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2009.10.25 (Sun)

「美しい星」の美しさから目をふさいでいるみたいな唐沢俊一 (2)

『美しい星』の美しさから目をふさいでいるみたいな唐沢俊一」の続き。

唐沢俊一が、『トンデモ本の世界R』に書いた、三島由紀夫『美しい星』についての文章
について。表題は、「作家が描いたオカルト信者の心理パターン」。

『トンデモ本の世界R』 P.341 ~ P.342

作中に登場する円盤と宇宙人に関する理論は、その当時の“円盤業界”に
おける多くの理論を借用したものであり、メン・イン・ブラックを連想させる
三人の宇宙人と主人公との論争も、そのころ、世界平和問題を宇宙人と
からめて語っていたCBA(宇宙友好協会)の主張のパロディ的な性質を
有している。三島自身は、この作品に着手するまでに、円盤や宇宙人を
頭から信じ込むという状態からは一歩退いていたけれども、しかし、これは
モデル小説に近いまでに、一九六二年の作品発表時あたりの日本の空
飛ぶ円盤事情に通じていないと理解できない部分を持つ、ジャーナリス
ティックな作品なのだ。
 にも関わらず、SFですら純文学の世界に持ち込むことをタブー視する
文壇が、空飛ぶ円盤などというさらにアヤシゲなものを天下の三島由紀夫
が書いた、ということを認めたがるわけがない。前記の奥野健男による新潮
文庫の解説は、空飛ぶ円盤のようなゲテものを三島が作中に持ち込んだ
のは、そのテーマを些末な現実から超越させて核心に迫らせる手段として、
だったのだ、とコジツケている。そして、三島自身、トラジ・コミック(悲喜劇)
の味をねらったと告白しているその論争場面に“手に汗を握るような迫力が
ある”と感動し、

   ぼくは現代の小説でこれほど精神的な興奮をおぼえ、感銘を受けた
  作品を知らない(二九八ページ)

 と言い切ってしまっている。これこそトラジ・コミックそのものではないか。
 奥野の無知と偏見については、すでに一九七六年に、ジャーナリストの
中園典明が雑誌『地球ロマン』(絃映社)の『総特集・天空人嗜好』の中で
フンガイしているが、別にこの項は、純文学畑のSF軽視を糾弾するのが
目的ではない。


唐沢俊一は、「奥野の無知と偏見」と言い切ってしまっている。

「別にこの項は、純文学畑のSF軽視を糾弾するのが目的ではない」っていわれても
なあ……上に引用の記述までで、この項の 4 ページあまりを使っていて、唐沢俊一が
表題にしている「作家が描いたオカルト信者の心理パターン」については、残り 2 ページ
半の記述にとどまっているのが、微妙にトンデモないというか、奥野健男の糾弾に向ける
エネルギーのすごさを感じるというか。

さて、前のエントリーでも引用したが、奥野健男の解説には以下のように書かれている。

『美しい星』 解説 P.296
>ところが、この作品を書く一年ぐらい前から、作者は北村小松氏などに影響されたの
>か、空飛ぶ円盤について、異常なほどの興味を示し、円盤観測の会合にも参加したり
>していた。今考えると、それは『美しい星』を書くための準備であったのだろう。谷崎潤
>一郎の『春琴抄』などがその典型であるように、小説家が身魂をこめてひとつの作品
>を書くとき、他人の目からはたとえ異常に見えようとも、その世界に溶け込み夢中にな
>らなくてはならない。三島もある時期、空飛ぶ円盤に憑かれていた。その実在を心か
>ら信じこんでいるようであった。と同時に小説家の目でそういう自分や円盤マニアの生
>態を冷静に観察していたのだろう。


唐沢俊一は、上記の説明を読んでもまったく頭に入れることができなかったのか、この
ような説明ではまだまだ不十分だと主張したいのか。……唐沢俊一のことだから、前者
の可能性は決して低くないものの、このエントリーでは後者と仮定して話をしてみる。


ただし、その前に、唐沢俊一の書いていることの、おかしな部分は指摘しておきたい。

「純文学畑のSF軽視」はともかく、「SFですら純文学の世界に持ち込むことをタブー視
する文壇」というのは、唐沢俊一の脳内にのみ存在する文壇といってよいだろう。

たとえば、もし本当にSFを「純文学の世界に持ち込むことをタブー視」しているのなら、
筒井康隆の「泉鏡花文学賞受賞」、「谷崎潤一郎賞受賞」、「川端康成文学賞受賞」は
なぜ可能だったのかと。まあ唐沢俊一の定義では、『虚人たち』、 『夢の木坂分岐点』、
『ヨッパ谷への降下』といった作品は、どれもこれもSFではないのかもしれないけれど。

参考ガセビア:
筒井康隆の「人生後半」って何年から開始?


また、唐沢俊一は、まるで奥野健男が「空飛ぶ円盤のようなゲテもの」と解説に書いた
ような紹介をしているが、奥野健男は、空飛ぶ円盤のことを、「ゲテもの」とも「アヤシゲ
なもの」とも書いていない。これらは唐沢俊一自身の発した言葉でしかない。奥野健男の
表現で一番それに近いのは、下記の引用中の「いわばいかがわしいもの」だ。そして、
それは、奥野健男自身が円盤を「いかがわしいもの」と断じる意思表明ではない。

『美しい星』 解説 P.297
> さてぼくが『美しい星』を読んで大丈夫なのかと心配したのは、純文学の世界に、
>宇宙人とか、空飛ぶ円盤とか、いわばいかがわしいものを持ち込んだことについて
>である。明治以来の近代日本文学は、きわめて真面目であり、日常的であり、リアリ
>ズムしか信用しない伝統がある。この世にあらぬものが書かれているだけで、そっぽ
>を向き、信用しない風潮がある。奔放な空想、荒唐無稽なことが体質的に嫌いなので
>ある。もちろんはじめから戯画的、風刺的に、譬え話として書くのなら多分許される
>だろう。ところが作者は、大真面目な姿勢で円盤とか、宇宙人とかを小説の世界に
>持ち込んだのである。これではその上にいかに完璧な美的宇宙をつくりあげても、
>まっとうな純文学としては認められないのではないか、そういう危惧を抱いたのである。


奥野健男は気の毒なことに、唐沢俊一には「空飛ぶ円盤などというさらにアヤシゲな
ものを天下の三島由紀夫が書いた、ということを認めたがるわけがない」文壇の代表例
のような扱いをされているが、上に引用した文章だけみても、唐沢俊一の書いていること
は何か変だとわかるだろう。奥野健男は、「ところが作者は、大真面目な姿勢で円盤か、
宇宙人とかを小説の世界に持ち込んだのである」と明言している。「認めたがるわけが
ない」どころではない。

その奥野は、他人には「まっとうな純文学としては認められないのではないか」と「危惧
を抱いた」と書く一方、しかし、そのような心配は、連載が進むにつれて、「完全に忘れて
しまった」とも書いているのだ。

『美しい星』 解説 P.298
> ぼくは『美しい星』の連載が進むにつれて、この作品の世界にひきこまれ、夢中に
>なり、はじめ抱いた抵抗や不安など完全に忘れてしまった。高橋義孝氏が「最も困難
>な現実と反現実の熔接に成功している」とこの作品を評しているが、その通りであり、
>宇宙人という設定にひとつも違和感をおぼえなくなる。


そして唐沢俊一のいう「コジツケ」、つまり「空飛ぶ円盤のようなゲテものを三島が作中に
持ち込んだのは、そのテーマを些末な現実から超越させて核心に迫らせる手段として、
だったのだ」というようなことは、実際には以下のように述べられている。

『美しい星』 解説 P.298
>ぼくは現代の小説でこれほど精神的な興奮をおぼえ、感銘を受けた作品を知らない。
>特に大杉重一郎と、白鳥座第六十一番星の未知の惑星から来たという羽黒一派の宇
>宙人たちとの、人類の運命に関する論争の場面は、手に汗を握るような迫力がある。
>ぼくはドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章を思い浮かべた。
>ここで作者は核兵器という人類を滅亡させる最終兵器を自らの手でつくり出した現代
>という状況をふまえて、人類の存在の根源を問おうとしているのだ。それは地球人の
>生存と滅亡を賭けた大法廷である。この問答は、現代人に適 (ふさ) わしく、意識的に
>軽佻化され、戯画化された言葉が用いられているが、その内容は厳しく、重い。ドフト
>エフスキーの「大審問官」の問答に匹敵する人類の根源的なテーマが展開されている
>のだ。
> どうして今までこのような重要なテーマが、小説において真正面から扱われたことが
>なかったのだろう。現代の文学者なら、必ず逢着せざるを得ぬ最重要なテーマではな
>いか。だが余りに大きなテーマである故、志しながら文学者たちは、それと対決する決
>心がつかなかったのであろう。また従来のリアリズム中心の小説作法では、このよう
>な問題を表現することは困難だ。書こうとしても現代の複雑な政治、社会状況に足を
>すくわれ、泥沼の中に埋没してしまう。そこから人類の根源的なテーマを抽出すること
>ができなくなる。余りにスコラ的な現実の中にがんじがらめになり、究極のテーマを見
>失ってしまう。
> ところが三島由紀夫は、現実の泥沼をとび超え、いきなり問題の核心をつかむ画期
>的な方法を発見したのだ。それが『美しい星』の空飛ぶ円盤であり、宇宙人である。つ
>まり地球の外に、地球を動かす梃子の支点を設定したのだ。宇宙人の目により、地球
>人類の状況を大局的に観察し得る仕組を得た。人間を地球に住む人類として客観的
>に眺めることができる。そこから自由に奔放に地球人の運命を論じることができる。こ
>れはまさにコロンブスの卵と言えよう。書かれてみると、今まで誰も気付かなかったこ
>とが不思議にさえ思えるが、事実は誰もが三島由紀夫より前に行う先見の明と大胆さ
>を持ちあわせていなかったのだ。


「空飛ぶ円盤のようなゲテもの」というニュアンスは、奥野健男の解説の中にはない。

上の引用からは、唐沢俊一が批判している「三島自身、トラジ・コミック(悲喜劇)の味を
ねらったと告白しているその論争場面に“手に汗を握るような迫力がある”と感動」という
のも、奥野健男は「意識的に軽佻化され、戯画化された言葉が用いられている」と、先刻
承知ではないかというのもみてとれる。

「三島自身、トラジ・コミック(悲喜劇)の味をねらったと告白している」、そして、『トンデモ
本の世界R』 P.339 の「作者自身が、登場人物たちが自分の手にあまる問題について
“無理に背伸びをした論争”をしていることを悲喜劇的に示唆しようと意図している」という
のは、本当に三島由紀夫がそういっていたとしても (未確認です、すみません)、それを
もって、「“手に汗を握るような迫力がある”と感動」、「精神的な興奮をおぼえ、感銘を受
けた」ことを一方的に批判できるものではない。それも奥野健男のいう「意識的に軽佻化
され、戯画化された」の部分を伏せて、無知が原因の誤謬のように決めつけてすませよ
うとする姿勢は、決して褒められたものではない。

まあ、個人的には、この奥野健男の書いていることも、どうかなあと思わないでもない。
「地球の外に、地球を動かす梃子の支点を設定」、「地球人類の状況を大局的に観察し
得る仕組」、「人間を地球に住む人類として客観的に眺めることができる。そこから自由
に奔放に地球人の運命を論じる」ことを、「コロンブスの卵」であり、三島由紀夫による
「画期的な方法」であって、それ以前の「文学者たちは、それと対決する決心がつかな
かったのであろう」というのは、奥野健男の目には、SF作家たちは、「それと対決する」
「文学者たち」としてうつっていなかったのかなあ……と寂しい気がするため。

なので、唐沢俊一が、そのような線で「純文学畑のSF軽視を糾弾」していたのならば、
少なくとも心情的にはかなり同意できたはずなのだが……唐沢俊一にかかると、「些末
な現実から超越させて核心に迫らせる手段として、だったのだ、とコジツケ」ということに
されてしまっているので、寂しさはいや増すばかり。唐沢俊一に「コジツケ」と片づけられ
ている「現実の泥沼をとび超え、いきなり問題の核心をつかむ」「人類の状況を大局的に
観察し得る仕組」こそが、SFの大きな魅力のひとつと思うのに。


それから、「メン・イン・ブラックを連想させる三人の宇宙人」と唐沢俊一は書いている
が、これも少々首をひねる表現ではある。

「白鳥座第六十一番星の未知の惑星から来たという羽黒一派の宇宙人たち」三人は、
論争のために大杉重一郎宅を訪問するが、彼らは別に、黒い服、黒い帽子、黒い眼鏡を
身につけているように作中で語られているわけではない。まあ、車は黒で、三人のうちの
一人は羽黒という名で (後の二人は曽根と栗田)、黒幕 (?) の名前は黒木というけど。

そして彼らの目的は、「『未確認飛行物体や宇宙人の目撃を他言しないように』との警告
や脅迫」ではなかったし、そのようなことはいっさいおこなわなかった。下の Wikipedia で
いう「写真を撮影したり、家の近くをうろつきまわる」こともしない。自称宇宙人とはいえ、
三人とも「人間が日常生活において通常ついているはずの知識」は充分そなえている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/メン・イン・ブラック
>メン・イン・ブラック(Men in Black、MIB、黒衣の男、ブラックメン)は、UFOや宇宙人な
>どの目撃者・研究者の前に現れ、警告や脅迫を与えたりさまざまな圧力や妨害を行う
>謎の存在とされ、実在するしないに関わらず、その存在自体が一種の都市伝説や陰
>謀論となっている。
〈略〉
>外見
>報告によって詳細は異なるが、多くの証言では、未確認飛行物体や宇宙人を目撃し
>た後に、目撃者の家や職場に黒スーツ、黒いソフト帽、黒レンズのサングラスを着用
>し、キャデラックやビュイックなどの黒塗りの大型セダンに乗って2人あるいは3人組で
>訪れ、「未確認飛行物体や宇宙人の目撃を他言しないように」との警告や脅迫を行っ
>たり、脅迫のためか目撃者の家の写真を撮影したり、家の近くをうろつきまわるとされ
>る。
〈略〉
>また、「エネルギーが切れる」と言って立ち去る、機械的な直線的な歩き方しか行えな
>かったり、目撃者の家において出された飲み物のストローや、デザートのスプーンの使
>い方がわからないなど、人間が日常生活において通常ついているはずの知識が欠如
>していることが多いため、「地球人の格好をした宇宙人ではないか」と言われることも
>ある。



さて、唐沢俊一は、『美しい星』は、「一九六二年の作品発表時あたりの日本の空飛ぶ
円盤事情に通じていないと理解できない部分を持つ、ジャーナリスティックな作品」だと
主張する。

しかし、そうだとしても、唐沢俊一の「作中に登場する円盤と宇宙人に関する理論は、
その当時の“円盤業界”における多くの理論を借用」、「三人の宇宙人と主人公との論
争も、そのころ、世界平和問題を宇宙人とからめて語っていたCBA(宇宙友好協会)の
主張のパロディ的な性質を有している」という説明だけでは、何だかよくわからない。

唐沢俊一によれば、「雑誌『地球ロマン』(絃映社)の『総特集・天空人嗜好』の中で」、
「ジャーナリストの中園典明」が、「奥野の無知と偏見について」「フンガイ」していたとの
こと。ググって調べてみたら、1976 年 10 月号の『地球ロマン』では、CBA についての
詳細が語られ、「このCBAを小説の題材に取り上げたのが三島であり,その作品が
『美しい星』だった」ことが語られているらしい。そしてその号には、「【対談】日本円盤
運動の光と影」と題した、荒俣宏 (団精二名義) と堂本昭彦と中園典明との座談会が
あったと。

http://www42.atwiki.jp/aryamatakoryamata/pages/131.html
>1976年10月号(復刊No.2) 1976.10 【特集】天空人嗜好 【対談】日本円盤運動
>の光と影(×堂本昭彦×中園典明) P122


http://www.t3.rim.or.jp/~yoshimi-/nenp/197000a.html

>76.10.  書籍(雑誌)絃映社
>堂本正樹*、中園典明/対談「座談会 日本円盤運動の光と影」
>※団精二/名義、*)次号で堂本昭彦氏と訂正
>(地球ロマン 復刊2号 p.122- 134 総特集/天空人嗜好)


http://noraya51.hp.infoseek.co.jp/SakuinIcon/0601.html
> 「天空人嗜好」のなかに,“ドキュメント・CBA”と題する宇宙友好協会の1959年から
>67年までの活動史がまとめられている。(ハヨピラとかチプサンとかその他もろもろ)
>ここだけこのまま復刊しても十分に面白い内容で,曰く

> 「少なくとも一九六一年の以降CBA(中略)は単なる円盤研究団体ではなかった。
>宇宙連合のブラザーとコンタクトしている松村雄亮氏を頂点にいただくCBAこそは,
>宇宙連合の地球上における唯一絶対の代理機関であり,新時代建設の前衛であると
>いう途方もない主張が,相当数の平凡な一般市民に受け入れられていたのみならず,
>彼等を他の円盤研究団体,宗教団体,はては教育機関との抗争にかりたて,ハヨ
>ピラののピラミッド建設へと動員しえたのは何故なのか?(後略)」 
> 「地球ロマン復刊2号」p.154,1976

> という案配なのだ。
> で,このCBAを小説の題材に取り上げたのが三島であり,その作品が『美しい星』
>だった。(と,たぶん佐野洋の『赤外音楽』もそうかもしれないが)そうした理由で読ん
>だところ,これがまさにCBAそのもの。三島の小説で後にも先にも,この小説ほどあっ
>という間に読み終えてしまったものはない。
〈略〉
> で,もってきたついでに「地球ロマン」復刊2号を読んでいたところ,信じるも何も,見
>事なスタンスでテーマを扱っているものだ。「天空人嗜好」には,堂本正樹・団精二
>(荒俣宏)・中園典明の座談会「日本円盤運動の光と影」でシニカルにとらえながら,
>一方で,ここで俎上に載せられた高坂剋魅(克巳)が第三回国際古代宇宙会議の模
>様をレポートした原稿を併せて掲載。さらに山梨の精神科医らしき筆者・遠藤淳による
>「宇宙から来た男――臨床記録」,前世は天王星の指導者・鷲雄善山(彼の地では
>“ワシュー”との愛称で呼ばれ,彼のためにたくさんの讃歌が作曲されたとか)の天王
>星訪問記など,面白いの何の。


ここまでで何とか、「三人の宇宙人と主人公との論争も、そのころ、世界平和問題を宇宙
人とからめて語っていたCBA(宇宙友好協会)の主張のパロディ的な性質を有している」
――と唐沢俊一に語らせたネタ元の存在とその経緯はわかった気がする。

しかし、唐沢俊一が「日本の空飛ぶ円盤事情に通じていないと理解できない部分」が
あるといい、「奥野の無知と偏見」を非難する理由は、やはりよくわからない。「作中に
登場する円盤と宇宙人に関する理論は、その当時の“円盤業界”における多くの理論を
借用」、「論争も、そのころ、世界平和問題を宇宙人とからめて語っていたCBA(宇宙友
好協会)の主張のパロディ的な性質を有している」などとは、解説で特に言及していない
ことが、そんな非難されるような「無知と偏見」の結果だとでもいうのだろうか。

たとえそうだとしても、唐沢俊一の不親切な説明だけを見てもしょうがない――「理論を
借用」、「パロディ的な性質」というのをとことん重視して、それにふれないのはとにかく
ダメということにするなら別だが――検索では、「六〇年代のハルマゲドン -UFO教団
CBAの興亡―」のページもヒットしたので、それを改めて参照してみるテスト。

http://www.asahi-net.or.jp/~ve3m-snd/shindo/essay/cba.html
> この方面の資料としては一九七〇年代の伝説的雑誌『地球ロマン』(絃映社)に載っ
>た詳細なレポートが有名である。


このページは、唐沢俊一著『新・UFO入門』および『奇人怪人偏愛記』のパクリ元といわ
れていて、新戸雅章著『歴史を変えた偽書』 (1996 年) 所収論稿の加筆修正版である。

参考 URL:
- http://www13.atwiki.jp/tondemo/pages/52.html
- http://www13.atwiki.jp/tondemo/pages/55.html
- http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10788&pg=20070808
- http://blog.goo.ne.jp/tesla1856/e/18f00fbae97c8256df0f508db9b53ec7
- http://d.hatena.ne.jp/sfx76077/20091019/1255948187


http://www.asahi-net.or.jp/~ve3m-snd/shindo/essay/cba.html
> CBA……。その名はUFO関係者の間に古傷のように記憶されている。昔からの
>UFO研究者には、CBAか、と吐き捨てるように言う者が多い。逆に少数だが、CBA
>の活動を絶賛する声もある。反応にこれだけの差があることからも、彼らが当時の
>UFO関係者にいかに強烈なインパクトを与えたかがわかる。
> CBAの正式名称は「宇宙友好協会」(コスミック・ブラザーフッド・アソシエーション)
>といい、一九五七年に設立された日本でも最も早いUFO研究団体のひとつである。
>しかしCBAの名が記憶されているのは、単なる研究団体としてではない。大洪水に
>よる地球滅亡と宇宙連合による救済を唱える擬似宗教団体、すなわちUFO教団とし
>てである。
〈略〉
> 初期の活動は際立って過激ということはなかったが、会誌に勇ましいスローガンを
>並べたり、政財界や文化人を取り込もうとしたりと、のちの騒動を予見させるものも
>あった。彼らの活動が急激に尖鋭化するのは、一九五九年半ば頃からである。のちに
>代表となる松村雄亮が異星人とのテレパシー・コンタクトや会見などを主張し始め、
>のちの「『地軸は傾く』騒動」の下地がつくられていく。
〈略〉
>傑作なのは、CBAから会員に出されたという、のこぎりや薪割りを用意しろという指令
>である。円盤が松の木に降りる時に邪魔になるから、それで切れというのである。
> 余りの反響の大きさにさすがのCBAも腰が引けたか、六〇年三月に騒動を幕引き
>するかたちで、久保田八郎を代表に新体制が発足した。その後、会内のボード派(西
>洋コックリさんを信じる一派)との権力闘争などもあったが、最終的に松村体制に落ち
>着く。


これを読むと、確かに『美しい星』の大杉重一郎が試みていたのは、「テレパシー・コンタ
クト」といえるかもとか、ラストで円盤は林の中に着陸していたしなあとか、思ったりもする。

『美しい星』 P.286
>重一郎はひたすら白い無表情な天井に瞳を凝らした。〈略〉
> もし宇宙の最高意志が、この白い無趣味な天井を貫いて、彼を地上へ送った企ての
>隠された意味を明かしてくれるなら、彼は自分の死に確信を持てるようになるだろう。
〈略〉
> しかし何度も試みて、思わしい成果の挙らなかった彼の宇宙交信法は、果して隠さ
>れた最高意志に問いかけることができるかどうか、覚束ない。ただ一つの方法はこれ
>だけで、これに頼るほかはないというだけだ。注視をつづけている重一郎の目の底は
>熱して痛んだ。
〈略〉
> そのとき、白い天井が左右にのびのびとひらけたように重一郎は感じた。彼の心は
>一方では歓喜に博たれ、一方では至極現実的な、当たり前のことに直面している心
>地がしていた。彼は声を聞いた。声は涼しく明晰で、重一郎は一語一語を、あやまた
>ずに聴くことができた。


『美しい星』 P.294
> 円丘の叢林に身を隠し、やや斜めに着陸している銀灰色の円盤が、息づくように、
>緑いろに、又あざやかな橙いろに、かわるがわるその下辺の光りの色を変えている
>のが眺められた。


CBA の発行した文書を読めば、この手の類似点は他にもいくつか見つかる可能性は
あると思う。しかし、それは『美しい星』を鑑賞するにあたって、どれだけ重要な要素と
なる知識といえるのか――という疑問は消えない。

ただ、奥野健男による文庫本解説には、以下のようなことも書かれている。

『美しい星』 解説 P.299
> こういう発見は偶然のことではない。発見し得たのは、三島由紀夫が、人類の滅亡
>について、美の本質について、たえず心の底で反芻し、深めていたからに他ならぬ。
>二十歳という自己形成期に、原子爆弾の投下を知り、敗戦に遭遇した三島由紀夫は、
>その目で世界の崩壊、人生の終末を見たのだ。


これと、新戸雅章による以下の文章を重ね合わせると、なるほど CBA についての言及
のなさは、残念なものだったかもしれないと思えてくる。唐沢俊一が読んでいながら、
『トンデモ本の世界R』ではまったくふれていない論点が、ここにある。

http://www.asahi-net.or.jp/~ve3m-snd/shindo/essay/cba.html
> 当時、UFOに関心を寄せる文化人は質、量ともに現在をはるかに上回り、実際に活
>動に参加した者も少なくなかった。前出の平野威馬雄や北村小松、石黒敬七、徳川
>夢声、三島由紀夫、石原慎太郎、星新一、糸川英夫と並べて見ると、なかなか壮観
>である。三島由紀夫や半村良などはUFOをテーマにした小説をあらわしているし、
>『少年ケニア』の作者山川惣治のように、CBAに入会し、活動を擁護する者もいた。こ
>れも、彼らが新奇さという以上のある切実さをUFOにまつわる物語に感じたからだろう。
> たしかにCBAはUFO研究の鬼っ子だったし、実質的な被害を蒙った関係者も少なく
>なかった。一時は随伴したアダムスキー研究者たちにとっても、恥部として忘れたい
>存在なのかもしれない。しかしUFO研究の草創期には科学派とコンタクト派が協同し
>て、核兵器廃絶と恒久平和を訴える「宇宙平和宣言」を出したこともあったのである。
>両者は同じ危機感を共有していたはずである。
> こうしたことを考えると、単に切り捨てたり、アメリカのトンデモ本が生み出したUFO
>騒動として笑い飛ばすだけではすまされないのではないだろうか。
> 核時代という状況の中でその不安や危機意識を極限まで推し進め、あげく自己解
>体した団体、それがCBAだった。ここまで言うと過大評価かもしれないが、UFO思想
>やUFO運動という範疇で考えれば、これほど危険で、魅力的な存在もないのである。


(多分、続く)

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Comment

>yonoさん
どうもです。(_ _)

>じゃあ唐沢さんSF知ってるのかと言えば否なんですよね…

そうなんですよね……詳しい詳しくないとかいう以前に、たまに (あくまでたまに) 唐沢俊一が SF の話をすると、何か違和感バリバリなことが多いのですわ。本当にこの人、この作家の本を読んで語っているのか、みたいな。

>「そもそもジャンル分けの意味あるのか?」「純文学てなに?」
>みたいな根源的な問題

う……、これはキツいかも。何か「論争」になりやすいネタという感じで。

http://ja.wikipedia.org/wiki/純文学論争
>1961年9月の「朝日新聞」に、平野謙が、雑誌『群像』創刊十五周年に
>寄せて小文を掲載し、中間小説の優れたもの(松本清張、水上勉らの
>社会派推理小説など)が台頭し、純文学という概念は歴史的なものに
>過ぎない、と述べたことから始まったとされているもので、まず伊藤整が
>これに反応し、高見順が激しく平野を批判した。しかし福田恒存によれ
>ば、これはその一月に大岡昇平が井上靖の「蒼き狼」を批判した時から
>始まっていたもので、大岡はついで、松本清張、水上勉らの中間小説を
>批評家が褒めすぎることに矛先を向けており、当時外遊中だった伊藤
>が詳しい事情を知らずに平野の文章に衝撃を受けたものとされている。
>しかし、この当時、純文学といえば、まず私小説だと思われており、
>高見の論も私小説擁護の趣があって、大岡の「花影」が、私小説であり
>ながら肝心なことを書いていないと批判していた。

で、本題よりも喧嘩としての盛り上がりに目を奪われて終わったりとか。^_^;


『美しい星』については、一応
http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-entry-273.html
までは書いたけれど、この後どうするかは迷っているところです。

唐沢俊一が論拠みたいにしている三島由紀夫のエッセイとか、「ジャーナリストの中園典明」が、「奥野の無知と偏見について」「フンガイ」していたという『地球ロマン』の内容までは全然チェックしていないので。まともに要約し紹介しているとも考えにくいんですよね……。

トンデモない一行知識 |  2009年10月27日(火) 01:33 |  URL |  【コメント編集】

>純文学畑のSF軽視を糾弾

じゃあ唐沢さんSF知ってるのかと言えば否なんですよね…

奥野さんの文章含めて突き詰めると「そもそもジャンル分けの意味あるのか?」「純文学てなに?」みたいな根源的な問題が出て来るんですが、深く考えなかったんだろうなあ…

後編楽しみです(コメみて中編だと気付きました(~_~;))
yono |  2009年10月25日(日) 16:42 |  URL |  【コメント編集】

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