2010年11月 / 10月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫12月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:--  |  スポンサー広告  |  EDIT  |  Top↑

2010.11.28 (Sun)

ロックンロール・アニドウ、いい加減にして

本当に実在した宇宙戦艦ヤマトのサークル『スカーレット・スカーフ』(2)」のコメント欄
あれこれ書いているうちに、唐沢俊一の語るアニドウの話って、『トンデモ創世記2000』
で本人がいっていることだけとっても、ありえないというか時空が歪んでいるじゃないかと
思えてきたので、ここにメモを兼ねて。

『トンデモ創世記2000』 P.43 ~ P.44

唐沢● いろいろあって、青山学院に入ったんですけども、すでに半蔵門線
は開通してたかな?
志水● ギリギリですね。
唐沢● そうすると半蔵門線で一本じゃないですか、神保町まで。青山学院
は最寄り駅が渋谷だし。
志水● そうですね。
唐沢● それで下宿を阿佐ヶ谷に決めたんですが、忘れもしない、入学した
日にアニドウが新宿の紀伊國屋ホールで「紀伊國屋アニメ・フェスティバル」
をやったんですよ。『ベティー・ブープ』とかを上映してたな。アニドウの歴史の
中でも大きなイベントの一つになると思うけど、チラシに「沖の暗いのに白帆
が見える、あれは紀伊國アニメ船」って。
志水● (爆笑)
唐沢● その日、下宿のおばさんが歓迎会をしてくれるって言うんだけど、
親戚の家に行くって適当にごまかして飛んでいって、『ベティー・ブープ』と
フライシャーの『バッタくん町に行く』を見て、愕然としましたね。俺が見てた
日本映画って何だったんだって。長文の感想を書いて並木孝(現・なみき
たかし)という代表者に送ったんですよ。それから半月位たって、お茶の水に
あった電電ホールでの上映会で「あっ、君が唐沢君か」と出会うわけです。
その頃、アニドウが非常に上り坂で、『フィルム1/24』というアニドウの会誌
が、紀伊國屋書店の映画雑誌コーナーに置かれはじめていましたね。同じ
コーナーに竹内義和の『東京おとなクラブ』というのもあった。


×紀伊國屋アニメ・フェスティバル ○新宿アニメーション・ランド
×お茶の水にあった電電ホール ○お茶の水にあった全電通ホール

関連ガセビア
自分を捜して見失う?
Baby Betty Boop Boop a Doop
芸ごとだかゲイごろだか洗脳セミナーだかわかったもんじゃないが……

「半蔵門線で一本」になるには 1989 年を待たなければいけないとか、「青山学院は
最寄り駅が渋谷」ではなく表参道駅だぞとかいうのは、「自分を捜して見失う?」を
参照のこと。

それを抜きにしても、ここでもう時空歪みが発生している。

P.43 には「『東京おとなクラブ』創刊2号」の表紙の写真と「編集発行エンドウユイチ/
定価390円/83年3月23日発行」、「丸尾末広、岡崎京子といった豪華執筆陣による
幻のインディーズ本。」という説明が書かれている。

http://www.burikko.net/another/toc.html を参照してみても、「83年3月23日発行」
というのは正しいようだし、創刊号は「東京おとなクラブ Vol.1 1982/7/7発行」とのこと。
「その頃、アニドウが非常に上り坂で」の「その頃」とは 1982 年か 1983 年だとすると、
1958 年生まれの唐沢俊一は 24 歳くらいで……ええと、五浪六浪して大学入学したと
でもいうのだろうか。

そもそも、「忘れもしない、入学した日にアニドウが新宿の紀伊國屋ホールで」「その日、
下宿のおばさんが歓迎会をしてくれるって言うんだけど」というのは、本の記述のみを
参照して考えてみてもちょっと不自然な話で、「下宿のおばさんが歓迎会」をしてくれる
ような下宿初日かその翌日あたりに、大学に「入学した日」がくるものかなあという問題
もある。

で、まあ、1977 年には北海道で一浪しながらヤマトのファンクラブ活動にいそしんでいた
唐沢俊一が、1978 年には上京していて、東京でのアニドウの上映会を見ていたことは、
アニドウの会誌に残っている投稿からみて間違いない――という情報を、ここコメント欄
に書いてくださった人がいる。

http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-entry-565.html#comment1900
>唐沢が78年の3月から東京に住んでいたことは、間違いないと思います。

>理由は『FILM1/24』23&24号の投稿「ベティ・ブープをもう一度!」で、“あの天才
>手塚治虫が作った鉄腕アトムだってこの間アニメランドでみたときは”と書いているか
>らです。

>新宿アニメーション・ランドは78年3月に行なわれました。
>後に『テンデモ創世記2000』で、「紀伊國屋アニメ・フェスティバル」なんてまちがった
>呼び名で唐沢は書いていますが、リアルタイムのこの投稿では名前をまちがえていま
>せん。
>78年5月の「フライシャーの夕べ」の感想文の投稿ですから、少なくとも78年3~5月
>は東京にいたはずです。


上のコメントで指摘されている通り、「紀伊國屋アニメ・フェスティバル」というのが正しい
呼び名でないことは、アニドウのサイトでも確認できる。

http://www.anido.com/html-j/step-j70.html
>1978年 (昭和53年)
〈略〉
>《フライシャーの夕べ-1.2》5/2-3 ゲスト:野口久光
〈略〉
>《新宿アニメーション・ランド》3/23.3/27-30 ゲスト:安彦良和、長浜忠夫、手塚治虫、
>もりやすじ、ひこねのりお、相原信洋、古川タク、川本喜八郎、岡本忠成、白石冬美、
>八木大、他〈紀伊国屋ホール〉。
>表向きは「主催=日本アニメーション協会」だが、実質的にはアニドウの主催であった。
>「ソ連アニメ映画祭3」協力5/24-25〈全電通〉


「《新宿アニメーション・ランド》3/23.3/27-30」なので、「忘れもしない、入学した日」と
いうのも多分ガセ。青山学院大学の入学式は 1978 年も 4 月におこなわれているはず。
以下は、1978 年に青山学院大学文学部英米文学科に入学したという人の文章。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/h-motoi/seishun.htm
>1978年4月。20歳の私は単身東京にいた。初めて異郷の地での一人暮らし。近く
>には両親もいなければ、親戚もいない。頼れるのは自分だけ。孤独ではあったが、
>これから新たに始まろうとしている人生に私はわくわくしていた。
>  青山学院大学文学部英米文学科に籍をおくことのできた私は目黒区にアパートを
>決めていた。それは東急目蒲線の西小山という駅から徒歩1分の所にあった。風呂な
>し、トイレ共同、6畳一間のぼろアパート。大学まで30分という利便性だけにすぐれた
>アパートであった。ここが私のスタート地点である。


結構笑えたのが「電電ホール」で、「お茶の水 "電電ホール"」でググると、うちのブログ
と以下に引用する裏モノ日記しかヒットしない。

裏モノ日記 2005年 02月 19日(土曜日)
http://www.tobunken.com/diary/diary20050219000000.html
> そうこうするうち時間となり、さて、やっと、となかの芸能小劇場に行ったら、入り口に
>ぎじんさんとなみきたかしがぽつねんと立っていて、上映会、中止と告げる。なんで
>も、会場を借りるとき、午後といってとったのだが、この会場は午前・午後の二分割で
>なく、午前・午後・夜という三分割で貸しているらしい。もう何十回となく借りているんだ
>からわかっていそうなものなのに、つい、午後で借りてノホホンとしていたら、会場から
>“アニドウさん来ないけどどうしました”と電話がかかり、そこ で気づいたが後の祭り
>だったそうな。
> 一応電話やメールなどで会員には知らせたが、私のように昼にも用事があって連絡
>つかない者が来たときのために、なみき氏がおわびのCD持って立っていた。そう言え
>ば私がアニドレイ(男の手伝いをアニドウではこう称する。ちなみに女性は“アニメイト”)
>だった頃にもこういうことがあって、お茶の水の電電ホールの前でお客に 謝ったことが
>あったなあ。もう二十五年も前だが。


「国際電電ホール」というのも別にあるみたいだけど、アニドウのページに「電電」の文字
は存在しない。「『ソ連アニメ映画祭3』協力5/24-25〈全電通〉」とかあるので、これは、
「全電通ホール」が正しいのだろう。場所もお茶の水だし。

http://www.enjoytokyo.jp/events/spot/l_00001420/
>全電通ホール
〈略〉
>住所  〒101-0062 東京都 千代田区 神田駿河台3-6
>最寄駅 新御茶ノ水 小川町(都営) 淡路町


で、『トンデモ創世記2000』の記述の続き。

『トンデモ創世記2000』 P.44

唐沢● そういうミニコミ誌が出てきて、『ぴあ』なんかも市民権を得てきま
したね。『ぴあ』の存在を知ったのも上京してからです。こでまた忘れも
しない、並木孝に長文の手紙を書いたその翌々週に上映会があって、で、
鈴屋ビルというのが荻窪にあったんですよ。そのビルは八階建てでエレ
ベーターがない。その七階にアニドウがあって、そこにフィルムだとかを
どれだけ運んだことか。NHKの『三国志』って人形劇で川本喜八郎さんの
作った人形の『三国志百態』という豪華写真集があって、これも書店に卸す
ために七階から何度も運んだ記憶があるんですけど。


この上映会というのが「《フライシャーの夕べ-1.2》5/2-3 ゲスト:野口久光」なのかな。
「『ベティー・ブープ』とフライシャーの『バッタくん町に行く』を見て、愕然としましたね」と
唐沢俊一が P.45 でいっているのが、「その日、下宿のおばさんが歓迎会をしてくれるっ
て言うんだけど、親戚の家に行くって適当にごまかして飛んでいって」という話になって
いるので、5 月というのは微妙に時期があわないのではないかという気もするけど。

「豪華写真集」の題については、こちらのエントリーで引用した分では『三国志』と間違え
ていたが、ここでは『三国志百態』と正しく書かれている。

そして、『トンデモ創世記2000』の内容は、アニドウ関係の話題からいったん離れる。

次にアニドウが主の話題となるのは、ここに断片的に引用した、P.73 以降のこととなる。
以下に引用し直してみる。

『トンデモ創世記2000』 P.73 ~ P.74

CHAP1 30 これでアニドウもおしまいだ

唐沢● アニドウには四年くらいかかわったですかね。浮き沈みがかなり
あって、鈴屋ビルの七階から、荻窪のサニーシティってところに移りました。
ここは本当にフロアーがちゃんとしてましてね。
志水● エレベータもあるし。
唐沢● そう、二階だったんだよな。エレベーターがあるんだったら、もっと
高いフロアーにすればいいのに、なんて言ってたこともありました(笑)。
昔の苦労が苦労だけに……。
 川本喜八郎さんの『三国志』の通販とかもやってたんですけど。で、気前
が良かったというか何というか、川本さんが使い終わった人形をみんなに
プレゼントするっていう、とんでもないこともやってた。


「昔の苦労」というのは P.45 の「川本喜八郎さんの作った人形の『三国志百態』という
豪華写真集があって、これも書店に卸すために七階から何度も運んだ記憶がある」と
いうのをさすのだろうけど、何で「荻窪のサニーシティ」に移動したという話の後で、再び
その本の通販の話をするのかと。

本ではここに「プータローだった男」のエントリーの真ん中あたりに引用した文章がくる。

「川本さんが使い終わった人形をみんなにプレゼントするっていう、とんでもないこと」と
いうのはありえない――については、このエントリーコメント欄を参照していただくとして、
『三国志百態』は 1984 年の発売である。

つまり、この部分だけ読むと、「アニドウには四年くらいかかわったですかね」とは、1980
年から 1984 年の間のかかわりということになる。1978 年から 1979 年は……一般人
として上映会を見に行き、感想を投稿するだけだったとでも脳内補完するべきか。

そして、ここでいう「わたくし、母に男だけしかいないところには行くなと言われていて、
取りに行けません」に「ふざけんじゃねぇ! 孔明だぞ」の後には、以下の文章がくる。

『トンデモ創世記2000』 P.74

 当時はアニドウに若いメンバーが入りはじめたので僕なんかは古参に
なってきて、ちょっと浮いてきたなって感じてきた。辛口の批評ばっかりやる
もんだから。彼らはテレビのアニメを見て入ってきているんですよ。ある若い
子に「『トムとジェリー』って何ですか?」って聞かれて、あ、これでアニドウも
おしまいだって……。あの頃の僕は、こういうところにトゲトゲした人間でし
てね。しかも女の子だから僕よりもちやほやされるんですよ。こんな場所に
いられるか!ってね。
志水● 女性は文化を破壊しますな(笑)。

CHAP1 31 イッセーの見方を教えてあげましょう

唐沢● それで、イッセー一本に絞ったんですよ。イッセー尾形も僕の批評を
見ないと怖くて舞台にかけられないというくらいに力を注いで。それで務め
ようと思ってたのね、正式作家ではなかったですけど。


「イッセー一本に絞ったんですよ」の時代については、「唐沢俊一先生、その病、直って
いません
」を参照のこと。廉価版ワープロのピコワードが発売された 1984 年の頃には、
東北と東京を往復する電車の中でそれを使って原稿を書いていたという。唐沢俊一、
26 歳。

参考
唐沢俊一 25 歳の青春であった<金髪美女のヌードCM

そこで客と大ゲンカして、イッセー尾形と絶縁したと思われるのが 1986 年と考えられ
ている。唐沢俊一、28 歳。

『トンデモ創世記2000』 P.75

CHAP1 32 山田邦子とあまり変わんない

唐沢● しょうがないからアニドウに戻ろうかなって思って、電話かけたらね、
『月刊ベティ』を出してたじゃないですか。
志水● ああ、あった、『月刊ベティ』ね。うん。
唐沢● あれで大損してですね。ま、他にもいろいろ理由があってマンション
もとられちゃったんですよ。で、引き上げる最中だったんだよね。並木孝が
沈んだ声で、「昨日までは順風満帆(じゅんぷうまんぼ)だったけど……」
って言ったので、すかさず、「並木さん、そりゃ順風満帆(じゅんぷうまんぱん)
って読むんだよ」って返したらすごく嫌われてね。
志水● (爆笑)
唐沢● で、浦和の方に引っ込んじゃうしさ。
志水● 『月刊ベティ』はね、プレミア付くと思って五冊くらい買いましたよ
(笑)。
唐沢● あれ実は「創廃刊号」と称していたけれども、売れ行きはよかった
んです。続編を出そうって企画もあったくらいで。それで、並木が僕の弟の
『MANGAカルピス』を読んだようで、それが面白いからって弟が描くことに
なっていたようです。後に、なをきの代表作になった『カスミ伝』の原型は
そこに描かれるはずだったんですよ。


はい、ここで一気に時間は 1982 年に戻りました、とさ。『月刊ベティ』は 1982 年。
ピコワードの発売より 2 年も前……。唐沢俊一、24 歳。

http://www.anido.com/html-j/books-j.html
>月刊ベティ(創廃刊号)
>1982 (昭和57年8月15日)
>副題:新感少女マンガ誌


スポンサーサイト

テーマ : 感想 - ジャンル : 本・雑誌

23:54  |  その他の雑学本 間違い探し編 (324) +  |  TB(0)  |  CM(18)  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP |  NEXT
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。