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2009.07.08 (Wed)

本当は『「男らしさ」の人類学』ではなく『男らしさの研究』という本を読んだんだったりして

唐沢俊一の裏の目コラム 「伊藤(バカ)くんとイニシエーション」
http://netcity.or.jp/otakuweekly/BW2.0/column1-1.html

オタク大学の原稿にも書いたが、アメリカの人類学者D・ギルモアは著書
『男らしさの研究』(春秋社)で、“男”というジェンダーは生物学的な先天的
決定事項ではなく、社会的通過儀礼によって後天的に付与される文化的な
事項なのだ、と論じている。


『男らしさの研究』は、『「男らしさ」の人類学』の間違い――というのは、「人はパクリ
とガセ (P&G) 発生装置として生まれるのではない、P&G 発生装置になるのだ
」の方で。

そこのコメント欄に、唐沢俊一の要約に疑問を感じるので、実際に本を読んでみたい
と書いたけど、『「男らしさ」の人類学』がどんな内容の本であるか以前の問題として、
唐沢俊一のいう「“男”というジェンダーは生物学的な先天的決定事項ではなく 〈略〉
後天的に付与される文化的な事項なのだ」は、主語が「ジェンダー」のため、何だか
トートロジーめいてきこえるという問題が。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ジェンダー
>先天的・身体的・生物学的性別を示すセックス(sex)に対する、「社会的・文化的な
>性のありよう」のことを一般に日本ではジェンダーという[1]


まあ、Wikipedia には、以下のようにも書かれているので、この「欧米において」の定義
をとるならば、「生物学的な先天的決定事項ではなく」というのも、単なるトートロジー
ではなくなるかもしれない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ジェンダー
>一方、欧米においては"gender"は、生物学的性の概念を含み、また文化的な差異と
>も異なるものとして認められる[2]。


で、実際にギルモアが『「男らしさ」の人類学』の中で、「“男”というジェンダー」を、
唐沢俊一の要約のように定義しているかというと……そもそも「“男”というジェンダー」
という言い回しを使っている箇所が見あたらなかったりするのだが。

「男らしさ」、「男性性」、「ジェンダー・アインデンティティ」、「ジェンダー・イデオロギー」
といった言葉ならば、随所に登場する。たとえば、序章には、「この本では、男のジェン
ダー・アイデンティティというのは不確定なもので、パズルであり、未解決の暗号とか
謎のようなものとして取り扱っている」 (P.8) と書かれている。

そして、男らしさや男性性は、確かに「生物学的な先天的決定事項」とはされていない
ものの、「社会的通過儀礼によって後天的に付与される」という表現には引っかかるもの
がある。ひとつは、後述するように、「通過儀礼」がどの社会にも存在するものであるかの
ようには書かれていないため。もうひとつは、「付与」というより「獲得」じゃないかと思う
ため。

『「男らしさ」の人類学』 P.13
>しかし、大部分の社会科学者は次のような意見をもっている。社会制度に関係なく
>どの文化にも、標準的な男女の役割には、際立った規則性が実にはっきり見られる
>ことである (Archer and Lloyd 1985: 283-84)。私が注目するこの規則性とは、文化が
>男の理想像を作り上げて行く手法、つまり男の役割を提示したり「イメージづくり」を
>行うきわめて劇的な方法である。真の男性性とは単なる解剖学上の男の状態とは
>違うこと、それは生物学的から自然に発生することではなく、不安定で人為的なもの
>である。それを少年は強敵に打ち勝って獲得しなければならないのだ。


まあ、「後天的に付与される」という言葉に、受動的なニュアンスや、必ずしも苦労を
ともなわないというイメージを受けるかどうかの問題にしか過ぎないかもしれないけど。

で、付与にしても獲得にしても、「社会的通過儀礼によって」とするのは、この本の要約
としては適切ではない。過酷かつドラマチックな社会的通過儀礼を紹介する一方で、
社会によっては、以下のように「移行期の通過儀礼は一切ない」と断言している箇所も
ある。

『「男らしさ」の人類学』 P.80
>マーシャルの言うように (ibid.: 93)、トラックの若者たちは、女々しく見られないように
>「一生懸命に働いて」、強い考えを人前で実証しなければならない。儀礼は役に立た
>ない。移行期の通過儀礼は一切ないし、節目となるようなものもない。だが、少女には
>それがあって、初潮で一人前の女になれるのだ (ibid.: 65)、男は、社会が一人前の
>男と認めてくれるように、自分自身で証明していかねばならない。


「男性性の概念が、意味のないものであったり、まったく欠けている社会」 (P.239、
「第9章 例外として――タチヒ島民とセマイ族」) とは異なり、男性性を重視する社会の
トラックに、「通過儀礼は一切ない」とされていることは注目に値するだろう。また、別の
箇所には以下のような記述もある。

『「男らしさ」の人類学』 P.149
> こうした長期にわたる集合的な通過儀礼は、おもに未開社会(ないし無文字社会)
>に見られるものである。農民や都市の人々は、精緻あるいは神聖な儀式を行って
>男女とも大人になることを祝福する方式はめったに取らない。たいてい個人の成長を
>暗黙のうちに承認する方式を取っている。すでに見てきたように、とりわけ地中海や
>中東の人々は、ほとんどみずからの判断にまかされている。この点は、現代のアメ
>リカ人や大多数の西欧の人々も同じである。だがユダヤ人だけは例外であり(彼らを
>西欧人のなかに入れるとすれば)、彼らは儀礼を劇的に伝える興味深い事例を提供
>してくれる。



ただまあ、この本には、唐沢俊一の妄想 (「せっかく猿から進化したんだからマウン
ティングへの固執もほどほどにね
」を参照のこと) のネタ元になっているのではないかと思わ
せる記述も、そこかしこに含まれていたりはする。割礼をはじめとする通過儀礼の例も
多数紹介されているし。

『「男らしさ」の人類学』 P.18
>十二歳から十五歳の間に、テワ族の少年たちは、家を離れて、儀礼で身を清めて、
>それからカチナの例(変装した父親)から容赦なくむちで打たれる。少年はそれぞれ
>裸にされて、背中をユッカ蘭のごわごわした蔓のむちで四回たたかれる。思春期の
>若者たちは、自分の忍耐力を示すために殴打に冷静に耐えねばならない。テワ族の
>人たちはこの儀礼を経て少年は男になるのだという。そうしないと、男にはなかなか
>なれないと考えている。少年たちの厳しい試練のあとで、カテナの聖霊たちはいう、
>「今、君は男となった……君は男に作られたのだ」


『「男らしさ」の人類学』 P.20
> たとえば、近代イギリスの紳士階級を取り上げてみよう。〈略〉ここの少年たちは、
>一人前の男となる過程で、伝統的に同じような試練に従わねばならなかった。東アフ
>リカやニューギニアの少年と同様に、彼らは幼い時に母親や家族から引き離されて、
>遠く離れた訓練所に送り込まれた。そこは年齢ごとにまとまり、彼らの力量がひどく
>試される寄宿制のパブリック・スクールであった。そこで少年たちは上級生からテロ
>まがいの激しい肉体的暴力を受ける。だがこの残酷な「神聖裁判」が「社会的に男
>となっていく」道を与えた。親たちは、この方法しか男となる道はないと考えた
>(Chandos 1984:172)。


『「男らしさ」の人類学』 P.186
> これに対して、イニシエーションの頂点に位置する同性愛的フェラチオの儀礼は、
>肉体的苦痛は伴わず、服従が要求されるだけである。面白いことに、サンビアの人々
>は、非常に「上品ぶって」いるので、人前で大っぴらに行うことはないと、ハートは
>述べている。むしろ、個人的に暗闇でそっと行うのである。少年は、年上の男のペニス
>を吸って、精液を飲み込むことを何度も強制される。摂取された精液は、元気のない
>「精液器官」に入っていき、そこで吸収され蓄積される。すでに見たように、精液を
>繰り返し摂取すると、「男らしさがプールされるのだ」 (Herdt 1981:236)。サンビアの
>人々は、精液が実際に少年の骨を強化して筋肉を作ること、その結果十分に精液を
>摂取すると、思春期が始まり顔に髭がはえてくるのだと信じている(第2章の地中海
>の人々の間での髭の象徴的重要性について思い出していただきたい)。
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Comment

>mino さん
http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-entry-164.html にもちょっと書きましたが、『「男らしさ」の人類学』の「BOOK」データベースの記述には、「人は男に生まれるのではない、男に作られるのだ。」なんて書いてありますしね。

ただし、ボーヴォワールの名前は、直接には『「男らしさ」の人類学』の中には登場しないですが。索引に「ミード」はあっても「ボーヴォワール」はなかったです。

コメントを読ませていただいて、そう言えば「付与される文化的な事項」の「付与」というのは、『第二の性』っぽいかなあとも思いました。今、本が手元にないので確認できないのですけど。『「男らしさ」の人類学』の方では、繰り返し「獲得」と述べられていますが、『第二の性』などのスタンスでは、男性性は「付与」されるものという感じになっていてもおかしくないかな、と。
トンデモない一行知識 |  2009年07月09日(木) 05:57 |  URL |  【コメント編集】

●見たことがあるなぁと思ったら

>>「“男”というジェンダーは生物学的な先天的決定事項ではなく 〈略〉
>>後天的に付与される文化的な事項なのだ

って、ボーヴォワールの『第二の性』に書いてあることにそっくりですよね。「女性」を「男性」に変えただけ。

mino |  2009年07月08日(水) 07:47 |  URL |  【コメント編集】

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