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2011.07.31 (Sun)

似ているようで違う ―― 博覧強記の小松左京と博覧強記の仕事術

http://www.tobunken.com/news/news20110729122033.html

2011年7月29日投稿
さよなら巨星(ジュピター) 【訃報 小松左京】

これほど『巨星』という文字の似合う人はいなかった。
とはいえ、その文字の影に隠れて、見えにくかった部分も多々、ある。

小松左京という名前が『日本沈没』で日本中に知れ渡った頃。
NHKの演芸番組を見ていたら、桂米朝師匠の番組の解説に
小松氏が出てきて、米朝師匠との長いつきあいのことを語り、
「『日本沈没』ね、あれ、落語聞いてて思いついた話で」
と言い出した。米朝師匠が
「はて、そんな噺、あったかいな……」
と首をひねっていると、
「『釜どろ』いう落語があるでしょう、泥棒をつかまえようと
釜の中に入っていたら、釜ごと盗まれて野原に捨てられて、
顔を出して“しまった、家を盗まれた”……ちゅうやつ。
“国破れて山河あり”というのはあるが、“国破れて山河なし”に
なったらどうなるか、そう考えているうちに思いついたのが、あの
小説で……」
と語り、米朝師匠は
「なんや、冗談みたいな思いつきであないに儲けておいて……
落語協会になんぼか寄付しなはれや」
と冗談にまぎらしていた。

普通に考えてそんなわけもない、これは落語の番組に出るのだから、
という一種のリップサービスであるわけだが、小松左京という
人は、これが抜群にうまい人だった。『さよならジュピター』の
プロモーションで一時やたらいろんな番組に出演していたが、
グルメ番組に出れば宇宙食に話をからめ、街角情報番組に出れば
日向ぼっこに適した路地から太陽というものの大切さに話題をつなげ、
『さよならジュピター』に話を持っていく、その持っていき方が
自由自在という感じであった。コジツケがすぎるという見方もある
だろうが、そういう番組の大半の、SFに興味もないであろう
視聴者に、自作の映画の話を聞いてもらうための見事なテクニック
であることは確かであった(映画自体はそのテクニックを下手に
応用してしまった悪例でしかなかったのが残念だったが……)。

後にテレビの教養番組などのMCとして著名作家が起用されたものを見ると、
番組の進行の拙さに歯がゆくて仕方ない思いをすることが多かった。
小松氏がそういう番組に出たときと、どうしても比較してしまうのである。
タレントとしての才能、テレビでのトークの才能も、小松氏は並み居る
人気作家のうち、まず第一級であった。

小松氏は若いころ、アルバイトでいとし・こいしの時事漫才の台本
を日曜をのぞく毎日、週6本、書いていたという。日常のなにげない
出来事を時事テーマに結びつけてわかりやすく解説するという技術は、
その時に習得したものだったろう。
後に小松氏は大阪万博などのプロデューサーとして辣腕を発揮するが、
そのプレゼンターとしての能力はこういう経歴が磨いたものだった。

1970年代はじめくらいまで、日本人の平均的想像力というのは
結局のところ生活圏の半径1キロ以内を出ぬ、極めて箱庭的なもの
だった。私小説が小説の王道だったのも無理からぬところであったろう。
日常を超越した壮大な構想力を持った作家は、“異端”というワクで
語られるのが常だった。その作家の持つイメージの大きさと読者の
想像力の間に、深い断絶があったからである。その断絶が大きければ
大きいほど、異端作家としては格が上、というようなマニアックな
認識があった。


×アルバイトで ○仕事で

唐沢俊一は、小松左京の名前を出すことが結構多かったような気がするので、うちの
ブログに引用した分を拾ってみた。

くだん、牛魔王、覚えてますか?
男のつわりに賛否両論 (嘘) → 話の続きはこちらのコメント欄
ほんとうは SF 作家になりたかった唐沢俊一?
謙遜抜きで永遠の初心者 (?)
「ひねくれたSF者」にならなかった人のための今日泊亜蘭
「依って件のごとし」という小説もありましたね
大阪で生まれた小松左京やけど

結構あるとはいっても、小松左京の『くだんのはは』に登場する少女を人面牛身のように
書いたり (本当は牛面人身、ここを参照)、件 (くだん) について何だかボロボロなことを
いったりしている (ここここを参照) のが目立つけど。

それから、『人間博物館』に書かれている内容を、トンデモ混じりに脳内変換して紹介して
もいた (ここここを参照)。

あとは、「小松左京も筒井康隆も偉大である。だが、星新一に比べればやはり、読者を
選ぶのである」 (ここを参照) などと星新一を持ち上げるために少し貶してみたり、今日泊
亜蘭を語るついでに「この世界観に一度ひたると、小松左京も光瀬龍も子供っぽく見えた
のは確かであった」 (ここを参照) などと腐してみたり。

『さよならジュピター』について、「映画自体はそのテクニックを下手に応用してしまった
悪例でしかなかったのが残念」と貶すのは、と学会会員としては外せないところだったか。
何しろ、『トンデモ本の逆襲』の中の漫画では、「日本SF映画史上に輝く爆笑の珍作
『さよならジュピター』で 期待していた日本中のSFファンを脱力させた男!」「小松左○!!」
で、「どわわわわわ」「ばむーん」と撃破していたし。いやまあ漫画を描いたのは眠田直で、
撃破役は藤倉珊で、唐沢俊一は登場していなかったけど。

岡田斗司夫との対談のときは、よいこともいっていたようで、こういうことを今回の文章で
語ってみたらよかったのにとも思った。(← 大きなお世話) それに、唐沢俊一の大好きな
三島由起夫の『美しい星』 (ここここここを参照) に関連するエピソードとか、落語絡み
ならば、小松左京が「地獄八景亡者戯」を SF だとかいって絶賛していた話とか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/小松左京
>広範な領域での業績と旺盛な活動力を岡田斗司夫、唐沢俊一らは「荒俣宏と立花隆と
>宮崎駿を足して3で割らない」と評している。
〈略〉
>SF小説に関心があった三島由紀夫との交流も深く、三島は小松のあまりの多作ぶりを
>「文体が薄くなる」と諌める発言を残している。また、三島が『美しい星』を執筆していた
>頃に、三島宅の屋根に小天文台をつくり一緒に空飛ぶ円盤を探したというエピソードが
>ある。
〈略〉
>桂米朝 -「地獄八景亡者戯」を聞いて大ファンとなり、のちに一緒に仕事をするようにな
>り、家族ぐるみの交際となった[40]。


http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110730/enn1107301419005-n1.htm
> 「小松左京先生は、大変に落語を愛されていて、『地獄八景亡者戯』を『これはSF
>や!』とおっしゃっていた。大師匠の米朝とは50年来の仲で毎年、米朝独演会にも来ら
>れてました」



で、今回の“追討”文章だが、「釜どろ」でググると「もしかして: 釜泥」と表示された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/釜泥
>釜泥(かまどろ)は古典落語の演目の一つ。原話は、安永4年に出版された笑話本・
>「花笑顔」の一遍である『盗人』。


でもまあ、表記の方は、「釜どろ」であるページもそれなりに存在したので、よいとして。

気になるのは、番組で小松左京がこう語ったという話の裏が取れなかったこと。試しに
「"国破れて山河なし" 小松左京」でググると、時節柄かこういうページしかヒットしないし。

http://logsoku.com/thread/yuzuru.2ch.net/seiji/1301829014/
>562 : 名無しさん@3周年 : 2011/06/07(火) 17:14:24.62 ID:VscqVSxe [1回発言
>国破れて山河なし。現代は、古代より恐ろしい。
〈略〉
>582 : 名無しさん@3周年 : 2011/06/09(木) 11:36:22.16 ID:mBS9epSC [3回発言]
〈略〉
>「フォーラム・エネルギーを考える」「地球を考える会」「ネットジャーナリスト協会」
>といったダミーのNPO法人らを複雑に絡ませ、一見すると市民運動であるかのように
>見せかけつつ原発を盛んに喧伝するという悪質な手法を多用していた。
>もはや読売は、国策推進のためのPR紙というほかない。

>「フォーラム・エネルギーを考える」――。実は、読売の昨年度の原発広告計10回のうち、
>4回はこの団体が広告主となっている。となると、この団体の資金源を調べねばなるまい。
>この組織内に、「フォーラム・エネルギーを考える」がある。メンバー数は169名(2011年
>4月1日現在)。〈略〉
>小松左京(SF作家)、小泉武夫(東京農業大学名誉教授)、堺屋太一(評論家)
>といった面々が名を連ねている。


ちなみに、『日本沈没』のアイデアがどこからきたかについては、以下のような話が見つ
かった。

http://njb.virtualave.net/nmain0147.html#nmain20040315200228
> それから火星の水の話になって、『レッド・マーズ』で過冷却水が大洪水を起こすくだ
>りを話したら、「あの『日本沈没』の日本列島も、まさに過冷却水みたいなもので沈むん
>だよ」という返事。
> 『日本沈没』がベストセラーになった後、小松左京は「君に聞いた話がヒントになって
>日本列島を沈めることができた」と言ったそうな。
>(同書の献辞にある「H.T、K.H両先生」は竹内均、樋口敬二のことらしい)
> 『日本沈没』刊行の3年前、1970年1月に新潟日報の仕事で一緒に旅行した時、
>樋口氏は氷河モデルの話をした。氷河の底で圧力による融点降下によって氷が融け、
>できた水の移動と再凍結によってエネルギーが輸送されるという、イギリスのF.C.
>フランクの説。
> 氷河を地下の岩盤に置き換え、太平洋プレートから来る圧力が液相のトンネルを介し
>て高速で日本海側に抜ける、というのが日本沈没のメカニズム。
> このエピソードは『新しい日本を作る』(樋口敬二、講談社)に載っているので、その場
>でコピーしてもらいました。
>「堀晃というベテランSF作家が大阪シナリオ学校の講座で『日本沈没』を取り上げ、ま
>さにその部分について語っていました。あの長い作品のなかで、日本が沈むトリックに
>ついてはほんのちょっぴりしか書いてない、云々」と言っておきました。
>「そうかそうか、ちゃんと見つけてくれる人がいるってのはうれしいなあ」という返事でした。



「アルバイトでいとし・こいしの時事漫才の台本を日曜をのぞく毎日、週6本、書いていた」
のは、これは副業とかではなく、本職でやっていたのではないかと。

http://ja.wikipedia.org/wiki/小松左京
>ルイジ・ピランデルロについての卒論を提出して、1954年に大学を卒業。しかし、就職
>試験をうけたマスコミ各社の試験にすべて不合格。経済誌『アトム』の記者・父親の工
>場の手伝い・ラジオのニュース漫才の台本執筆等の職を経験する。また、産経新聞に
>入社していた三浦浩の紹介で、産経新聞にミステリなどのレビューも執筆する[15]。
〈略〉
>いとし・こいしの新聞展望(ラジオ大阪、1959年~1962年)※構成作家
〈略〉
>15. ^ 『小松左京自伝』P.46~52 P.56~58


上に引用した Wikipedia の記述だけではなく、「小松左京フリークである漫画家とり・みき
氏」 (Read More も参照のこと) が「小松左京を語り尽くす」番組紹介でのプロフィールでも
「ラジオ漫才台本執筆などの職を経て」という書き方になっているし。

http://timetable.yanbe.net/html/cs2/2010/05/06_8.html?13
> 9:00平成極楽オタク談義 #6毎回それぞれのテーマに詳しいゲストを迎え多角的な
>トークを展開。#6のテーマは「小松左京」。 ゲストに小松左京フリークである漫画家
>とり・みき氏を迎えて日本を代表するSF作家小松左京を語り尽くす。小松左京は、
>1931年大阪市生まれ、京都大学文学部イタリア文学科卒業後、経済誌〈アトム〉記者、
>工場経営、ラジオ漫才台本執筆などの職を経て、作家生活に入る。1973年刊行の
>『日本沈没』は上下巻合わせて400万部をこえる超ベストセラーになると共にテレビ化、
>ラジオ化、映画化、劇画化され、日本中を「沈没ブーム」に巻きこむ。翌74年、同作品
>にて第27回日本推理作家協会賞受賞。1985年には『首都消失』 で第6回日本SF大賞
>を受賞。1984年公開の映画『さよならジュピター』では原作 ・脚本・制作・総監督の四
>役を務めた。執筆活動以外にも、 1970年の大阪万博、1990年の国際花と緑の博覧会
>の企画運営にも尽力した。


まあ「大阪産経新聞の翻訳ミステリ雑誌欄を担当」の方を本業だとするならば、漫才の
台本の方がアルバイトになるのかもしれないけど……ただ、唐沢俊一のいうように「日曜
をのぞく毎日、週6本、書いていた」とするならば、執筆量では台本の方が多いのでは。

http://www.iocorp.co.jp/chronicle/sktable.htm
>1959年(昭和三十四年) 二十八歳
>京都の工場社宅にすむ。ここでまたも会社はつぶれ、負債を返済しなければならなくな
>る。ラジオ大阪の番組「いとし・こいしの新聞展望」(34年10月5日~37年6月30日)で、
>夢路いとし・喜味こいしの演ずるニュース漫才の台本を担当。以後、足かけ四年に渡
>り、一万二千枚の台本を書く。その数か月前から、大阪産経新聞の翻訳ミステリ雑誌
>欄を担当。十二月、三浦浩に「SFマガジン」創刊号を紹介され、「巻頭シェクリイの
>『危険の報酬』を読んで眼をひっぱたかれたような気持ちに」なる。こうして「現代SFと
>持続的交渉をもつようになった」。



で、「1970年代はじめくらいまで、日本人の平均的想像力というのは結局のところ生活
圏の半径1キロ以内を出ぬ、極めて箱庭的なものだった」については、2ちゃんねるの
スレ (Read More 参照) では、「自分の乏しい経験を日本人全体にあてはめる」、「江戸
時代の話かよ」、「1970年代は普通の家庭にテレビが入っていた」、さんざん否定されて
いた。そりゃ否定されるわなあ。

だいたい、本当に「1970年代はじめくらいまで、日本人の平均的想像力というのは結局
のところ生活圏の半径1キロ以内を出ぬ」ものであったら、小松左京の経歴にもある「翻訳
ミステリ雑誌欄」なんてものが、どうして 1960 年代の新聞に存在していたのかと。

上に引用したように、小松左京が「巻頭シェクリイの『危険の報酬』を読んで眼をひっぱた
かれたような気持ちに」なったというのは、1959 年の話だ。まだ 1960 年代ではない。

しかし、唐沢俊一によると、「私小説が小説の王道だったのも無理からぬ」とか。うーん、
もしかして、こんな思い込みがあったから、たとえば『トンデモ本の世界R』で、三島由紀夫
の『美しい星』は1978 年なんてキャプションをつけたのかも。本当は 1967 年なんだけど
(ここを参照)。

(多分、別エントリーに続く)

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