2010.04.29 (Thu)
井上ひさしについても時空を歪ます
http://megalodon.jp/2010-0429-2056-06/www.tobunken.com/news/news20100426190045.html同人誌
2010年4月26日投稿
遅筆過ぎた男(訃報 井上ひさし)
私の一生のうちの三分の一は、この人の才能に驚いてばかりだった。
『ひょっこりひょうたん島』のドン・ガバチョこそ人生で最初に
「こういう人になりたいものだ」
とあこがれた人物だった。
『長靴をはいた猫』を観たときは、こういう映画を自分は作りたいんだ、
と真面目に思った。
『ブンとフン』を読んだときは、小説は真面目でなくてはいけない、という
概念をぶち壊された。
『表裏源内蛙合戦』を読んだ(戯曲集で)ときには、舞台というものは
ここまで楽しいものなのか、と思った。
『ムーミン』の主題歌を聞いたときには、あそこまで単純な歌詞をあそこ
まで技巧的に使う、そのテクニックに舌をまいた。
『薮原検校』を観た(舞台で)ときには、ここまでどろどろとした人間の
怨念を笑いで表現することが可能なのか、と驚いた。
井上ひさしの才能は本当に輝いていた。こういう人を天才と言うのだろう、
と素直に信じていた。
あれ? と思い始めたのは『四捨五入殺人事件』くらいからだっただろうか。
面白いことは面白いのだが、あまりに露骨に農家を国の政策の被害者という
神聖な立場に置き、無謬に彼らの行なうことを正当化しているその姿勢に
首をかしげざるを得なかった。そのちょっと前あたりから、氏は如実に、また急速に
反戦反核、反体制の典型的知識人へと傾斜していっていた。
反戦平和もいいだろうが、彼の説く平和理論はあまりに理想的に過ぎ、
また原理的に過ぎて、ツッコミを入れるというより先に論理が破綻しており、
こういうことに関して書くとき、この人は理性というものが働かなくなる
のではないか、とさえ思わせた。
北朝鮮への経済制裁にも真っ先かけて反対を唱えていた。かの国が農本主義
の国だからだろう。
そして、そのあたりから、彼の書く作品は首をかしげざるを得ない
ものが多くなっていった。
平行して、彼の遅筆は加速され、書けないいらつきを家庭内暴力
で発散させるようになり、妻や娘たちにも背かれていった。
『圓生と志ん生』は、満州に渡った昭和の落語の二大名人を主役に据える
という素晴らしいアイデアをさっぱり活かしていない凡作で、
しかも、新聞の批評に“落語の知識がない”とけなされたことをよほど腹に
据えかねたのか、単行本のあとがきに、それへの反論“のみ”を激語で書き
つけるという異常ささえ見せていた。
僕の、あのあこがれの作家だった井上ひさしはどこに行ってしまったんだ、
とずっと思ってきた。好きだったから、ずっと読み続けてはいたけれど、
読み続けること自体が苦痛になってきていたのがこの十年の年月だった。
4月9日死去、75際。
75という享年はいかにも若い。しかし、何か訃報を聞いて、
ホッとしてしまった、というのが正直なところなのが
悲しくてたまらない。
井上ひさし関係の作品でベストを一作上げれば、必ずしも傑作では
ないけれど、甘くほろ苦い青春時代を描いた『青葉繁れる』を
あげたい。岡本喜八の映画化作品がまた、テンポよくこの作品をまとめて
映像化していて、佳作という言葉がにあう、素晴らしいものだった。
冥福を祈る、とはクリスチャンである氏に使うのは適当でない言葉かも
しれないが、今はただ、あの世で政治や戦争のことは頭から洗い流し、
あの才知の冴え渡った初期脚本の輝きをまた取り戻して欲しい、と
切に祈るものである。
×75際 ○75歳
×『薮原検校』 ○『藪原検校』
×『圓生と志ん生』 ○『円生と志ん生』
前エントリーと同様、唐沢俊一が自分のサイトのなぜか「同人誌」のコーナーに、「2010
年4月26日投稿」の追悼文を五連発しているうちのひとつ。
「75際」はまあ、単純な誤変換なのだろうけど、よりによって「何か訃報を聞いて、ホッと
してしまった、というのが正直なところ」とか不穏当なことを書いているその近くでやらか
さなくともよいような気がする。「薮原検校」や「圓生と志ん生」は、マジで間違えている
可能性が高い気もするが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/藪原検校
>『藪原検校』(やぶはらけんぎょう)は、井上ひさしの戯曲。
>1973年(昭和48年)に「西武劇場オープニング記念・井上ひさし作品シリーズ」の第1
>弾として「五月舎」の制作により初演(木村光一演出)し、好評を得る。それ以降も「地
>人会」の制作で繰り返し上演される人気演目となり、1990年にエディンバラ国際芸術
>祭にて最優秀演劇賞を受賞、香港、ニューヨーク、ロンドン、パリなど世界各都市で上
>演されている。2007年にはホリプロ / Bunkamuraの制作で、蜷川幸雄の新演出によ
>る公演が行われた。
http://www.amazon.co.jp/dp/4087747654
>円生と志ん生
>(単行本)井上 ひさし (著)
〈略〉
>発売日: 2005/8/5
それ以上に、「『薮原検校』を観た(舞台で)」は「舞台で観た」ではいけないのですか、
「『表裏源内蛙合戦』を読んだ(戯曲集で)」は「戯曲集で読んだ」ではいけないのです
か――と“仕分け”したくなるような気もするのだが、おいといて。
それよりも気になるのが、井上ひさしが「反戦反核、反体制の典型的知識人」であった
ことへの非難に行数の多くをついやす構成のまずさ――いくら左翼嫌い、共産党嫌いの
唐沢俊一の文章としても、これは少し酷過ぎるのではないかと――と、何だかまた時空を
歪ませているのではないかという疑惑についてである。
前者については、褒める言葉に比べて非難する言葉の割合があまりに多いバランスの
悪さのせいで、「僕の、あのあこがれの作家だった井上ひさし」という唐沢俊一の言が、
説得力をいちじるしく欠くものになってしまっていると思う。
そして、後者についてはまず、「私の一生のうちの三分の一は、この人の才能に驚いて
ばかりだった」と唐沢俊一は書いていることに違和感がある。
唐沢俊一が褒めている作品は、1960 年代後半から 1973 年頃までのものにのみ集中
しているのだ。1958 年生まれの唐沢俊一は 1973 年の時点で 15 歳。……まあ、現在
51 歳の唐沢俊一は、自己イメージではまだ 45 歳くらいのままであると考えれば、それ
なりに辻褄はあう (?) のかもしれないが。
以下、Wikipedia (http://ja.wikipedia.org/wiki/井上ひさし) からの引用。
>ひょっこりひょうたん島(1964 - 1969年 山元護久と共作。NHK総合テレビ)
>ブンとフン 1970年 朝日ソノラマ のち新潮文庫
>ムーミン(1969年 『ムーミンのテーマ』作詞他)
>表裏源内蛙合戦(1970年初演 テアトル・エコー。熊倉一雄演出)
>藪原検校(1973年初演、木村光一演出)
>青葉繁れる 1973年 文藝春秋 のち文庫 岡本喜八監督で映画化
>四捨五入殺人事件 1984年6月(新潮文庫)
または、「あれ? と思い始めたのは『四捨五入殺人事件』くらいからだっただろうか」
とも書いているので、この作品までは「この人の才能に驚いてばかりだった」ということ
なのかな――とも思ったが、『四捨五入殺人事件』は 1984 年の作で、このとき唐沢俊一
は 26 歳の計算。これだと「私の一生のうちの三分の一」ではなく、「私の一生のうちの
二分の一」ということになってしまう。
三分の一だ二分の一だという問題以外にも、1969 年当時の11 歳くらいの唐沢少年の
感想として、『長靴をはいた猫』を見て「こういう映画を自分は作りたいんだ、と真面目に
思った」とか、ムーミンの主題歌を聞いて「あそこまで単純な歌詞をあそこまで技巧的に
使う、そのテクニックに舌をまいた」いうのは少し不自然な気がしたし、1970 年発表の
「『ブンとフン』を読んだときは、小説は真面目でなくてはいけない、という概念をぶち壊さ
れた」とは、小学生の頃から「ユーモア小説をクリスマスプレゼントでもらった」りしていた
12 歳の少年の感想としては、ちょっとないのではないかと思ったりする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/長靴をはいた猫
>長靴をはいた猫は、東映動画(現・東映アニメーション)の長編アニメーション。1969年
>(昭和44年)『東映まんがまつり』の内の一作として公開された作品。通称長猫。DVD
>は2002年7月21日発売。原作をベースに、宇野誠一郎の音楽や歌、また井上ひさし、
>山元護久の脚本によるストーリー、東映動画黄金時代のアニメーターによる作画など
>により、『わんぱく王子の大蛇退治』、『太陽の王子 ホルスの大冒険』、『どうぶつ宝
>島』などと並んで第一級の作品として定評がある。
『古本マニア雑学ノート 2冊目』 P.116
>これは小学生になってからだが、岩波書店から出ていた『ゆかいなホーマーくん』と
>いうユーモア小説をクリスマスプレゼントでもらったときにはうれしくてうれしくて、宝物
>のように大事にしていた。
もっと時系列的にわけがわからないのが、「読み続けること自体が苦痛になってきていた
のがこの十年の年月だった」のくだり。
唐沢俊一は、「そのあたりから、彼の書く作品は首をかしげざるを得ないものが多くなっ
ていった。」とか書いているが、「そのあたり」とかいっている『四捨五入殺人事件』は、
前述の通り 1984 年のもので、10 年どころか 20 年以上前の作品である。
また唐沢俊一の文章でいう「書けないいらつきを家庭内暴力で発散」は、西舘好子著
の『修羅の棲む家』が出版された 1998 年 (12 年前) よりもさらに前、井上ひさしが
直木賞を受賞した前後の頃からというから、1972 年――唐沢俊一が「この人の才能に
驚いてばかりだった」頃――にはすでに……という計算になる。
http://www.amazon.co.jp/dp/4893612700
>修羅の棲む家―作家は直木賞を受賞してからさらに酷く妻を殴りだした (単行本)
>西舘 好子 (著)
〈略〉
>内容(「MARC」データベースより)
>直木賞を受賞してからさらに酷く妻を殴りだした。作家とは、狂気が乗り移り、その狂
>気によって何ものかを作る人なのだろうか-。大騒動の離婚劇を演じた著者が、井上
>ひさしとの波乱の日々を、懐かしさを込めつつ回顧する。
〈略〉
>出版社: はまの出版 (1998/10)
唐沢俊一は、その家庭内暴力と、2005 年に単行本が発売の『圓生と志ん生』 (正しくは
『円生と志ん生』) とが、ほぼ同時期のできごとのように書いているので頭が痛い。仮に
『修羅の棲む家』が出版された 1998 年の頃を、「妻や娘たちにも背かれていった」時期
として解釈するとしてもなお、『円生と志ん生』とは 7 年の開きがあるし、「この十年の年
月」の中にはおさめられないし。
で、もしかしたら一番トンデモないのは、「新聞の批評に“落語の知識がない”とけなさ
れたことをよほど腹に据えかねたのか、単行本のあとがきに、それへの反論“のみ”を
激語で書きつけるという異常ささえ見せていた。」というあたりの記述かもしれない。
『円生と志ん生』の後書きは読んでいないのでどれだけ凄いものかはわからないのだが
(←おい)、とにかく唐沢俊一的には、書評でけなされたことの「反論“のみ”を激語で書き
つける」のは、「異常ささえ見せていた」との非難にふさわしい行為ということらしい。
しかし、唐沢俊一は、かつて自分が『星を喰った男』の「文庫版あとがき」を、「Yという
ゴロ」や、「唐沢という男は潮健児を私物化している」と非難したファンたちへの、恨み
つらみの言葉で埋めたことは……多分異常だとは思っていない。少なくとも、唐沢俊一
自身がそれを反省したようなことを書いているのは読んだことがない。逆に、Yという
心霊ゴロについての罵倒は、『唐沢俊一のカルト王』など別の本で繰り返したりしては
いたけど。
・『星を喰った男』の「文庫版あとがき」 2 ページ目
・星を喰った男を食い物にした男、唐沢俊一