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2009.10.17 (Sat)

女王を王女と間違えるとは……恐れ入谷のイリザベスかも

ときどきは江戸の鹿野武左衛門のことも思い出してあげてください」に引用した文の
あるのと同じページと左隣のページより。

『史上最強のムダ知識』 P.18 (表題)

「英国王女イリザベス傳」というタイトルの古典落語が存在する。


×英国王女イリザベス傳 ○英国女王イリザベス伝

『史上最強のムダ知識』 P.19

 圓朝の創作落語の中で、最も奇妙な作品が、この『英国王女イリザベス
傳』。エリザベス女王の位を狙う陰謀を、日本のお家騒動にあてはめたも
のだ。
 が、この話、舞台・風俗は江戸時代だが、人名や地名などは、イギリス
のままになっている。故に、主人公の貴族の娘エミーが家を抜け出し、女
義太夫語りの一座にまぎれこむという、ケッタイな和洋折衷になる。中で
も変てこなのは、許嫁の家来が、江戸時代の風俗そのままに、三味線を
かついで「小間物屋」に化けるシーンだ。
 さすがにこれは珍作だと思ったか、圓朝はこの話を高座にかけなかった。


×英国王女イリザベス傳 ○英国女王イリザベス伝

自分でも「エリザベス女王の位を狙う陰謀」とか書いているくせに、何で「英国王女イリザ
ベス傳」と、女王を王女に変換してしまっているのだろう。それも 2 箇所とも。

そして、この『英国女王イリザベス伝』の「舞台・風俗は江戸時代だが、人名や地名など
は、イギリスのままになっている」のは、いくつか翻案ものも手がけていた三遊亭圓朝
が、「翻案している途中の草稿段階のもの」ともいうのだから、「ケッタイな和洋折衷に
なる」とか、「さすがにこれは珍作だと思ったか」とかいう唐沢俊一の言い草は、公平さ
を欠くものであり、何か無理に貶して面白がっているふりをしているだけではないかとも
思う。

http://homepage3.nifty.com/nadokoro/kogai/jyoouden.htm
>-えいこくじょおういりざべすでん-
> 雑誌に発表された圓朝の遺稿.スコット卿の「ケニルワースの城」が原作.長編の原
>作を翻案している途中の草稿段階のもの.そのため,読んでも細部には理解できない
>記述もある.例えば,"みなみな笑う。武士らしく歩き、三人武士になる".地名が日本
>に置き換えられていないため,英国を舞台にした唯一の圓朝ものとも言える.


http://5inkyo.net/hyakunen/encyo_zensyu.html
>圓朝全集収録演目(CAB)
>三遊亭円朝全集(角川書店版 昭和50年発行)に収録されている演目
〈略〉
>第6巻 翻案物
〈略〉
>英国孝子ジョージ・スミスの伝 えいこくこうしじょーじすみすのでん
> 東京日々新聞社長・劇作家の福地桜痴から聞いた話を翻案したものと思われる。
>英国女王イリザベス伝 えいこくじょおういりざべすでん
> 伊香保温泉で避暑中に書かれ、草稿のまま残されていたものとされる。


http://5inkyo.net/hyakunen/encyo_nenpu.html
>1885 明治18 〈略〉 夏 「英国女王イリザベス伝」起稿

http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2572.html
> さいごの「イリザベス伝」は、題名からもすぐわかるように、もっとも直訳臭のつよい
>もので、草稿のまま残っているだけ。口演されたことはない。教会が寺になり、牧師が
>住職になり、小間物屋がその寺にもぐりこんで毒消丸で女王を救ったり、という日本仕
>立てのくふうは随所にあるが、人名とはイリザベスであり、リイストル公であり、ウェラ
>ンドである。口演されることがなかったのは、たぶん、そんな意味での消化不充分、と
>いう理由によるのではないか、と思われる。



それと、地味に気になったのは、「中でも変てこなのは、許嫁の家来が、江戸時代の
風俗そのままに、三味線をかついで『小間物屋』に化けるシーンだ」のところ。江戸時代
の小間物屋って、「三味線をかついで」いるものだっけ……。

小間物屋は落語や時代劇によく登場するが、売るのは「日用品・化粧品・装身具・袋物・
飾り紐(ひも)など」。行商の小間物屋が、ふろしき包みや木の箱を背負って歩く場面は、
テレビや小説の挿絵、漫画などでよく見かけるが、「三味線をかついで」いる姿は、見た
覚えがない。ただでさえ荷物が多いところに、売りものではなくかさもはる三味線を持ち
歩いたりするものだろうかという疑問もわく。でも、唐沢俊一は自信ありげに「江戸時代
の風俗そのままに」とか書いている。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1210237712?fr=rcmd_chie_detail
>よく、落語に出てくるのですが・・・・・・。
> 小間物屋?(こまものや)っていう商売はどんな商売ですか??
〈略〉
>【小間物屋】
>今で言えば、日用品・化粧品・装身具・袋物・飾り紐(ひも)などを売る店です。

>小間物屋というのは昔、化粧道具や小刀などこまごました物を扱っていた店のこと。
>とくに白粉やかんざしなど女性の化粧品関係が多かった。その小間物を大きな包みに
>入れて背負って売り歩くのが「背負い小間物屋」(しょいこまものや)といいます、


http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=こまものや&dtype=0&stype=1&dname=0ss
>こまものや04 【小間物屋】
>日用品・化粧品・装身具・袋物・飾り紐(ひも)などを売る店。


http://park5.wakwak.com/~wrc-kusa/komamonoyaseidan.htm
>三遊亭圓生音源データ
>小間物屋政談-1
〈略〉
>えー、ェッ、「小間物屋政談」と言う、お噺でございますが小間物と申し上げても、今
>お若い方はお解りがございません何をいったい、商売をする。これはァ御婦人の、
>主にお使いになる物でございまして、白粉紅櫛口蓋、簪、その他まァ、こう言う物が、
>欲しいとおっしゃるてぇと、向こうで持って来てくれるというもちろん、店で商ったうちも
>ございますがたいていは、背負小間物と言いまして、荷をこう背負って歩くんですが、
>まァ流行物なぞがあると、(白湯を啜る)とんだ儲けがあると言うこらァまァ何の商売で
>も当たり前でこざいますが。


江戸または圓朝の生きていた明治時代には、小間物屋が三味線をもつ姿が一般的
だったのかと思って画像を捜してもみたが、そういうこともないようだし。

http://www.ibarakiken.or.jp/harmonyhall/hubutushi/hubutu1.htm
>11)小間物屋 大きな荷物を背負って「はい、小間物屋でございます。ちょっと見て
>やって下さい。」などと言いながら、返事をする暇もなく、上がり口に荷物を下ろして、
>裁縫用品、化粧品、櫛などを取り出すのが小間物屋でした。


http://www.geocities.jp/koyanagimeijin/edojidai9.html
>振り分け荷物が写っているから、人物は小間物商か薬の行商だろう。

http://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/2f6e309d33f49a9a9881bbfa1380c24c
>写真は2006-8-12千葉県佐倉市にある歴史博物館の展示の写真である。
>千駄櫃(小間物を入れる引き出しが1000あったのでこのような名前がついている)
>このころの商人はほとんどが行商人でした。
>遠隔地行商人は、千駄櫃に商品を入れて商売をしています。



ただまあ、以下に引用するような話なら見つかった。

http://www.thu.ac.jp/warai/popup/rensai15.html
>紅勘=おかしな芸の題名であるが人の名から出ている。浅草の小間物屋の紅屋勘兵
>衛が遊興に変装する芸をもっていたという。三味線でも胴は味噌漉し、棹は青竹、撥
>は杓子、帯に小さな太鼓と鉦をはさみ襟に笛をさして、一人で三曲の芸をして浅草や
>吉原を浮かれ歩いたという奇人であったという。また舞踊劇のこともそう呼ぶ。


これだとすると、唐沢俊一のいう「三味線をかついで『小間物屋』に化ける」というのは、
ウェランド――唐沢俊一は「許嫁の家来」とまぎらわしい書き方をしているが、彼はエミー
の許嫁であるツレスリンの元家来――の化けた小間物屋が、紅屋勘兵衛を意識した姿
だったということなのだろう。

http://homepage3.nifty.com/nadokoro/kogai/jyoouden.htm
>ウェランド,小間物屋に化けキミナルハウスに潜入-エミー殺害計画を腰元のゼネッ
>トに知らせ,毒消しを渡す
〈略〉
>ウェランド うぇらんど ツレスリンの旧家来.ソッセックス公に処方.キミナルハウス
>に潜入し,エミーを城内へ連れこむ.
>ツレスリン つれすりん エミーの許婚者.城内に侵入,リース公と決闘.


ちなみに、この小間物屋の紅屋勘兵衛から、「長唄で流し歩いた」りする芸人のことを、
「紅勘」と呼ぶようにもなったらしい。ただし、小間物屋で三味線名人の紅屋勘兵衛が
本当に実在したかどうかは、はっきりわかっていない模様 (←追記を参照のこと)。

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/negotoya/gosyu12.html
>蒲団の不潔なるを恐れて外泊するものは亦罰金を取る約束なれば一同帰り来つて
>こゝに一夜を明し翌朝朝飯をすませし頃折好く表に紅勘(べにかん 長唄で流し歩い
>た人物)が三味線弾いて来りしを呼上げ祝儀を奮発していろいろの芸をやらせ、宿屋
>を引き上げて一同竹屋の渡しを渡り、桜のわくら葉散りかゝる墨堤を歩みて百花園に
>休み木母寺の植半に到りて酒を酌みつゝ句会を催したり。(「桑中喜語」 永井荷風)


http://www.aozora.gr.jp/cards/000270/files/45964_21737.html
>幕末維新懐古談
>名高かった店などの印象
>高村光雲
〈略〉
> 諏訪町では向って左が諏訪神社、師匠東雲の店は社の筋向うの右側にあったので
>す。町の中ほどには紅勘(べにかん)(小間物屋)があってこれも有名でした。紅勘で
>思い出すが、その頃、鉦(かね)と三味線(さみせん)で長唄(ながうた)を歌って流して
>歩いた紅勘というものがあって評判でありました。これが小間物屋の紅勘と何か関係
>あるように噂(うわさ)されたが、実際は全く何んの因縁もなかったものといいます。


http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0405.html
>紅勘は俗称で紅屋勘兵衛といわれた三味線名人だが、出自ははっきりしない。


おまけ:
http://www.trans-usa.com/mike/oldnanda43.html
> 21歳の時、大きな寄席に出してもらえるってんで、喜び勇んで師匠の圓生に中入り
>前の援助出演をお願えしたところ、圓生は初日から毎晩、圓朝が演ずることにしてい
>た演目を先に演じてしまったんです。・・ひでえ師匠もあったもんで。
> それからの圓朝は、師匠が知らない噺を自分で創ることにしたんです。ここからが自
>作自演の噺家・三遊亭圓朝のはじまりだったんですな。
> 自作自演の怪談噺や、実録人情噺で独自の境地を開き、海外文学作品の翻案にも
>取り組みました。『英国女王イリザベス伝』なんてものもございます。
> そうした怪談噺や人情噺は、生まれて間もない日本語速記術によって、速記本に仕
>立てられて、新聞に連載されるなどして人気を博したもんです。もちろん今の世にも
>残っております。
> これが坪内逍遥や二葉亭四迷らに影響を与えて、文芸の言文一致が頭をもたげる
>ことを促したてんですから、てえしたもんです。



追記: コメント欄で話題の (書き込んでくださった方々に感謝します)、篠田鉱造著『明治
百話 (上)』の記述は以下の通り。

『明治百話 (上)』 P.40
> 明治の思出噺

> 立派な若旦那紅勘
> 古い御方は御承知の訳ですが、知ってること、思出したこと、取交ぜてお話して見ま
>しょう。枯れ木も山の賑やかしに。浅草駒形の紅勘、これは御承知の方が多いに相違
>ありませんが、アノ人が「紅勘」という小間物問屋の子息で、芸に凝り固まって、立派
>な若旦那をヘチャクチャにして、大道芸人になり下ってしまったんですが、本人はアレ
>が風流で、浮世を茶気に暮して、ノホホンでいた訳ですが、大家の若旦那じゃアああ
>は名が売れ、後世までも言い伝えられません。すべて自分の工夫で、三味線が竹棹
>で、胴が酒の升でした。シャクシが撥です。全く江戸気分に出来上がっていましたよ。
>紅勘の店が潰れても、どこにどうなって、どんな風だったか、知る人はありませんが、
>「紅勘」のあの扮装、あの江戸ッ子たるところは、今日まで伝って残っています。今後
>はイザ知らず、これまでは、アノ浅黄の石持、緋縮緬の襦袢、黒の投頭巾に、タッツ
>ケ袴、曲弾自由で踊った紅勘を知らないものはない。大芝翫が舞台で紅勘を演りたい
>とあって、お師匠役に呼ばれ、こしらえ万端直伝でした。あの名人芝翫に踊って貰った
>だけでも冥加なものでした。アノ時分は、世の中が長閑でしたからなア。


他の資料との兼ね合いもあるが、以下のように判断してよいだろうか。

・「小間物問屋の子息」というふれこみの、紅勘という大道芸人がいて、三味線を模した
 竹の棹に酒の升の胴 (胴は味噌漉しとの説もある) の楽器もどきを、杓子の撥でひい
 ていた。

・紅勘の扮装は江戸時代風のものだったが、紅勘の活躍していたのは明治時代。
 舞台で「紅勘」を踊りたいという大芝翫の求めにおうじて、「お師匠役に呼ばれ」た
 こともある。

・明治時代に紅勘という大道芸人が実在し活躍したことは、ほぼ確実とみてよいだろう
 が、本当に「小間物問屋の子息」かどうかは謎として残る。(『明治百話 (上)』でも、
 「紅勘の店が潰れても、どこにどうなって、どんな風だったか、知る人はありません」
 となっているし……)。

・「紅勘」が実在したか、本当に「小間物問屋の子息」だったかどうかは別にして、唐沢
 俊一の書いている「江戸時代の風俗そのままに、三味線をかついで『小間物屋』」と
 いうのはガセに分類してよいと思われる。

 「紅勘」と関係ない普通の江戸時代の小間物屋は、三味線をかついで歩き回ったり
 しなかったし、大道芸人の「紅勘」の方は、江戸時代ではなく明治時代の「風俗」に
 分類されるべきもののため。



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Comment

>M.Sさん
やまださんの書き込みを受けて、『明治百話 (上)』は少し前に入手していたのですが、反映をサボっていました。(_ _);
今回、追記してみましたので、よろしくです。

明治時代に「紅勘」という大道芸人は実在していたとみてよいだろう、ただし「小間物屋で三味線名人の紅屋勘兵衛が 本当に実在した」かどうかは、やはり不明――というスタンスで書いています。「小間物屋」というのが本当なのか、プロレスでいうギミックみたいなものかは、わからないかなあ、と思ったため。
トンデモない一行知識 |  2009年11月11日(水) 23:18 |  URL |  【コメント編集】

私も、岩波版の「明治百話(上・下)」(ちなみに、同じ著者の
「幕末百話」「女百話」も持っています)で、「紅勘」のことを知り、
検索してこのサイトにたどり着きました。

「明治百話」の聴き手、篠田鉱造は、自ら「実話主義」を標榜して
います。そこまでの人が、話をでっち上げるとは考えにくい。
第一、でっち上げたところで何の利益にもなりません、「百話」の
中の一話の、そのまた中の一エピソードですから。

「紅勘」は実在した、と思っています。出揚の扇夫と同様に。
(詳しくは、明治百話・上巻p119を参照ください)
M.S. |  2009年11月11日(水) 21:14 |  URL |  【コメント編集】

>やまださん
かさねがさねありがとうございます。(_ _)

>わざわざ明治期の聞き取りを選別しているのですから、大道芸人の
>「紅勘」の活躍期は、明治期なのだと思います。

本文に引用した
http://www.thu.ac.jp/warai/popup/rensai15.html
を読み直したら、紅勘は江戸時代とは書いていなかったですね。

唐沢俊一の書いた「江戸時代の...そのままに」 (デマ?) に引っかかってしまったという話かも。


>大芝翫(四代目中村芝翫 天保2年 - 明治32年)が、紅勘の芸を
>舞台でやりたいと希望して、紅勘本人に指導を受けて踊ったことが
>ある……というものです。

なぜ芝翫が……と思ったら、四代目中村芝翫は女形専門ではなかく、女形の名跡となったのは五代目以降だったのですね。不勉強でしりませんでした。^_^;

http://ja.wikipedia.org/wiki/%e4%b8%ad%e6%9d%91%e8%8a%9d%e7%bf%ab_(4%e4%bb%a3%e7%9b%ae)
>立役・実悪・女形。
トンデモない一行知識 |  2009年10月18日(日) 18:29 |  URL |  【コメント編集】

篠田鉱造は報知新聞の記者で、同紙上に書いた「幕末百話」が好評で、姉妹編として出したのが「明治百話」とあります。
 わざわざ明治期の聞き取りを選別しているのですから、大道芸人の「紅勘」の活躍期は、明治期なのだと思います。
(残念ながら、篠田の聞き取りは、何時頃、誰から聞いたのかが書かれていないので、詳細は判りません。)

内容としては、浅草駒形の有名な小間物屋「紅勘」の息子が、大道芸人となって家を潰したが、芸としては立派な物で、大評判となり、大芝翫(四代目中村芝翫 天保2年 - 明治32年)が、紅勘の芸を舞台でやりたいと希望して、紅勘本人に指導を受けて踊ったことがある……というものです。
(大芝翫の活躍期も、幕末~明治中期ですね)

高村光雲は、小間物屋の紅勘と大道芸人は無関係らしいとありますが、篠田の聞き取りでは、はっきりと若旦那だったと書かれています。

また、明治の文人・成島柳北(朝野新聞社長)が、明治十一年に「紅勘の賛」というのを書いています。
http://home.b-star.jp/~foresta/1/narushima/benikan.html
のサイトで読めます。ただし、こちらのサイトの方は明治の大道芸人「紅勘」をご存知ないようです。)

ここでは、「女子供は、紅勘の家も名の由来も知らない」というような一文がありますので、
明治十一年には、すでに小間物屋の「紅勘」は潰れていて、女子供はもう名の由来も判らなくなっているが、芸人の紅勘は健在だったのだと思います。
やまだ |  2009年10月18日(日) 13:55 |  URL |  【コメント編集】

>やまださん
>篠田鉱造の「明治百話」に紅勘についての記述があります。

情報ありがとうございます。(_ _)
これは江戸時代ではなく明治時代に、紅勘という固有名詞 (?) の芸人が実在していたということでしょうか。

# まあ、自分で本を入手し次第、何かわかったら書くつもりではいます。

トンデモない一行知識 |  2009年10月18日(日) 12:01 |  URL |  【コメント編集】

篠田鉱造の「明治百話」に紅勘についての記述があります。
(岩波文庫の上巻の四十頁)
これは明治に新聞記者だった著者が、当時の聞き取りをまとめたものですので、
少なくとも、紅勘という大道芸人は実在したのだと思います。
やまだ |  2009年10月18日(日) 06:17 |  URL |  【コメント編集】

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