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2009.02.15 (Sun)

結局何歳のときに白衣に黒のブリーフでボディビルしてたんですか唐沢俊一先生

『奇人怪人偏愛記』 P.17

それから東京の阿佐ヶ谷で弟と二人暮らしをしていた時期に住んでいた
住居というのが、これまた一般の住居とはかなりかけ離れたものだった。
〈略〉
われわれがここを大変気に入っていたのは、家の隣は銭湯、路地の出た
ところが弁当屋という独身男性の暮らしには至便きわまりないところで、
おまけに大家が不動産と喧嘩して手を切ってしまったため、長年の間、
家賃が一回も上がらないという理由があったからであった。


『奇人怪人偏愛記』 P.28

上京して学生をしていた頃からしばらくの間、弟と一緒に阿佐ヶ谷に住ん
でいた。私も弟もここが気に入り、通算で五年以上も住み着いてしまった。


自分を捜して見失う?」の続きのようなもの。『奇人怪人偏愛記』に書いてあることを
読むと、唐沢俊一の阿佐ヶ谷の下宿、そして東京での大学生活というのが、ますます
わからなくなる。

唐沢俊一まとめ wiki もあわせて参照のことなんだけど、弟の唐沢なをきは 3 歳下で、
唐沢俊一の浪人時代 1 年を差し引くと、唐沢俊一は東京に出てきた最初の 2 年の間
は、一人暮らししていたことになるはず。

http://ja.wikipedia.org/wiki/唐沢俊一
>唐沢 俊一(からさわ しゅんいち、1958年5月22日 - )は、日本のカルト物件評論家、
>コラムニスト、ラジオパーソナリティ。朝日新聞書評委員。


http://ja.wikipedia.org/wiki/唐沢なをき
>唐沢 なをき(からさわ なをき、男性、1961年10月21日 - )は北海道札幌市出身の
>漫画家。
〈略〉
>高校時代に『宇宙戦艦ヤマト』に始まるアニメブームの洗礼を受け、兄に誘われて同
>人誌活動を始める。卒業後は多摩美術大学付属の専門学校に入学するために上京。


元から唐沢俊一の住んでいたところに弟のなをきも同居するようになったのか、弟の
上京を機に同じ阿佐ヶ谷の別の下宿から引っ越したのかは、本にははっきりとは記述
されてはいない。

前者だとすれば、最初の 2 年間はよほど広さに余裕があったのか、それとも残りの
3 年間以上は狭いと嘆きつつ暮らしていたのか。

後者だとすると、『奇人怪人偏愛記』には書かれていない、どこか別の阿佐ヶ谷の下宿
が唐沢俊一が最初に一人暮らししたところで、『ぴあ』でヤマト・ガンダム論争などをして
いたのはそこだということになる。

そして弟のなをきが「多摩美術大学付属の専門学校」に通っていた 2 年 (たぶん) を
過ぎて、その後の 3 年間も同居したということでないと「通算で五年以上も住み着いて」
にはならない。

http://journal.mycom.co.jp/articles/2008/08/06/karasawa/001.html
>「多摩美術大学の付属の専門学校のほうに進んだんですけど、そのために東京に
>やって来たんですね。東京の暮らしというのが、またこれが田舎の高校生には刺激的
>で(笑)。そのころまだ、ビデオとかそういうのがない時代ですから、映画の二番館、三
>番館巡りですよ。札幌にはあまりありませんでしたから、名画座の類は。あとは神保
>町の古書店めぐり。すごくエキサイティングで、あれよあれよという間に、1年、2年経っ
>てしまって(笑)。まあ、そういうのを経て、そろそろちゃんとマンガ家になりたいな、とい
>うのはあったんですね。それで、やっと描き始めたわけですよ」


この弟と同居の下宿は、「家の隣は銭湯」を利点としてあげていることから判断するに
風呂なし下宿で、そこにずっと住んでいたというのも大変だったろうにと同情はする。
唐沢俊一の年代では、学生時代には風呂なしの下宿住まいも珍しくないだろうが、
卒業してからもずっとそのままというのはちょっと珍しいのではないか。就職を機に少し
マシなところに引っ越したり、社員寮に入ったりする人が多かっただろうから。

……とか、書いたのはよいけどオチがないなと放置していたら、唐沢俊一検証blogさん
のところの「最高の時をともに過ごし、最悪のものが残される。」のエントリーに、下記の
ような年譜が (このエントリーは唐沢俊一は青学を本当に卒業したのかという話も含んで
いるので必見)。

http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/20090214/1234637750
>1980年 唐沢なをき、多摩美大の付属の専門学校に入学。
>1980年or81年 唐沢俊一、父親に後を継ぐように言われ、仙台の東北薬科大学へ
>行くことにする。(※1)
>1980年12月~1981年7月 唐沢俊一、「ぴあ」の「ガンダム論争」に参加。(※2)
>1981年~ 唐沢俊一、イッセー尾形の舞台を観て衝撃を受ける。長文の感想を送り、
>そのままスタッフになるが、前説で客を怒らせたことをきっかけにスタッフを辞める。
>(※3)
>(1982年3月 唐沢俊一、青山学院大学文学部を卒業?)
>(1982年4月 唐沢俊一、東北薬科大学に入学?)
>1982年~ 唐沢なをき、「少年サンデー」に何度か原稿を持ち込み、弘兼憲史のアシ
>スタントになる。
>1982年~ 唐沢俊一、仙台で引きこもり同様の学生生活を1年間送った後、札幌に
>帰る。

>(※1 唐沢俊一は「弟が漫画家になると言い出して」と言っているが、仮にそうだと
>すると唐沢弟が漫画家になることを決めた時期と持ち込みを始めた時期にズレが生じ
>るため、本当かどうか疑わしい)
>(※2 「ぴあ」の投稿欄から当時の唐沢俊一の住所が東京都内だったことが確認できる)
>(※3 「日経ネット」の記事で唐沢は、「ちょうど仙台の大学に通っていた頃、イッセー
>尾形さんのところの仕事をしていた」と語り、『20世紀少年白書』では札幌に戻った後
>もイッセー尾形の手伝いをしていたと語っている』)


↑これのおかげで、弟の唐沢なをきの東京生活は、時系列的に非常にわかりやすくなっ
た。兄の唐沢俊一の方は……まだ謎が多いけど。

ボディビルで精神崩壊したのは三島由紀夫の方じゃない」にも以前引用したが、札幌
引きこもり時代については、『奇人怪人偏愛記』にある程度詳しく書かれている。

『奇人怪人偏愛記』 P.44 ~ P.45

 二十代後半の頃、それまでの文弱におぼれた怠惰な生活(演劇関係
のプロデュースとか、文筆の徒としての活動とか)に一時見切りをつけて、
田舎に引っ込み、真面目事務員生活をしばらく続けたことがあった。白壁
に囲まれた部屋にパソコンの端末と資料保管用のキャビネット、それに
ロッカーがあるきりの寒々しい部屋で、朝八時から夕方六時までここに
一人で詰め、せっせと事務仕事をしていたのだが、このとき、どういうもの
か無性に肉体を鍛錬したい、という欲望が湧いた。その部屋にダンベル、
エキスパンダー、グリップなどを運び入れ、空き時間を作ってはせっせと
鍛錬にはげんでいた。〈略〉
さすがにそのあたりになってくると、自分の意識が変調を来していること
が自分でもわかるようになった。都落ちして落魄となっている自分の自意
識を、どこか別の部分で補填しようとする気持ちがわれ知らず働いて、
ガラにもない肉体鍛錬に自分を走らせたのだろうか。気味が悪くなり、
あわてて再度上京し、以前からつきあいのあった出版社に行って、なにか
仕事をくれるように頼んだ。一九八八年頃のことである。幸い、出版社は
まだバブル末期の景気のよさを残しており、すぐに週刊誌連載の仕事が
とれて、再び元の惰弱なモノカキ生活に戻れたのは幸運であった。


で、『奇人怪人偏愛記』 P.21 によると、「一時東京をしくじって」実家に戻っていたのは
2 年間。下↓の「その家」とは、北海道の実家のこと。

私がその家に住んでいたのは前記のとおり、小学校四年生から十九歳の
予備校生の頃までの十年間と、その後一時東京をしくじって実家に戻って
いた二年間の、約十二年間である。モノカキを志して東京に出ることを目指
したのが十三歳の中学一年のことだから、それから十九までの七年間と
実家に戻っていた二年間の計九年間、ずっと私はその家を、「いつかは
オン出てやる家」「ここを脱出しないと自分はダメになる家」「オレをこんな
田舎に縛りつけている家」と認識し続けていた。


つまり、唐沢俊一が札幌の実家で白衣に黒のブリーフでボディビルをしていた事務員
時代は 1986 年から 1988 年のあたりということになる。

または、『奇人怪人偏愛記』に唐沢俊一の書いた、「二年間」、「二十代後半の頃」、
「一九八八年」、「バブル末期の景気のよさ」というのは、すべて嘘か記憶違いかと
いうことにするか……。

何だか年表を作るなどの準備をロクにしないまま書き始められたフィクションを読んで
いるような気分になってくる。まあ、そういう話の年表作成にトライするというのも、
ある意味楽しい作業ではあるけど。『奇人怪人偏愛記』というのは、唐沢俊一の書いた
一種の私小説じゃないかという気もしているし。

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17:03  |  資料編 (14) +  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

●サバ読んでました

ああ、コーラを飲んで体が動くようになったので、近所の定食屋に駆け込んで――というときのことですね<ご飯とサツマ揚げと野菜の味噌汁。
サバ缶とヨーグルトよりは栄養のバランスはよさそうですが、絶対量が足りなかったのか、何か別の原因で貧血でも起こしたのか……。

>一方、一日にサバ缶一缶とヨーグルト、これだけの食事で“鍛錬”を数ヶ月(半年?)続け
>たら、マッチョになる前にぶっ倒れるはず。

あはは、こちらの方は、実家で出してもらっていた食事に加えて、サバ缶とヨーグルトをとっていたというように、親切に脳内補完してあげていました。でも、唐沢俊一の文章は、確かに「食事は一日サバ缶一個」で「後はヨーグルト」となっていますね……なんだか、骨皮筋右衛門という単語が脳裏に浮かんだりします。
トンデモない一行知識 |  2009年02月25日(水) 00:34 |  URL |  【コメント編集】

●サバ言うな

『奇人変人偏愛記』 P.44

>その部屋にダンベル、エキスパンダー、グリップなどを運び入れ、空き時間を作ってはせっせと鍛錬にはげんでいた。食事は一日サバ缶一個(これは高タンパクで、下手なプロテインよりずっと筋肉を作るのに効果的である。第一安い)、後はヨーグルト。
 数ヶ月そういった生活を続けた結果、腹筋に段々がつき、肩が膨張してきて、といった肉体的な変化の他に、精神的な変化がぐんと出てきたことに自分でも驚いた。

『トンデモ創世記 2000』 P. 46

>ご飯を炊いて、近所の総菜屋さんで買ってきたサツマ揚げをおかずにしていた。四角い平べったい形をした利休揚げってやつで、あれが一番安かった。どこかの学校給食か社員食堂の残りなんでしょうね。それを十枚くらい買ってきて、一日一枚ずつそれを焼くわけですよ。近くの八百屋からはクズ野菜をもらってきて、それを細かく切って味噌に漬け込んでおいてお湯で溶けば味噌汁になるとか。そんなことを半年やってたら栄養失調になったんですよ。
                   (略)
>たぶん、低血糖になったんでしょうね。

 おかしな話だと思いませんか。ご飯とサツマ揚げと野菜の味噌汁。粗食ではあるが、栄養失調になるとは思えない。飯食ってりゃ、低血糖になるはずもない。
 一方、一日にサバ缶一缶とヨーグルト、これだけの食事で“鍛錬”を数ヶ月(半年?)続けたら、マッチョになる前にぶっ倒れるはず。筋肉が増える以前に、肉体の維持が難しいのじゃなかろうか。それに唐沢が用意した道具では、ビルドアップよりシェイプアップになると思います。
藤岡真 |  2009年02月24日(火) 10:49 |  URL |  【コメント編集】

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