタリするか。これを読むと、学界の定説という
ものがいかに時代やそのときの状況により変転していくものかがわかって
一般読者は仰天するに違いない。
 さらに、著者の攻撃的な筆致にも一驚を禁じ得ない。売春史においては
遊女の起源を天皇直属の職能人と見る故・網野善彦氏や、巫女(みこ)
など宗教系のものを祖としているという佐伯順子氏の学説などがあり、
どちらも遊女の起源を聖なるものとしているが、著者はそれらを文学的幻想
として、激語で論難している。一方で、女性が自分の性を売る自由を認め
ようという在野の風俗研究家・松沢呉一氏の論も一刀両断である。論争史
どころか、この本自体がそういう論戦の火ダネではないかと思える。不謹慎
を素人の特権として言わせてもらえば、こういう高名な研究者たち同士の
やりあいにはプロレス的な興奮を覚えてしまうのである。
 なにも、こんなひねくれた読み方を人にすすめるわけでは決してない。
しかし、良くも悪くも著者の個性派学者としての特質はこういうところに表れ
ていて、攻撃的になったあたりの文章はメリハリの利いた名調子であり、
読んでいて痛快である。正確さだけがとりえの無味乾燥な文章を書く学者も
少なくない中で、貴重な存在だ。また、著者は単に人の誤謬(ごびゅう)を
指摘するばかりでなく、話題になった自書『江戸幻想批判』の、遊女の平均
寿命の件に関しては素直に誤りを認めて撤回するという、学者としてのフェア
さもきちんと見せている。
 そして、歴史学に興味のある若い人たちは、その論争の経緯から、歴史の
事実というものは一つだけではなく、見方によりいく通りもの解釈が出来ると
いうことが学べるだろう。著者の主張を鵜呑(うの)みにせず、一定の距離さえ
置いて読めば、学問の醍醐味(だいごみ)である“驚き”を存分に楽しめる。


「一方で女性が自分の性を売る自由を認めようという在野の風俗研究家・松沢呉一氏の
論も一刀両断である」……って、どこで「一刀両断」しているんだろう。

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=一刀両断&dtype=0&stype=1&dname=0ss
>いっとうりょうだん[―たうりやう―] 00 【一刀両断】
>[1] ひと太刀で真っ二つにすること。
>・ 敵を―にする
>[2] すみやかに決断して事を処理すること。


『日本売春史』という本の中に、「松沢呉一」の名前は、以下に引用する部分にしか登場
しない。

『日本売春史』 P.117
>近世遊郭美化論者は、徳川時代の遊女についてはアイドルだったと言っても、現代の
>高級ソープ嬢を同じように言うことはない。私はそれが偽善的だと言っているのであ
>る。
>あるいは浮世草子、洒落本のような文藝は、現代でいえば松沢呉一の著作や風俗情
>報誌の優れた記事に相当するだろうが、偏頗な江戸美化論者は、過去のものは文化
>だが現代のものは認められないという二重基準に陥っている。


『日本売春史』 P.203 ~ P.205
> 本稿のきっかけとなったのは、私が、佐伯順子の『遊女の文化史』以来の、無批判
>的な過去の遊郭礼賛論の隆盛に業を煮やして、一九九九年十二月に刊行した『江戸
>幻想批判』(新曜社)である。だが、これとほぼ同時期に、勁草書房の『クィア・ジャパ
>ン』(伏見憲明責任編集)の創刊号に、風俗ライター・松沢呉一(一九五八年生)が
>「売春肯定論」を載せ、売春は近代的性道徳を解体するといった形で論旨を展開し、
>さらに翌年始め松沢は『売る売らないはワタシが決める』(ポット出版)を編集刊行し
>て、売春反対論者たちを激しく批判した。その巻末には、援助交際OK論で知られた
>社会学者・宮台真司を含めた座談会も掲載されていた。当時既に西洋で、売春を性
>労働と位置づけ、労働者としての権利を守らせる運動が起きており、米国では「コヨー
>テ」と名乗る娼婦団体があり、その言説を輸入したのである。その頃京都には「セック
>スワークの非犯罪化を要求するグループ UNIDOS」があった。UNIDOS はイスパニア
>語で「連帯」を意味するが、このグループは内部分裂したらしい。今もあるのは、売春
>の非犯罪化を目指し、性老土砂の状況改善を目指すNGO・SWASH (Sex Work and
>Sexual Health) という、研究者中心のグループがある。
> こうした主張をする者たちは「売春婦」「娼婦」といった表現を差別化だと見なし、
>「セックスワーカー」と言い換えた(日本で最初に論文に使ったのは一九九五年の
>川畑智子)。『クィア・ジャパン』二号には、松沢への反応として、私の「売春撲滅論」
>と、東大院生の渋谷知美(一九七二年生、東京経済大専任講師)の「買春改革論」が
>載った。いずれも投稿である。渋谷は、売春婦に敬意をもってする「よい買春」ならよ
>い、という立場をとっていたが、マルクスの価値発生論を誤解したかなり杜撰な論考
>で、しかも後に渋谷が刊行した『日本の童貞』(文春新書、二〇〇三)では、買春は許
>さないとしかとれない文章があった。その矛盾について渋谷は説明していないが、「買
>春改革論」では、私を攻撃して、セックスワーカーへの差別をなくす気がないなら、売
>春について語ることをやめるべきだと、言論の自由を封じるような文言もあり、同時に
>私は別件で渋谷から脅しとしかとれない内容証明を受け取っていた。
> しかし、松沢らの批判に答えたのは、私のほかには永田えり子・滋賀大学教授
>(一九五八年生)だけで、他の、もっぱら「フェミニスト」たちは沈黙を守った。その後、
>『週刊金曜日』誌上で、松沢と、これに反対する森田成也(一九六五年生)の両論が
>掲載されたが、松沢が、売春防止法があるから娼婦は蔑視されるのだと論じたのを、
>私が投書しておかしいと指摘したら、松沢の仲間の「人権ファシスト」佐藤悟志によ
>る、名誉毀損ものの私を誹謗する投書が続けて載った。以後議論は尻つぼみとなり、
>松沢や UNIDOS が主張していた売春防止法の改廃は、まるで議論されていない。
>〈略〉
> 売春合法化など国会議員が言い出せるはずがないと思うかもしれないが、現にオラ
>ンダ、ドイツでは行われている。そして二〇〇六年、松沢は、風俗ライター廃業を宣言
>した。結局、売春する者たちとは無縁に行われた、コップの中の嵐のような虚妄の論
>争だったと言うほかあるまい。
〈略〉
> しかし偽善は私自身にもあった。私が一時期売買春否定論者だったのも、フェミニス
>トや女たちの支持を当てにしてのことでしかなかったからだ。〈略〉 もっとも、「セックス
>ワーカーを差別するな」と主張する渋谷などは、当時私が文章で勧めたように、一週間
>でも一ヵ月でも、アルバイト的に売春をすれば良かったのである。


P.117 の部分は、松沢呉一の名前を出しているだけで特に批判は書いていない。

P.203 以降の分は、本の終わりちかく、「虚妄の売買春論争」という題の項に書かれて
いるもので、「松沢が、売春防止法があるから娼婦は蔑視されるのだと論じたのを、私が
投書しておかしいと指摘した」とある。しかし、これが「松沢呉一氏の論も一刀両断」とは
思えないのだが……。どこがどうおかしいとの具体的な説明がないのに「論も一刀両断」
もないだろうというか。

当時の小谷野敦は「売買春否定論者」として松沢呉一を批判していたとのことだが、
今は売買春否定論を撤回し「売春は合法化し、しかるべき規制によって性病の広まりを
抑えるのが現実的な方向性だと思う」と書いているし (P.211)。

そもそも、渋谷知美、佐藤悟志相手と比べて、松沢呉一への関心はずいぶん低いので
はないかとも思わせるし。

つまりまあ、唐沢俊一が「松沢呉一氏の論も一刀両断」とあえて書いているのは、唐沢
俊一が松沢呉一に対して高い関心をいだいているせいではないかと思えてならないの
だが……。なにしろ、かつて松沢呉一のことを、「まったくこんな野郎と活動の分野が似
通っている、というだけで体が汚れたような気になるよ」と非難した唐沢俊一だから。

唐沢俊一と松沢呉一との素敵なやり取り (1)
唐沢俊一と松沢呉一との素敵なやり取り (2) - 唐沢俊一のトンデモ著作権 -
唐沢俊一と松沢呉一との素敵なやり取り (3)
唐沢俊一と松沢呉一との素敵なやり取り (4) - 唐沢俊一のトンデモ著作権2 -


で、今回、上に引用した「虚妄の売買春論争」の部分を入力し、あらためて読み返して、
違和感バリバリだった唐沢俊一による『日本売春史』の書評の謎がとけたような気が
した。

たとえば、以下に引用するような内容紹介の方は、『日本売春史』を読み終えた後に
見直しても、特に違和感はない。

http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4106035901/
>出版社/著者からの内容紹介
>「その昔、娼婦は聖なる職業だった」なんて大ウソ!
>「娼婦の起源は巫女」「遊女は聖なる存在だった」「遊廓は日本が誇る文化だった」
>など、これまでの売春論は、その是非を問わず、飛躍と偽善にみちた幻想の産物ば
>かりである。また、現代にも存在する売春から目を背け、過去の売春ばかりを過剰に
>賛美するのはなぜか? 古代から現代までの史料を丁寧に検証、世の妄説をただし、
>日本の性の精神史を俯瞰する力作評論。貧弱な日本の性の歴史を補強する、売春
>論の新たなスタンダード!


http://www.shinchosha.co.jp/book/603590/
>なぜ日本の「性の歴史」はかくも貧弱なのか――。「娼婦の起源は巫女」で「遊廓は
>日本が誇る文化だった」など、過去の売春を過剰に美化するのはなぜか? そして、
>現代にも当然存在する売春から目を背けるのはなぜか? 古代から現代までの史料
>を徹底的に検証、幻想だらけの世の妄説を糾し、日本の性の精神史を俯瞰する力作
>評論。


これらにも、また Amazon の読者レビューにも、唐沢俊一の書いているような煽り文句
――「『日本売春論争史』の方がピッタリ」、「著者の攻撃的な筆致にも一驚を禁じ得な
い」、「激語で論難」、「高名な研究者たち同士のやりあいにはプロレス的な興奮」、
「攻撃的になったあたりの文章はメリハリの利いた名調子」 etc. ――に相当する記述は
ない。

実は、上記のような唐沢俊一の表現を見て、読んだら疲れそうな本だと敬遠していた
部分もあったのだけど、実際読んでみても、そのような印象はなかった。たとえば、著者
が比較的感情をあらわにしていると思われる箇所でも、以下のような調子。

『日本売春史』 P.60
>「女に聖性を見るのは男の幻想」というのは、義江のみならず、フェミニスト学者が
>よく口にする言葉だが、その近年における先達が佐伯順子という「女」であることは、
>よほど都合が悪いのだろう。
> あろうことか佐伯自身が「男性作家の描く遊郭や花柳界は、とかく男性の視線から
>美化されており、身を売る女性たちの苦悩を描くことが少ない」(「遊女文学の意義」
>『毎日新聞』二〇〇四年六月二十七日)と書いている。では『遊女の文化史』は男性
>の視点で書いたのだろうか。もっとも、既に『恋愛の起源』(日本経済新聞社、二〇〇
>〇)で遊女聖性論を引っ込めた佐伯が反省してこう書いたのだろうと思っていたら、
>同じ年の石川九楊編集『文字』第五号には、佐伯の「遊女と日本史」という、『遊女の
>文化史』と主旨を同じくする講演記録が載っていたのである。ここで私は悲痛な叫びを
>あげたい。私とて、先輩である佐伯氏を執拗に批判したくはないのである。だから、
>もうやめてほしい。あるいは周囲の人々は焚きつけるのをやめてほしい。


しかし、先に引用した『日本売春史』の P.203 以降、「虚妄の売買春論争」あたりの記述
にしぼっていえば、唐沢俊一のいう「攻撃的」 (って二度も繰り返していわなくてもよいと
思うけど) とか、「この本自体がそういう論戦の火ダネではないかと思える」とかが、納得
できるような気がする。もしも、この本が全編「虚妄の売買春論争」のような調子だったら
唐沢俊一の書評にも違和感がなかっただろう。……実際はそんな恐ろしい本ではなかった
わけだが。

逆に、唐沢俊一の書評を読んで、「プロレス的な興奮」などを期待して買った読者は、
読んでみて失望しなかったのかと心配になる。

前に、「唐沢俊一以外が紹介していれば、もっと売れていた気がする『綺想迷画大全』
のエントリーでは、「唐沢俊一は、その本の最初の数十ページのみを読んで書評を書く
癖があるのではないだろうか」と書かせてもらったけど、この本の場合は、後ろの方だけ
重点的に読んだという可能性が高い。(なお、他の本でも唐沢俊一は、最後のまとめの
部分やあとがきには目を通しているなと思わせることがよくあるので、常に最初のみを
読んでいる感じというわけではない)。


それと、やはり違和感があるのが、唐沢俊一のいう「歴史の事実というものは一つだけ
ではなく」のくだり。

『日本売春史』の「まえがき」には、以下のように書かれている。

『日本売春史』 P.12
>私はこれまで、先の『江戸幻想批判』をはじめ、売春についていくつか、価値判断を
>含めたものを書いてきた。その過程で、折りに触れて売春に関する書物を読んでいる
>うちに、自分でその歴史を書いてしまおうと思ったわけだが、私は歴史学者ではない
>から、自分で新しい史料を発見することはできない。飽くまで、滝川を中心とした先学
>の史料を用いて、私なりの歴史を記述するということになる。


「新しい史料を発見」なしで、「先学の史料を用いて」ということならば、新事実の提示と
いうこともない。これまでとは違う解釈を提示し、「見方によりいく通りもの解釈が出来る」
ことを読者に学ばせることは可能でも、「事実というものは一つだけではなく」というもは
できないし、そもそもそんなことを目指している本ではないと考えるべきではないか。


また、「攻撃的な筆致」、「激語で論難」などといっしょに、書評に「著者の主張を鵜呑
(うの)みにせず、一定の距離さえ置いて読めば」などと書かれていると、著者のいって
いることは極端に過ぎるからあまり信用しないで読むのがよいと、あらかじめ警告されて
いるような気分になる。実際に読んでみると、そんな感じの本でもないのだけど。


追記: コメント欄で指摘していただいた ×性老土砂 ○性労働者の件を訂正しました。(_ _);

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Comment

訂正&追記しました。ご指摘ありがとうございました。(_ _)

しかし、「性老土砂」とは、我ながらヒド過ぎ……。
トンデモない一行知識 |  2010年01月18日(月) 01:43 |  URL |  【コメント編集】

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 |  2010年01月18日(月) 00:40 |   |  【コメント編集】

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 |  2010年01月17日(日) 12:54 |   |  【コメント編集】

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