2010.05.31 (Mon)
石や意志だけでは火花はなかなか散らせません
時代劇でおなじみ「切り火」の習慣は、実は明治時代に広まったもの。
切り火
火打ち石を打ち鳴らして、火花を散らすこと。本来は、火打ち石を打ち
鳴らして、生じた火花そのものを指す。
火打ち石によって起こされた火花は、生まれたての「きれいな」火花
であるため、「厄」を打ち払う効果があるとされる。
ここから、一家の主が出かける前にその安全を祈願し、あるいは、
帰宅時に、外の厄を打ち払うために、玄関先で火打ち石を打ち鳴らす
習慣が生まれた。
なお、この習慣は、明治時代に入って、マッチの普及で売り上げが
落ち始めた火打石の業者が、宣伝用に考え出したものだとされる。
「火打ち石」と「火打石」の表記不統一は原文ママ。
『史上最強のムダ知識』 P.179
「昔ながら」のものに見えて、実は近代以降にできた習慣は、案外多い。
時代劇で、亭主の出掛けに女房が、火打ち石を打ち鳴らして縁起を担ぐ、
「切り火」。この習慣が広まったのは、明治二十年代のことである。
同様に、日本古来の風習・慣習だと思っているもので、実は、ごく最近に
定着したものが意外に多い。
「女言葉は『だわ』『ですのよ』だけではなくってよ」のエントリーに引用した文章の方も、
同じこの本の P.179 から。
『史上最強のムダ知識』の出たのは 2007 年 4 月で、唐沢俊一が Wikipedia を参照して
いたとすれば、以下のような記述を目にしていたものと思われる。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=火打石&oldid=8757419
>日本の時代劇の一シーンで火打ち石を打つのをよくみかけるが、これは鳶職や左官
>など屋外で危険な職業に就く者の災難厄除けのために行ったものであるといわれる。
>すなわち、古来からの火が清浄なものとする考え方から、火打石で火花を起こすこと
>を切火(きりび)を切るともいい、身を清めるまじないや、火が魔除けになるという信仰
>的な(お祓い)としての意味である。ただし、樋口清之(國學院大學名誉教授)は、切
>り火の習慣が定着したのは明治時代に入りマッチの普及で需要が落ち始めた火打石
>業者が宣伝用に外出時の切り火を考え出したもので、時代考証上から見て岡っ引き
>の切り火は不自然だとしている。一方、全国各地の鳶職や花柳界では、切り火が頻
>繁に行われていたこともあり江戸期まで遡れるとする説もある。
……まあ、この記述をベースにしたとすれば (あくまで仮定)、「この習慣は、明治時代に
入って、マッチの普及で売り上げが落ち始めた火打石の業者が、宣伝用に考え出した
ものだとされる」と断言口調になっても無理はないのかなあという気もする。ちなみに、
現時点での Wikipedia の記述は以下の通り。
http://ja.wikipedia.org/wiki/火打石
>日本の時代劇の一幕で火打ち石を打つのをよく見かけるが、これは厄除けのために
>行ったものであるといわれる。すなわち、古来火が清浄なものとする考え方から、火打
>石で火花を起こすことを切火(きりび)を切るともいい、身を清めるまじないや、火が魔
>除けになるという信仰的な(お祓い)としての意味である。ただし、樋口清之(國學院
>大學名誉教授)は、「切り火の習慣が定着したのは明治時代に入りマッチの普及で需
>要が落ち始めた火打石業者が宣伝用に外出時の切り火を考え出したもので、時代考
>証上から見て岡っ引きの切り火は不自然だ」としている。しかし、火の文化史の研究
>者である和光大学の関根秀樹によれば、宝暦年間の平賀源内の著作『太平楽巻物』
>に切り火の場面が描かれ、山東京伝『大晦曙草紙』にも、浮世絵や川柳にも類例があ
>ることから、江戸時代中~後期に厄除の切り火の風習があったことは確実であるとい
>う。また、鳶職や花柳界、柴又の門前町、東京下町の職人社会などでは、2000年代
>の現在も毎朝切り火を行う風習が残っているという。
ただし、この項にかぎっていえば、Wikipedia からのコピペとも考えにくい。唐沢俊一は、
「火打ち石によって起こされた火花は、生まれたての『きれいな』火花であるため、『厄』
を打ち払う効果があるとされる」と書いているが、これは Wikipedia その他の資料で目に
することのできる「古来火が清浄なものとする考え方」などの記述とは、少々ニュアンス
が異なる。以下の資料には、「生まれたばかりの火」と書いてあって唐沢俊一の文章に
近いが、生まれたてだから「きれいな」火花だとしているわけでもなさそう。
http://www.mytown-club.net/kemkam/n-shop15.htm
>きり火って何?
>日本では火には清めの力があると考えられ、広く火の信仰があります。また、火打石
>から生まれたばかりの火を人の肩越しに前方へ飛ばすと「邪を払ってくれる」とされ、
>この仕草を「切り火を切る」と言います。時代劇などでカッカッと音を立てて外出する
>家人を送り出すおかみさんの図・・・その習慣は江戸時代からとも、マッチの生まれた
>明治時代からとも。
それはともかく、この「切り火」の話は、言葉の定義というか適用範囲をある程度明確に
しないと、無駄に話がややこしくなりそうなので、できるかぎり整理しつつやってみたい。
唐沢俊一は「切り火」のことを、「火打ち石を打ち鳴らして、火花を散らすこと。本来は、
火打ち石を打ち鳴らして、生じた火花そのものを指す」と、やや意味不明な定義をして
いるが、辞書上の定義は下記の通りである。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=切火&dtype=0&stype=1&dname=0ss
>[1] ヒノキなどの堅い板にヤマビワなどの堅い棒を錐(きり)のようにもみこんで起こし
> た火。また、火打ち石と火打ち金とを打ち合わせて起こした火。古代から行われた
> 発火法の一。
>[2] 旅立ちの人、仕事に出る芸人などに打ちかける清めの火。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=切火&enc=UTF-8&stype=1&dtype=0&dname=0na
>きり‐び【切(り)火/×鑽り火】
>1 ヒノキ・モミなどの堅い材に細い丸棒をもみこみ、その摩擦熱でおこす火。
>2 火打ち石と火打ち金(がね)を打ち合わせておこす火。
>3 旅立ちや外出などの際、火打ち石で身に打ちかける清めの火。「―を打つ」
堅い木材に丸い棒を錐のようにもみこんで、摩擦熱でおこす火も「切り火」であるとの
ことだが、これはまあ今回の話からは除外するとして。
「火打ち石と火打ち金とを打ち合わせて起こした火」という意味とすると、これは江戸
時代にはもう、「一般庶民にも普及」していたということでよいだろう。
http://www.d3.dion.ne.jp/~makiuchi/sub1.htm
>平安時代にはまだ庶民の手には届かない貴重な御神宝でしたが、江戸時代になると
>一般庶民にも普及し、かまどやあかり、タバコの火を付けるのに使われるようになりま
>した。
〈略〉
>火打石には火おこし道具としてのほかに古くから厄除け縁起担ぎとしての使い道も
>あります。出がけに「いってらっしゃい」と切り火で送り出されるのは清々しく気分の
>いいもの。
>左の絵は芸者さんが置屋から出てゆくところでしょうか良いことがあるようにと女将さ
>んがカチカチッと切り火を切っているところ、縁起の悪いことや危険な目に遭わない
>ようにと今でも伝統を重んじる職業の人・芸能人・落語家・花柳界・とび職・大工など
>危険な業務に従事する人に愛用されています。
(上でいう「左の絵」とは、http://www.d3.dion.ne.jp/~makiuchi/ukiyoe1.jpg の図)
留意するべき点のひとつは、「石を二つたたいて火花を出す」のではなくて、辞書の定義
にもあるように、「火打ち石と火打ち金とを打ち合わせて」火花を出す、火を起こすのだと
いうことかも。
http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/edojidai_no_seikatsu01.htm
>もし、右の写真のように、この石を二つたたいて火花を出すという使い方を思い起こさ
>れたとしたら、それがここで言う誤解です。
> 確かに、江戸時代では、職人や花柳界の人びと、危険な職に就いている人びとが、
>これから仕事に出かける際に、切り火をして出かけていきました。
> たとえば、TV番組では、銭形平次や半七親分のように、目明かしの親分がこれから
>命がけの仕事に出かけるという場合に、奥さんが火打ち石を使ってカチカチと「切り
>火」をだすというシーンが出てきます。
> 古来、火の神は家を守る最高神とされ、火には、呪術的な魔除けの力があるとされ
>ていました。切り火は、邪をはらい浄化するための行為と考えられていたのです。
> しかし、TVや映画では、その場面を間違った形で表現している場合が往々にしてあ
>り、それが、誤解を作ってしまっています。
> TVや映画では、右上の写真のように、石を二つぶつけて「切り火を作る」シーンが
>多く見られ、これが普通のやり方と自然に思っている方が多いのです。
> 切り火を作る方法は、こんな方法ではありません。
〈略〉
> つまり、火打ち石で火花を出す場合、石を二つぶつけても火花は出ないと言うことで
>す。反対に言えば、火花を出す金属が必要なのです。
> これは、一般にはあまり知られていませんが、その火花を出す金属は、「火打ち金」
>(ひうちがね)と呼ばれています。
〈略〉
>板倉聖宣著『サイエンスシアターシリーズ 熱と火の正体-技術・技能と科学-』
>(仮説社 2003年10月)
>
> P75 「火打石発火法では、火打石より火打金のほうが大切な役割をはたしている
> ように思われます。それなのに、多くの人びとは「火打石」のことばかり知っていて、
> 「火打金」のことを知らないでいます。日本だけではありません。ヨーロッパでも、火
> 打金より火打石=フリントのほうが有名です。どうしてでしょうか。私は長い間そのこ
> とが疑問でしたが、最近やっと、その謎がとけた気がするようになりました。
> じつは、大昔の人びとは、<火打金というような特別な道具>を使わなかったよう
> なのです。農具の鍬や鎌のように硬い鋼があれば、それに火打石を打ちつけて火の
> 粉をとばすことができたからです。・・・中略・・・昔の人は「かたい鉄=刃金がなけれ
> ば、火打石だけでは火花がとばない」ということを十分承知しながら、「火打石」とだ
> け言ったのでしょう。そこで、後世の<火打石を使って火を起こすことがなくなった時
> 代の人びと>は、誤解することになったというわけです。」
……はい、私もずっと、石と石とを打ちつけるものだと思っていました――としかいえない
というか。前述のように辞書には「火打ち石と火打ち金とを打ち合わせて」と書いてある
し、Wikipedia の方にも下記のような記述があるのに、上に引用したページを見るまで、
それがきちんと頭にはいっていなかったという……。
http://ja.wikipedia.org/wiki/火打石
>石器時代のヨーロッパの一部で石と石(黄鉄鉱とフリント)を打ち合わせて火を起こし
>た形跡はあるが、後の時代には鋼鉄製や鋼に木の取っ手を付けた火打金(ひうちが
>ね。関東の方言では火打鎌・ひうちがま)と呼ばれる道具に火打石を打ち付けて火花
>を飛ばすようになった。
よく見れば、http://www.d3.dion.ne.jp/~makiuchi/ukiyoe1.jpg の図も片方は火打ち金
っぽい。
で、まあ、自分が勘違いしていたからいうわけではない (?) が、唐沢俊一も同様の誤解
をしたまま文章を書いていた可能性がかなり高い。「火打ち石を打ち鳴らして」とのみ、
3 回も繰り返しているだけだし (「火打ち石を打ち鳴らす」の 1 回を足すと全部で 4 回)。
で、繰り返しになるけど、火打石をつかって火を起こしていたという意味での「『切り火』
の習慣は、実は明治時代に広まったもの」とは、唐沢俊一を含め、誰も主張はしていな
いとして。
問題は、辞書の定義でいう「旅立ちの人、仕事に出る芸人などに打ちかける清めの火」
や「旅立ちや外出などの際、火打ち石で身に打ちかける清めの火」といった厄よけの
意味の方ではないかと思うけど、「清めの火」という意味にしても、以下に示すような例
は、「樋口清之(國學院大學名誉教授)」が主張しているという「切り火の習慣が定着し
たのは明治時代に入りマッチの普及で需要が落ち始めた火打石業者が宣伝用に外出
時の切り火を考え出した」うんぬんの影響下にあるとは考えにくい。
http://tanpopojyo.exblog.jp/i61/
>あさがお市の期間中のみ販売している身体健全のお守りは、購入すると火打ち石で
>切り火を切って、厄を祓っていただけます。こちらは(大)で800円
http://sinakan.jp/joyful/joyw2.cgi?mode=find&page=0&word=%96k%95i%90%EC&view=20&cond=AND
>境内には福をかき込む言われる縁起物の熊手等を売る店が出て、熊手が売れると、
>切り火と威勢よく手締めをする。
http://plaza.rakuten.co.jp/kulinko/diary/200901090000/
>さて真昼の夢みたいな千本鳥居を抜けたら、お山一(アヤシイスポット)の「熊鷹社」。
>ここではお供え物や蝋燭を買ったら、(巫女ではない)売り子さんが切り火を切ってくれ
>ます。
まあ唐沢俊一は、「時代劇でおなじみ」、「一家の主が出かける前にその安全を祈願し、
あるいは、帰宅時に、外の厄を打ち払うために、玄関先で火打ち石を打ち鳴らす習慣」、
「時代劇で、亭主の出掛けに女房が、火打ち石を打ち鳴らして縁起を担ぐ、『切り火』。
この習慣」と限定しているようなので、樋口清之の主張したという「外出時の切り火」、
「時代考証上から見て岡っ引きの切り火は不自然」の範疇にはいるかなとも思う。
となると、下記のような「花魁の火打ち」の絵があるといっても、また話が別ということに
なる。
http://bigai.world.coocan.jp/msand/powder/hiuchi.html
>浮世絵にある花魁の火打ち
そして、「火打石業者が宣伝用に」というのは確かにありそうな話で、たとえば、
http://www.maruara.com/hpgen/HPB/entries/16.html に引用されている図
http://maruara.com/pic-labo/hi1.jpg などは、明治以降に雑誌の広告で使われて
いたものではないかと思わせる描線だったりする。
また、現在 Web 上で探せるページで、昔からの習慣だと主張しているものは、「火打石
業者」の書いているものか、そこからの引用であることが多いのも事実。
個人的には、Wikipedia の「和光大学の関根秀樹によれば、宝暦年間の平賀源内の著
作『太平楽巻物』に切り火の場面が描かれ、山東京伝『大晦曙草紙』にも、浮世絵や川
柳にも類例があることから、江戸時代中~後期に厄除の切り火の風習があったことは
確実」というのは説得力あると思うし、杉浦日向子も以下のように主張しているし――とは
思っているのだけど、樋口清之の主張を否定するだけの材料を集められなかったので、
その点については保留ということで。
http://book-sakura.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/1171998-3b0a.html
>117『一日江戸人』 杉浦日向子 初版1998年
〈略〉
>「箱根からこっちに下戸と化け物はいない」と豪語した江戸っ子たちもまた「朝もよし、
>昼もなおよし」を地でいっていました。まず、朝。仕事に出る前に、茶碗半分くらいを
>軽くひっかけます。これは、戸口のところで、火打ち石をカチカチやる「切り火」と同じ
>ように、厄災をはらう縁起ですが、朝の一口は、活を入れるドリンク剤の効果もありま
>した。
http://blogs.yahoo.co.jp/syouryouzan/23310956.html
>火打ち石でのお祓いは、大正の頃にマッチにおされて売り上げが減った火打ち石業
>者が、火付け以外の用途として考案したもので、江戸時代に時代劇のような使い方は
>なかったそうですが…宗教家の間だけでは行われていて、それが業者のヒントになっ
>たのでしょうか。
>2006/12/4(月) 午後 1:04 [ kan*tak*167* ]
>
>kan_takaさま>時代劇のように、出かける人に切り火を行う様子を描いた浮世絵の写
>真を何枚か見たことがありますが、細部が見とれなかったので、それが江戸期のもの
>か、明治以降の浮世絵なのかはわかりませんでした。
>2006/12/4(月) 午後 9:11 [ 経凛々 ]
〈略〉
>記録では江戸時代の初めに、今の群馬県で鍛冶師・孫三郎の妻『りう』が火打金を
>つくって売り出したところ、埼玉県秩父の三峰峠観音寺を参詣した人が盛んに購入し
>て、江戸で評判になったとあります。これを、ただの『旅行のお土産』と考えるか、『寺
>院参詣のちなむ縁起物』と考えるかによって、火切祓の普及時期の考察がかわるか
>もしれませんね。
>2006/12/4(月) 午後 9:24 [ 経凛々 ]
保留とかいいながら間違い探し編にいれているのは、「火打ち石を打ち鳴らして、火花を
散らすこと。本来は、火打ち石を打ち鳴らして、生じた火花そのものを指す。」という唐沢
俊一流の「切り火」の定義があんまりなためと、「時代劇でおなじみ」なのは、石と金属
ではなく石と石とを打ちつける仕草であり、それは「明治時代に広まった」りはしていない
ため。
その他参考 URL:
- http://blogs.yahoo.co.jp/yacup/58992240.html
- http://blogs.yahoo.co.jp/vangardthirty/13085949.html
- http://www.ise-miyachu.co.jp/item_hiuchiishi/menu_hiuchiishi.html