fc2ブログ
2011年02月 / 01月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728≫03月

2011.02.03 (Thu)

似ているようで違う ―― 上等な県歌と喧嘩上等

2011 年 1 月 31 日 11:45 からの日テレ『スクール革命』

『偽りの米軍残り物説』をスクール革命で語った唐沢俊一
北海道は離婚率が高い
謎の預貯金額ランキング?

の続きのようなもの。


http://www.ntv.co.jp/s-kakumei/onair/index.html
>Q1.長野県民はケンカしても ??? する事で仲直りできる
>1人目:山崎弘也「記者会見」
>2人目:八乙女光「粋なシャレ」
>3人目:高地優吾「相手の良い所を見ようとする」

>A.歌を歌う
>長野県民は皆「信濃の国」という県歌が歌える。


どうでもよいけど、Q1.の「???」の部分に、A.の「歌を歌う」というをはめこむと:

長野県民はケンカしても「歌を歌う」する事で仲直りできる

となってしまって気持ちが悪い……。「『信濃の国』を合唱」とか「県歌を斉唱」とかにした
方が、「~する事」とすんなりつなげられておさまりがよかったのではないのかと思うが、
おいといて。

『スクール革命』では、唐沢俊一は、「長野県民は仲直りする時歌を歌う」などといいながら
以下のようなことを説明した。

http://www.ntv.co.jp/s-kakumei/onair/index.html
>この歌に関するある特徴的な事柄
>⇒1948年、長野県は北と南の二つに分裂してしまう危機にあった。
> しかし、県議会の最中、傍聴席から「信濃の国」の大合唱が沸き起こり、
> 分裂が回避された。


「そりゃあ県の歌になりますよねえ」のようにいってもらったりもしていたのだが、長野県の
県歌が正式に「信濃の国」となったのは 1968 年 (昭和 43 年) のことで、件のエピソード
のあったという 1948 年から 20 年も後のこととなる。1948 年の「『信濃の国』の大合唱」
により「分裂が回避」されたという話は、制定の直接的な理由ではなかった模様。

http://www.pref.nagano.jp/soumu/koho/kenka/kenka.htm
> 最初に「長野県民歌」が決定されたのは昭和22年。現憲法施行を記念して公募され
>たものですが、あまり好んで歌われず、ほとんど忘れ去られてしまいました。
> 現在の「信濃の国」は、明治32年浅井洌により作詞、明治33年に北村季晴により
>作曲され、当時の師範学校の行事の時に歌われていました。その時の学生が、教師と
>して県下に散り、「信濃の国」を各小学校で教え、親から子へ、子から孫へという形で、
>事実上の県歌として歌い継がれてきた歌です。
> 昭和41年に県章やシンボルが決定になり、県民意識の高揚のためにも「信濃の国」
>を県歌に制定してはどうかという気運が盛り上がり、昭和43年5月20日に県歌として
>制定されました。こうして「県民のほとんどが歌える」と言われる県歌が誕生したのです。


で、Wikipedia の方の記述は以下の通り。

http://ja.wikipedia.org/wiki/信濃の国
>「信濃の国」にまつわる逸話として以下のようなものがよく語られる。1948年(昭和23
>年)春の第74回定例県議会で、長野県を南北に分割しようとする分県意見書案が中信・
>南信地方(合併前の筑摩県域)出身議員らから提出され、分割に反対する北信出身議
>員の病欠などもあって可決されそうになった。この際に、分割に反対する北信地方と東
>信地方(合併前の長野県域)の住民が占拠する議場の傍聴席から、突如として「信濃の
>国」の大合唱が沸き起こり、分割を求める県会議員たちの意思を潰して、分割を撤回さ
>せたと言われている[2][3]。しかし、仮に県議会で可決されたとしても政府や国会は分県
>を認めない方針であったとされる[3]。
〈略〉
>2. ^ 長野県. “県歌信濃の国4”. 2006年9月28日閲覧。
>3. ^ a b 読売新聞 (2007年5月22日). “県歌 信濃の国 第1部〈5〉県会大合唱伝説の
真相(5月22日)”. 2009年5月18日閲覧。


3. の「県歌 信濃の国 第1部〈5〉県会大合唱伝説の真相(5月22日)」のリンクをたどって
みると、以下のようなことが書かれている。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagano/kikaku/092/7.htm
> 本会議の1か月前、24歳だった大沢さんは上司に指示され、東京に数回出張した。
>県議会で分県の意見書が可決された場合、どう取り扱われるかを、霞が関の官庁街や
>国会の衆院事務局を回って調査した。

> その結果、「可決されても単なる意見書。長野県を二つに分けるなんて簡単にはでき
>ないし、国も国会も許さない」との結論に至った。

>  大沢さんの報告は、本会議前に南信側県議にも伝わった。しかし、「分県は南信の
>意見だから、このままやる」と南信側は言い張った。一方、北信側の議員たちは周到な
>作戦を練っていた。

>    #   #

> 質疑応答の後、採決に入った。南信側議員は29対29の可否同数で、議長裁決によ
>り可決となることを疑わなかった。が、立岩忠一・議会事務局長から投票結果を聞いた
>小松副議長の顔色が変わった。
> 北信側3議員が白票を投じたためだ。29対26となり、賛成が上回ったものの、可決
>には出席議員の過半数が必要。議長裁決にもならず、午後3時59分、時間切れ閉会、
>意見書は廃案となった。
> こうした実例を解説した文書が県議会の図書館にあり、種明かしすれば、当たり前と
>いう意味で後に「コロンブス作戦」と呼ばれた。 

>    #   #

> 大沢さんは本会議中、議長席横に座った立岩議会事務局長の脇にいたが、議事堂の
>周囲で信濃の国が歌われたのは覚えていない。忙しさで、それどころではなかったのだ
>ろう。だが、閉会後、傍聴席から上がった信濃の国の歌声は、鮮明に耳に残っている。


ええと、Wikipedia でいう「仮に県議会で可決されたとしても政府や国会は分県を認めない
方針であったとされる」というだけの話ではないような。「議事堂の周囲」や傍聴席からの
「信濃の国の歌声」とは全然関係なく、南信側議員の 29 人は予定通りに分県に賛成の
票を投じたし、「北信側の議員たちは周到な作戦」の通りに白票を投じて意見書を廃案に
追い込んだというのが真相だったということになる。

ただ、まあ、想像に過ぎないけれど、1948 年の採決には「信濃の国」の合唱が直接影響
したわけではなかったとしても、分県の提案がそれ以降蒸し返されなかったとすれば (これ
も仮定でしかないが)、それに民の声としての「信濃の国の歌声」も大いに影響をあたえた
可能性も無視できないと思う。

つまり、長野県の子ども向けページにある以下の記述 (これは上の記事よりも前に公開
されたものらしい) も、まるきりの嘘とはいえないかもしれないなあ、と。

http://www.pref.nagano.jp/kids/menu1/kenka04.htm
> 長野県は広くて、地域ごとに風土(ふうど)や文化がちがうから、かこに何度も県を分け
>ようという運動があったの。そんな時に、みんなが信濃の国を歌うことで心が一つになっ
>て、県を分けることにはならなかったそうよ。

> 歌声を聞いて、県を分けちゃいけないって思ったのね。

> そうなの。昭和23年に、県議会(けんぎかい)では県を分けるか分けないか話し合わ
>れました。その時、議場(ぎじょう)を取りかこんだ数千人の聴衆から「信濃の国」の大合
>唱が起きたそうなの。それでけっきょく、県を分けることにはならなかったの。


それに、県歌を歌って喧嘩をやめる、って何か語呂がよいと思うし。(←結局これがいいた
かった)


スポンサーサイト



テーマ : 感想 - ジャンル : 本・雑誌

01:12  |  本以外の媒体 間違い探し編 (13) +  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP |