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2009.12.30 (Wed)

他人の宮沢賢治論についてアレコレ言っている場合ではない唐沢俊一先生 (2)

『トンデモ一行知識の世界』 P.171 ~ P.172

早い話が、書店に数多くならぶ宮沢賢治研究本の中には、そのような
過剰な入れ込みの結果、すさまじいまでに独創的(好き勝手)な読み方
をしてしまっているトンデモなものが少なくないのである。
 たとえば、鳥影社という出版社から刊行された、清水正著『宮沢賢治を
解く「オツベルと象」の謎』という本がある。著者は日大芸術学部助教授
で、ドストエフスキーと宮沢賢治の研究が専門らしい。
 著者はこの本の中で、まず『オツベルと象』を仏教的テクストとして読み
解いていくという試みをしている。賢治は法華経へ熱い傾倒を示してきた
作家であるから、この分析にはさほど無理はない。ところが、著者はさら
に、作品にはユダヤ・キリスト教、グノーシス派の影響が見てとれる、と
言い出す。ここらへんから、著者の読み解きは、とても一般読者のついて
いけるものではなくなってしまうのである。
 著者がキリスト教的文脈を『オツベルと象』から読み取る理由は、菩薩
の化身として描かれている(これも著者独自の分析なのだが)白象が、
助けを求める相手がサンタマリアであることによるのだが、ここから著者
は、 「すぐに想起したのは隠れキリシタンである」と断じ、鬼塚五十一
(これまたトンデモ本研究家にとってはうれしい名前だ)の著書『戦慄の
聖母予言』(学研)から江戸時代のキリシタン殉教の模様を延々と引用し、
白象と隠れキリシタンを重ね合わせようとする。そればかりかキリシタンに
加えられたと同じ拷問がオツベルによって白象に加えられたと見るので
なければ、この話はリアリティを獲得できない、と自らの見識に陶然とな
りながら断言する。
 著者は、作中に月の使いとして登場する赤衣の童子を、実は菩薩の
仮の姿である白象の心の内なる悪魔の使いであると看破し、白象が自力
救済を果たそうとせず、この童子の力を借りて仲間の助けを呼んでしまっ
たことでこの作品は菩薩行の実践の物語として不明瞭なものになって
しまっている、と不満を言う。
 普通、自分の立てた仮説が実際の作品にうまくあてはまらないのなら、
それは仮説の方が間違っているのではないか、と考えるのが一般的だと
思うのだが、もう、この著者ほどのレベルになると、作品の方にその責め
を負わせて平然としているのである。こんなに読み込んでやっている自分
の考えに反するなんて、まったくわからん作家だ、という風に。
 「衆生済度のために我が身を犠牲にするどころか、我が身救出の手紙
を書いてしまったのだから、もはや菩薩としては弁解しようもないだろう」
(同書49ページ)
 ……そう言われてもなあ(笑)


他人の宮沢賢治論についてアレコレ言っている場合ではない唐沢俊一先生 (1)」と
同様、表題を「『銀河鉄道の夜』は宮沢賢治が霊視したものをそのまま書いた小説、
という説がある。」とする文章の一部。

で、上に引用した文章は、実は http://d.hatena.ne.jp/navix/20071009/p1 に引用
されているものとほとんど同じ、違いは「清水正」の後に「著」を入れただけだったりする。
……あちらは、『トンデモ一行知識の世界』ではなくて、『トンデモ怪書録』からの引用
だが。

前エントリーに書いた、『トンデモ怪書録』では正しく「森荘巳池氏宛書簡」だったのが
「森荘巳宛書簡」に化けてしまった件などはあるが、そういう数文字単位の相違と、
『トンデモ怪書録』にあった注釈が『トンデモ一行知識の世界』では削除されている以外
は、この 2 冊に書かれていることは本当に同じ。

しかし、『トンデモ一行知識の世界』の初出一覧では、「『ガロ』1995年9月号」が初出と
なっているのに対し、『トンデモ怪書録』の方では『小説CLUB』が初出のように書かれて
いる。

『トンデモ怪書録』
>収録した文のほとんどは、桃園書房『小説CLUB』に連載しているエッセイ、『脳天気
>本博覧狂気会』の原稿('93年5月号~'96年7月号掲載)に加筆したものである


つまり、「『笑うクスリ指』の使い回しとガセの豪快さにクスクスと」のエントリーで列挙した
ものたちと同様、ここでもたった 5 年くらいの間に、2 つの雑誌、 2 つの単行本に同一の
文章を使い回す原稿料二重取りをやっていたことになる。

まあ、「収録した文のほとんど」ということなので、雑誌は『ガロ』のみという可能性もない
ではないが、それにしたって、1996 年の『トンデモ怪書録』のわずか 2 年後、 1998 年
の『トンデモ一行知識の世界』の中でダブらせるというのは、唐沢俊一以外には、なか
なかできる所業ではないのではないかと。


そして、唐沢俊一は「すさまじいまでに独創的(好き勝手)な読み方をしてしまっている
トンデモなものが少なくない」と書いているが、実際の『宮沢賢治を解く「オツベルと象」
の謎』は入手できていないので、おいといて (←オイ)、唐沢俊一の紹介だけを読んで
いるかぎりでは、そんな「すさまじいまでに独創的」で「トンデモなもの」かどうかは、疑問
に思えてきたり。

唐沢俊一は「菩薩の化身として描かれている(これも著者独自の分析なのだが)白象」
と書いているが、「賢治は法華経へ熱い傾倒を示してきた作家である」ことから、「仏教的
テクストとして読み解いていくという試み」を肯定するのなら、白象と菩薩を関連づける
のは、さほど突飛な発想とはいえない。

「仏教の影響下、東南アジアでも白いゾウ(白象)は神聖視され」、「法華経を深く信奉
する者のために白象に乗った普賢菩薩が現れて守護する」と、法華経には説かれて
いるとのことだから。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ゾウ
>仏教の影響下、東南アジアでも白いゾウ(白象)は神聖視された。釈迦は白象の姿で
>母胎に入ったという。ゾウは普賢菩薩の乗る霊獣として描かれることが多い。


http://www.ohaka-im.com/butsuzo/butsuzo-fugenbosatsu.html
> 普賢菩薩は文殊菩薩とともに、釈迦如来の脇侍であります。(これら三体は合わせ
>て釈迦三尊とも呼ばれます。)文殊菩薩が仏の智慧を司るのに対して、普賢菩薩は
>慈悲を司ります。サンスクリット語ではサマンタバドラと言います。訳すると「普く賢い
>者」の意味であり、あらゆるところに現れ、慈悲をもって人々を救う賢者であるというこ
>とであります。
> 文殊菩薩が獅子の上に乗っている姿で描かれるのに対して、白い象に乗った姿で
>しばしば描かれます。これは『法華経』の中で、「法華経を深く信奉する者のために
>白象に乗った普賢菩薩が現れて守護する」と説かれているからです。


http://ja.wikipedia.org/wiki/普賢菩薩
>梵名のサマンタ・バドラとは「普く賢い者」の意味であり、彼が世界にあまねく現れ
>仏の慈悲と理知を顕して人々を救う賢者である事を意味する。また、女人成仏を説く
>法華経に登場することから、特に女性の信仰を集めた。
〈略〉
>独尊としては、蓮華座を乗せた六牙の白象に結跏趺坐して合掌する姿で描かれるの
>が、最も一般的である。


http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-bungaku1/operu08.htm
>「ジャータカでは仏陀あるいは菩薩の前身または化身。詩篇『北いっぱいの星ぞらに』
>の下書稿(六)裏面に「普賢菩薩--白象」という書込みもある。」(新潮文庫注)


で、『オツベルと象』の白象を「菩薩の化身」とするのも、まあアリかもしれないと思って
しまうと、唐沢俊一の必死の (?) 批判である、「この作品は菩薩行の実践の物語として
不明瞭なものになってしまっている、と不満を言う」、「それは仮説の方が間違っている
のではないか、と考えるのが一般的だと思う」、「……そう言われてもなあ(笑)」が、
だいぶ力を失うと思う。だからこその「(これも著者独自の分析なのだが)」ではないか
とも思えてきたり。

原文にある「白象はさびしくわらって」や、Wikipedia でいう「白象はオツベルを改心させる
ことができなかったことを悲しんでいたからと言われている」を考えると、「菩薩行の実践
の物語として不明瞭なものになってしまっている」などという清水正の言も、そう無茶な
ことをいっているわけではないという気がしてくるし。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/card466.html
>「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」白象はさびしくわらってそう云った。

http://ja.wikipedia.org/wiki/オツベルと象
>白象や沙羅双樹が登場することから、インド~東南アジアを舞台とした物語ということ
>がわかる。 強欲なオツベルは、白象の善意を踏みにじって殺されてしまうが、白象
>は喜ばない。 それは、白象はオツベルを改心させることができなかったことを悲しん
>でいたからと言われている。[1]
〈略〉
>1. ^ 群像日本の作家 『宮沢賢治』(小学館出版) ISBN:4-09-567012-6



それと、「賢治は法華経へ熱い傾倒を示してきた作家」であることは間違いないが、それ
をもって、「著者がキリスト教的文脈を『オツベルと象』から読み取る」こと自体を批判して
いるようなのも、ちょっとどうかと。

唐沢俊一自身も書いているように「白象が、助けを求める相手がサンタマリアである」
し、白象は作中で「サンタマリア」に呼びかけること 5 度なのだから、キリスト教的文脈
でも語りたくなるのは無理はないと思うし、賢治はキリスト教に少なくとも一定の理解は
示していて、彼とキリスト教について論じるテキスト自体は珍しいものではない。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2086838.html
> 宮澤賢治は、若くて多感な時期に、英語を学ぶために教会に通ったので、その関係
>でしょう。月との対話については、最大の親友でもあったインテリの妹が、病死してし
>まった後、天に昇った彼女と「交信」するため、わざわざサハリンまで出かけ、しかし
>「交信」できずに深く傷ついた賢治の体験と関係があるようです。(板谷栄城氏の説)


http://www2.dwc.doshisha.ac.jp/mmurase/janome/janome64.html

> 斎藤宗次郎というキリスト者も岩手県の生まれで、宮沢賢治より18才年上の人で
>す。彼は内村鑑三の愛弟子として有名な方でした。〈略〉
> 最初の出会いはどういうものであったのか、確かなことは分からないのですが、高等
>農林学校時代、友人を誘って週1回タッピング牧師の教会に通っていたという証言も
>あり、学生時代には友人たちのそれぞれの関心が共鳴し合い、キリスト教への関心
>に、つながっていたのだと思われます。ただ、賢治の年譜の15歳の12月に、「キリスト
>者・斎藤宗次郎が質物を出しに来て驚く」と書かれていますから、ずいぶん早くから、
>賢治は宗次郎のことを知っていたことはうかがわれます。
> こんど出版された斎藤宗次郎の日記を見て、賢治が最初の詩集『春と修羅』を出版
>する前のゲラを、宗次郎に見せているところが日記に書かれていて、それにはびっくり
>しました。『春と修羅』は、妹トシが亡くなったことがきっかけで書かれているのです
>が、そのゲラを、宗次郎が読んで、深く感動した感想を書いているんですね。妹のトシ
>さんは、東京の日本女子大学の家政学部、本校で言う生活科学部に入学しているの
>です。大正10年頃ですから、そんな時代に花巻から娘さんを東京の大学に行かせた
>お父さんはすごいですね。この日本女子大学の創立者、成瀬仁蔵はキリスト者ですか
>ら、仏教を熱心に信仰する家からのキリスト教的な学校への入学は、父親の英断だっ
>たんだなと思います。でもトシは、東京で結核に倒れてしまい、賢治が駆けつけて彼
>女を看病しています。その後、トシは花巻で亡くなるのですが、その頃には賢治と宗
>次郎は、親しい間柄になっていて、詩集のゲラを見せる間柄になっていたというわけ
>です。


そりゃ、いくら当時流行りだった (と記憶している) からといって、「グノーシス派」まで
いくのはどうなんだろうと思うし、本当に「隠れキリシタン」がどうのこうのと断定し、鬼塚
五十一の『戦慄の聖母予言』から「延々と引用し」ていたとしたら、ちょっとどうかと思う
けど……。

ただ、唐沢俊一は、この本を「すさまじいまでに独創的(好き勝手)な読み方をしてしまっ
ているトンデモなもの」ということにしたいあまりに、本来は批判するポイントではないこと
まで批判しているきらいがあると思う。(この本の本当にすごいところをスルーしている
可能性もあるが、それは入手できてから、ということで)。

他人の宮沢賢治論についてアレコレ言っている場合ではない唐沢俊一先生 (3)」に続く。


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テーマ : 感想 - ジャンル : 本・雑誌

00:49  |  資料編 (14) +  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

>上葉さん

どうもです。(_ _) 結局『宮沢賢治を解く「オツベルと象」の謎』の入手に挫折したまま、ずっと放置していたわけですが……。

>別に“作者の意図”についてどうこういっているのではなく、テクストと戯れて
>いるだけで、

うーん、たとえば以下の記述 (これはネット上のテキスト) を読むと、「“作者の意図”」とそれに気がつかない呑気な読者という構図を意識して書いているようにも思えます。

http://www.shimi-masa.com/archives/2004/05/4.html
> 〈試みる者〉すなわち悪魔はどのように声をかけるのか。『黒ぶだう』における
>赤狐や『オツベルと象』における赤衣の童子を想い出したらいい。子牛の〈退屈〉
>につけ込んで柵の外へと誘いだした赤狐、白象のオツベルに対する内なる憎悪
>と怒りにつけ込んで山の象に助けを求めたらいいと硯と紙を持参して甘い言葉
>でささやく赤衣の童子、彼らは等しく柔和な表情で、優しい声でささやきかける。
>〈赤衣の童子〉などは未だに白象の味方だと思っているケンジ童話の愛好者は
>五万といよう。

まあ、唐沢俊一の書いているような、「もう、この著者ほどのレベルになると、作品の方にその責め を負わせて平然としているのである。こんなに読み込んでやっている自分 の考えに反するなんて、まったくわからん作家だ、という風に」――というキャラの人でもないようには感じましたが。


>「著者の意図」

トンデモ本の定義における「著者の意図」の「著者」とは、この場合は宮沢賢治ではなく清水正氏の方になると思います。

とはいえ、「『オツベルと象』に書かれた宮沢賢治の『意図』がわかる」という自信もなしに清水正氏のいっていることをそう簡単にトンデモ扱いできるのかという問題もありますね……。


>テクストと戯れているだけで、ユダヤ教やキリスト教、グノーシスと宮沢賢治の
>テクストを反響させてみたら、一体どういった読みができるのかを試している

確かにそういうことをやりたくなる気持ちもわからないではないのが宮沢賢治の作品かなあとは思ったりもします。
トンデモない一行知識 |  2011年01月27日(木) 01:52 |  URL |  【コメント編集】

●清水正氏の著書について

 清水正氏の著書を幾つか読めばわかりますが、“伝統的”な評論をする気のない人なので、さまざまな解釈にしても、それを“正しい”ものとして提示しているわけではありません。そういう読み方をしてみたら一体どうなるだろうという提示の仕方です。この本にそう書いてあるかは記憶にありませんが、どこかで、これは評論ではなく創作であるとまで言っていたはずです。要するに、はなから「分析」などする気がないのです。
 それのどこがいけないのかを言うのは結構むずかしいと思っています。別に“作者の意図”についてどうこういっているのではなく、テクストと戯れているだけで、ユダヤ教やキリスト教、グノーシスと宮沢賢治のテクストを反響させてみたら、一体どういった読みができるのかを試している、果たしてそれはいけないことなのか、いけないのであればどういう理由でいけないのか、それを唐沢氏は言わなければならないはずです。引用された『トンデモ一行知識の世界』を見るかぎり、清水氏への批判としてはずれているというか、すれちがっているもののように思えます。
 トンデモ本とは「著者の意図とは異なる視点から楽しむことができる本」という意味だそうですが、これには、読者が「著者の意図」を正しく理解できるという前提があります。私にはこのような読者こそが「超能力者」としか思えませんが、唐沢氏には「オツベルと象」に書かれた宮沢賢治の「意図」がわかるようなので、「おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。」にどんな意味があるのか、「著者の意図」をぜひ教えてもらいたいと思います。一字不明になっているところをどう解釈するかにも興味があります。
上葉 |  2011年01月25日(火) 05:59 |  URL |  【コメント編集】

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